狐の嫁入り

楠 菜央

第1話

 山野にとつとして小さな炎が生まれた。それが種火となって数を増し、連なって闇夜にゆらめく一筋の光となった。

 将司しょうじは、それが列を成す人の群れであることに気が付いた。

 彼らが向かう先はおそらく、ここ――。



 人里離れた山奥の一軒宿。宿泊者たちが浴衣に羽織を重ね、興奮した面持ちで「怪火かいかだ」と外に飛び出した。

 将司もまた部屋の窓からこの光景に気付き、浴衣姿で宿の外へと出た。履き慣れぬ下駄を不器用に音立てながら。


 周りでは興味深そうにその光景を眺め、宿が企画したもよおしだろうと声をはずませている。

 静寂に一歩一歩、地を踏みしめる草履の音が響いた。

 宿の前の舗装された道路に彼らの姿が現れると、その全貌があらわになった。


 手元には松明たいまつを掲げて歩いている。

 先頭には仲人、その後ろには白無垢の女、そして後を続くように紋付きはかま、黒留め姿の付添人、花嫁の両親と思しき者たちがいた。誰もが狐面を被っている。


 言わずもがな、狐の嫁入り――。

 


 皆の歓声が上がる中、その一行が宿の前で足を止めた。

 仲人と付添人が静かに将司を見やると、挨拶でもするかのようにこくりと頷いた。

 周りの宿泊客が怪訝けげんそうに見つめる。老いたこの男がこの婚礼の儀にいったいどう関わりがあるのだろう、と言わんばかりに。


 だが、狐面をかぶった誰もが将司に視線を向ける。

 将司ははにかみながらゆっくり歩を進めると、彼らにうながされるように花嫁の前に立った。


 彼女の顔など見えない。だが、控えめに差し出した彼女のその手に見覚えがあった。 いや、触れて分かった、という方が正しい。指先のささくれは彼女の小さな悩みだったのだ。

 将司はいつくしむようにそれに触れた。


「来てくれたんだね。ずっと待っていたよ」


 狐面の奥で彼女が照れくさそうに笑ったように見えた。



 ◇ ◇ ◇



 五十年前、彼女は通り魔に殺害された。ひどい暴行を受けて。

 生きていてほしかった。だが、生きていれば、彼女は生きることに苦しんだのではないか、とも思う。

 彼女の遺体と対面したとき、その手に触れて将司は涙を流した。指先にできた小さなささくれに乾いた血の痕が残っていたからだ。


 苦しかっただろう。辛かっただろう。最後に何を思ったのだろうか。彼女の目に最後に浮かんだものが自分の姿であればよいと思いながら、婚約者として彼女を荼毘だびに付した。


 

 それからというもの、将司は毎日、彼女の命の灯火が消えた時刻に近くの稲荷神社へ行き、すがるように願った。

 犯人への復讐ではない。どんな形でもいい。再び彼女と会わせてはもえらないだろうか、と祈ったのだ。


 だが、せいぜい夢に見るくらいで、それも日に日に色せていった。

 もう彼女の声も思い出せない。

 だが、それでも彼女に会いたいという想いは変わることがなかった。


 

 彼女を失い、五十年を経た今、将司は自分の命がもう長くないと悟った。

 最後に、彼女と旅をしたこの宿をもう一度訪れたいと思った。

 来てみれば建物こそ変わっていたが、周りの景色は五十年前とひとつも変わっていなかった。

 夕食後、部屋の窓から外の景色を懐かしんで見ていたとき、炎を揺らめかせながら山道を練り歩く一行を目にしたのだ。


 狐面を被った彼ら。

 狐は人を化かすという。

 だが、構わない。

 大いに化かしてくれ。


 

 ◇ ◇ ◇


 

 花嫁の手を取る将司の肩に、付添人たちが紋付の羽織をあてがった。


「私にもその面はないのだろうか? 私はもう年老いて、彼女には似つかわしくない」


 将司の言葉に、仲人がどこからか狐面をどこからか取り出し、手渡した。

 将司がそれで顔を覆うと、あろうことか目の前の彼女の顔がくっきりと見えたのだった。

 つぶらな瞳、通った鼻筋、薄い唇、白い肌に紅をさした薄い唇。昔愛した彼女の姿そのものであった。


 将司の目から一粒の涙がこぼれた。

 彼女の目に映る自分の姿も、きっと彼女の知る若い頃の自分なのだろう、と思った。


「さあ行きましょう」


 仲人の言葉に、将司は彼女の手を取り共に歩き出した。

 宿泊客の盛大な拍手に見送られながら。



 ◇ ◇ ◇



 翌朝、宿の一室で、老いた男が息絶えていた――。




          〈了〉

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狐の嫁入り 楠 菜央 @kusunokinao

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