第2話

 千奈を寝かしつけてから、明日は燃えるゴミの日であることに気づいた。朝の八時にはゴミ収集車が来る。朝なんて千奈の世話や自身の着替えや化粧をしていると一時間が一秒のように過ぎていく。しかも夫は夜勤で朝に帰ってくるとゴミを出す元気もなく寝てしまう。

キッチンに設置したゴミ袋はビニール素材の限界まで膨らんでいた。昨年から市役所が発行するゴミ袋の無料チケットが廃止されてしまい、あまりゴミ袋を消費したくない。彩佳は拳でゴミを押し込み、歯を食いしばって取っ手を結んだ。片手では持ち上げられず、両手で持ちあげ、脚で蹴りながら玄関まで進んだ。ドアを一度開けっぱなしにしてゴミ袋を玄関外に出し、ドアを閉める。両手に息を吹きかけて、再度ゴミ袋を持ち上げる。道を直進して左折するとすぐにゴミステーションがある。

「オラ、オラ、よいしょ、重いなくそお」

 千奈の前では決して言えない乱暴な言葉で自らを鼓舞し、真新しい一軒家の立ち並ぶ道をいそいそと歩いた。ゴミステーションに捨ててドアを閉めると、解放感が足元から頭上に突き抜けた。自宅から十キロ近いゴミが減ったと思えば室内が一気にきれいになったような気がしてきた。

 自宅に帰ろうと道を曲がったとき、自宅の前に黒い影が見えた。同じようにゴミを出す人だろうかと思ったが、ゴミ袋を携えていない。腰を折り曲げて両腕がふらふらしながらじめんにつくこともある。玄関の前でぐるぐると回って、明らかに自宅を伺っている様子だった。

「しまったっ」

 玄関のドアの鍵を締め忘れていることに気づいた。もしあれが猿ならドアを開けられて中に入ってしまうかもしれない。

 生地が伸びないタイトスカートを膝上までたくし上げ、先ほどとはまるで違う大股で走り出す。一軒家の窓から誰かに見られ散るかもしれない、という恥ずかしさなど感じる余裕もなく、「こらあ!」と怒鳴りながら猿に向かっていく。猿のような影は怒声か異様な走り方で向かってくる彩佳におののいたのか、すぐに自宅の裏の方へ走っていった。彩佳はいったん、鍵を締めてからすぐに猿のあとを追いかけたが、もうどこにもいなかった。

 自宅の中に入り、鍵とドアガードで施錠して部屋に上がった。リビングが荒らされている形跡はない。洗面所も浴室もトイレも異常はなかった。二階に上がり、千奈の寝ている寝室のドアノブをゆっくりと下げ中に入ると、千奈の寝息がすうすうと聞こえてくる。ふっくらとした頬に触れようとすると手を洗っていないことに気づいた。

 洗面所に向かい手を洗っていると、何か引っかかりを覚えた。ふと顔を上げると、鏡に映る自分の顔がほんのりと赤く、鼻はひらべったい。のっぺりと盛り上がった口の上部には白いひげが短く生えていた。明らかに猿の顔だった。

「きゃ? きゃきゃきゃ?」

 どういうこと? と話したつもりが、出てくる声はふざけているのかと思うほど甲高い。顔に触れてみると肌の感触ではなく、固い皮だった。途端に腕がむずがゆくなってさすってみるとこちらも地肌ではないガサガサした感触が手のひらから伝わってきた。毛穴から灰色と茶色が混在した体毛がにょきにょきと生えてきた。あっという間に地肌を覆い尽くし、体毛に覆われてしまった。こうなると服を着ている状態が窮屈でたまらない。ブラウス、キャミソール、ブラジャー。つぎつぎと剥ぎ取り、全裸になると解放感に包まれた。

「きゃきゃきゃきゃ。きゃきゃきゃきい」

 一体、わたしはどうなってしまうんだろう。誰か助けて。そう言ってみるもただの鳴き声しか出てこない。これでは夫に電話したところで何も伝わらない。千奈になど見られた暁には発狂してしまうだろう。いや、千奈は物珍しさにすり寄ってくるかもしれないが、私が気絶してしまう

 リビングからインターフォンの音が鳴った。反射的にドアフォンまで向かう。二本足より四本足で歩く方が楽になっていた。カメラを除いて「きゃきゃっ」と思わず叫んだ。彩佳の姿かたちをした人間がそこに立っていた。

 猿彩佳はドアロックと鍵を外してドアを開けると、まさに彩佳がそこにいた。

「変わっちまいましたね。この人、あんたでしょう」

 目の前の自分、人間の彩佳は自身を指差して言った。明らかに自分とは違う喋り方。でも自分の容姿をした人間。そして猿になった自分。もう何が何だか一切理解不能になった彩佳は完全に身動きが取れなくなった。

「いや気持ちはわかりますよ。俺も猿になったときは意味不明でしたもん。でも諦めてください。次に誰かと交代するまではあんた、猿のまんまです。大丈夫です、俺、あんたとして生きていきますんで。女の身体はよくわかんねえけど、まあセックスは女の身体の方が男より七倍気持ちいいって言うし、それでもいいかなって思ってますよ」

 なんなのこいつ気持ち悪い。そう思っているうちに彩佳の容姿をした人間は玄関に上がってきて、猿彩佳の首根っこを掴み外に放り投げた。空中に浮かんでいる間、反射的に体を翻して、アスファルトの地面に難なく着地した。けがはないものの猿としての本能が開花したみたいで不気味だった。しかもドアは閉まり、鍵の音がした。猿彩佳は何度もドアをノックしたが応答はなかった。

 リビングの大窓に移動して強く叩き続けていると、カーテンが開いた。差し込んでくる光がまぶしくて目を細めたが、すぐに見開いた。千奈の眠たそうな顔が出てきた。

「きゃきゃっ」

 千奈、開けて! 助けて!

 千奈に向かって必死に身振り手振りをするが、千奈は首傾げるだけだった。当然猿になったことなど信じられるはずがない。

「ごめんね、おさるさん、あぶないからちかづいたらだめっておかあさんにいわれたんだ」

 窓越しのくぐもった千奈の声が聞こえてくる。千奈はカーテンを閉めた。なんということか。自分の教育が完全に裏目に出ている。

「くぉるあああああ。この糞猿! ここの家に入ろうとすんじゃねえぞ」

 恐ろしい剣幕の怒声を見るとはす向かいの旦那だった。動物嫌いで昔、猫をバットで追いかけ回した、という恥の武勇伝は猿になった彩佳にとって恐怖でしかなかった。木岡の旦那は今まさにバットを振り上げてこちらに向かっていた。

 猿彩佳は四本足を稼働させて必死に逃げた。自分でも驚くほどスピードが出ており、あっというまに逃げることができた。

 目の前には畑があった。住宅地のなかで余った土地を老後の趣味として耕されたような小規模の畑だった。あの老人の家だった。千奈を保育園に送りに行くときによく話をしている。かなり暗いはずなのに、トマトやニンジンがある気がする。

 心の中で老人に謝り、香りのする方へ向かうとプチトマトがあった。一つもぎとって食べるとほんのり酸味のある味が広がっていく。乾ききっていた喉にありがたい瑞々しさだった。あっという間にプチトマトを食べ、空腹が一段落したところで、自らの未来を考えてしまった。どう考えても絶望。いや、自分の姿をした人間は言っていた。交代。何かをすれば変わる。もしかしたらまた彩佳に戻れるかもしれない。

 彩佳は畑を持つ老人の家の天井に登って、身体を縮こませながら眠りについた。

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出没 佐々井 サイジ @sasaisaiji

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