出没
佐々井 サイジ
第1話
こども園の玄関には、隅にシューズやサンダル、パンプスといったバラバラではあるが女性ものの靴がきれいに並んでいた。彩佳は年中の千奈を椅子に座らせて靴を脱ぐように促しつつ、並べられた靴の隙間を見つけて黒いパンプスを脱いだ。
奥の教室からは泣き声が重なって聞こえる。新学期から半年経ったにもかかわらず、母親と別れることを嫌がって泣き喚く子がまだ一定数いる。千奈に視線を移すと、可愛らしい園児用の椅子にちょこんと座り、靴を脱いでいる。その表情はどこか微笑んでいてこれから友達に会うのを心待ちにしているような顔つきだった。安堵が息となってこぼれた。千奈がもし駄々をこねるタイプの子どもだったら今よりも何倍もの負担がのしかかっていただろう。
家庭内では、食べ物を箸で上手く掴めなかったり、うまく絵がかけなかったりすると泣きわめくことが一年ほど続いているがひとたび外に出ると猫を被って大人しくするのは大いに助かっていた。靴を脱いでタンバリンのマークが貼ってある靴棚に入れたあと、手を繋いで廊下を進んだ。
「あ、みっくん」
細く短い指が差している先に千奈と同じたんぽぽ組の幹斗が母親の手を引っ張り、叫ぶように泣いては階段に登ることを拒絶している。先ほどから聞こえてきた泣き声のうち一人は幹斗だった。彩佳は千奈の手を握り直した。
「みっくんはお母さんのことが好きなんだね」
「ふうん」
幹斗の母親に小さく頭を下げ、階段を上り、教室に入ると先生が出迎えてくれ、千奈を連れて教室に入れてくれた。帰り際、千奈が振り返ったので手を振ると、わずかに不安げな表情を浮かべつつも手を振り返してくれた。その表情を見るたびに自分の心臓が握られるような痛みを伴う。理想は保育園にいかず、ずっと千奈の面倒を見てあげたい。寂しい思いなど一秒たりともさせたくなかった。とはいえ、仕事をしている傍らでずっと面倒を見ることなどできるわけがない。母親も義母も自宅からかなり離れているというわけではない。車で三十分ほどかければ着く距離であったが、両方とも過干渉ぎみであり、仕事と育児ですり減らされた神経を逆なでさせてくる。頼む方がストレスだった。
こども園なら、千奈は同年代との触れ合う機会が作れるし、ある程度の教育もしてくれる。実際、いつの間にか服をたたんだり、一日ごとに言える言葉の数が増えたりしている。結果的にこども園に入れたことを良かったと思えていた。
玄関に向かう際に掲示板が目に入った。
『近隣で猿の目撃情報。襲ってくる可能性もあるので、お子様の安全に配慮してご登園ください』
右下には写実的に描かれた猿が黄色い目で読み手を睨みつけていた。紙面から浮き出て顔を引っかかれそうなほど鮮明な絵で、彩佳はすぐに掲示板から目を逸らした。
こども園と彩佳の自宅の距離は徒歩で五分ほどである。自宅付近にも猿が出る可能性が十分にあるということだった。近隣は山や大規模な田畑がない。五件ほど離れたところに小規模の畑を趣味のように営んでいる老人の家があるくらいだった。確かに少し足を伸ばせば畑が広がるところがある。しかし徒歩で行くには遠く、自動車で向かってもニ十分くらいかかる距離感だった。猿は山から下りてきて畑の食物を漁っているうちに住宅街にもきてしまったということだろうか。車に乗ってサイドミラーを確認しながら左折するときにあの猿の黄色い目を思い出し、寒気が走った。
帰宅中の道路で事故が起こっていた影響で交通整備がされており、普段より迎えが二十分ほど遅くなってしまった。早延長室にはいつも園児がひしめき合っているのだが、今日は十名程度と閑散としていた。送迎が少し遅れるだけでかなり人数が減っていた。千奈は彩佳を見つけると、駆け寄ってきて彩佳の脚に抱きついた。いつもこうして抱きしめてくれるのだが、今日は一段と力が強い。千奈にとって二十分はとてつもなく長く感じたのかもしれない。ふんわりと甘い香りのする千奈の頭を撫でながら「ごめんね。遅くなって」と言った。
靴下を取り出して、千奈に履かせている間に、着替え用の袋を教室に取りに行った。千奈の元に戻ってもまだ靴下が履けていない。その時の気分によってすぐ掃けるときと履けないときがある。今日は寂しいからか、なかなか集中できないようだった。
「お母さん、履かせようか」
「ううん、ちなちゃんが、はく」
千奈はもう一度膝を曲げ、靴下を履き始めた。無理やり履かせると機嫌が悪くなって余計に手がかかる。彩佳は聞こえないように鼻から息を吐きながら千奈の様子を見守った。
手を繋いで玄関を出たとき、掲示板で見た、野生の猿の出没注意を思い出した。
「このへんでお猿さん出るんだって」
「あっ、ちなちゃんみたことあるっ」
千奈は握った手を離して身振り手振りを交えて説明し始めた。駐車場だが明らかに説明に集中して動いている車に気づいていない。うっかり走り出しかねないので、振り回す手を追いかけて、もう一度強く繋いだ。
「それでえ、おうちのとこに、こんなおさるさんがいたよ」
千奈は繋いでいない方の手を思い切り回した。自分の身長よりも高い猿がいたことを説明したかったらしい。
「それ、いつ?」
彩佳は半信半疑で訊ねた。擬音語でしか喋れない一歳半のころ、散歩中の老婆を見て「ワンワン」と言ったので何かの動物、もしくは人間と見間違えているのだろうとしか思っていなかった。
「きのう」
「えっ、昨日?」
千奈は大きく頷いた。「おうちのまどにね、みえたの」
「あのね、ちな。もし、本物のお猿さんだったら、千奈を見つけると襲ってくるかもしれないから、今度見かけたらすぐに逃げるんだよ。おうちのなかだったら隠れてて」
「うん」
駐車していた隣が、自宅のはす向かいの木岡の車であることに気づいた。木岡もちょうど、子どもを抱っこして車に向かっていた。金髪に近い明るめの髪色に玄のジャージの上下を履いており、未だに何の職業なのかよくわからない。木岡は千奈に手を振ったあと、急に眉をひそめた。
「なんかこの辺、猿が出るらしいね」
「ああ私も見ました。掲示板ですよね」
「うちの旦那、動物が大嫌いで、子どもの頃、猫をバット持って追いかけ回したって言ってたから、もしほんとに猿がいたら近所中をバット持って追いかけ回すかも。恥ずかしいわ」
彩佳は適当に相槌をしながら、木岡と手を振って別れた。
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