第一章 人たるものの王国】冒険行1)家出
我が輩の出立のとき、故郷は大雨であった。
生まれ育った村は雨の帳に隠れて見えず、これから歩みゆく道もまた同様にして、遠くまで見通すことはできなかった。
鞍も乗せていない痩せ馬の背の上で、危なかしくバランスを取りながら、それでも我が輩は故郷の姿を何とか見てとろうと、雨の中で目を細めて努力していた。
これがこの村を見る最後の機会になるだろうという、漠然とした予感があった。
ここでこうしてぐずぐずしていれば、鎧がなくなったことを知った親父が、長兄と次兄を引き連れて、我が輩を追いかけて来ることはわかっていた。
それでも我が輩はこの村の入り口から、一目だけでも故郷を見てとろうという衝動を抑えることができなかった。
幼い子供が、これから捨てようとする玩具を、本当に捨ててもよいのだろうかと子細に吟味するような、そんな気持ちであった。
雨は結局上がりそうもない。その冷たい水滴は、我が輩も馬も容赦なくずぶ濡れにして、さらなる先、地面へと落ち、川へと流れこむ。そして遥かなる海を目指してひたすら旅を続けるのである。
まるで我が輩自身の姿を予告しているかのようだ。
これ以上は待てない。気まぐれな天気が変わるのを待ち望んでいては、人は何を成すこともできないであろう。
我が輩は、馬に合図すると、村境の道へと歩みを進ませた。
前をにらみながらも、そっと背後に手を伸ばして、馬の背にしばりつけてある荷物を確認する。
幾重にも巻かれた布の下に存在する、堅い感触。
それは、農夫である男には似つかわしくない荷物だ。
いや、農夫であった、である。
我が輩は馬の背に揺られて、雨に囲まれた中、ここ数日に起きたことを回想した。
・・・始まりは、我が輩がアリョーシャ神父の教会跡に、鍬を入れたときのことだった。
数年前にアリョーシャ神父が死んで以来、彼の小さな教会は長い間、誰にも顧みられないままに放置されていた。屋根は落ち、壁は崩れ、かっては小奇麗に整えられていた教会も、まさにあばら屋という言葉通りの代物に変わり果てていた。
不思議なことに、いつまで経っても次の神父が派遣されることもないまま、ただ崩れていく彼の教会の跡地を見ているうちに、我が輩はそこを耕してみようと思いついたのだ。
教会のすぐ横には、アリョーシャ神父が自分の食い扶持を確保するために作っていた畑があった。村の者の大半は貧しく、教会に寄付するものも少ない。自分で畑を耕す以外に、神父がこの村で生きてゆく方法はなかったためである。
これもひどく荒れ果てた畑。雑草は伸び放題で、放置され畝が消え去ってしまった畑は、徐々に元の荒れ地へと戻って行くところであった。
我が輩は村長と談判した上で、そこを耕すことにした。
これも奇妙なことだが、アリョーシャ神父の教会の土地は、領主と王国教会の共有財産ということになっていた。つまり領主が許可を出せば、教会以外の者でも耕すことができるのである。
村長自体が忘れていたこの事実を知り、喜んだのは他でもない、我が輩であった。
我が輩の親父は貧しいながらも自由農民であり、自分の土地というものを持っていた。領主に税は納めねばならないが、それでも食うことだけはできた。しかし、その三男である我が輩に、さてどれだけのものが回って来るかというと、期待するだけ無駄な話である。
何かが欲しければ、自分の力で手に入れるしかない。
それよりも何よりも、我が輩はアリョーシャ神父の大のお気に入りだった。我が輩も彼を尊敬していたし、好きでもあった。彼の作り上げたもののすべてが、このまま消え去ってしまうのかと思うといたたまれなかった。
荒れ果てた畑に振り下ろした鍬が、奇妙な感触を伝えて来たのは、そう、畑の三分の一を耕しなおしたときであった。
いきなり地面の一部が崩れ落ちたと思ったら、そこに暗い穴が現れたのだ。
畑の中に穴だって?
アリョーシャ神父の畑の中には、こんな大きな穴を開ける特大のモグラでもいるのだろうか?
我が輩は穴を探って見て、その理由を知った。
そこには木箱が埋まっていたのだ。我が輩の鍬は、腐りかけた木箱の蓋を打ち抜いて、その内部の暗闇をあらわにしたのだった。
何故。こんなところに木箱が。畑のド真ん中なんだぞ。それもアリョーシャ神父のものだった畑だ。
混乱と共に、我が輩の頭にはさまざまな憶測が浮かんだ。
一番ありそうなのは、アリョーシャ神父が自分の財産を木箱に納めて、ここに埋めたことだった。
しかし、アリョーシャ神父はいつも清貧に甘んじていた人物だった。深い信仰と無私の行いを元とした生き方をしていたことは、村の誰よりも我が輩が一番よく知っていた。
財宝の詰まった箱なんて、アリョーシャ神父からは想像もできない。
財宝だって?
まさかね。
木箱の縁をまさぐり、我が輩が予想したよりもそれが大きいことを知った。
腐りかけた大きな木箱。土の下に埋められている。それも誰にも知られないように。一瞬、これは棺桶ではないかと想像して、我が輩はあわてて手を引っこめた。
腐った布に包まれたボロボロの死体が、穴の中から手を伸ばして来るような気がしたと言えば、そのときの我が輩の気持ちを理解して貰えるだろうか?
誰かが、そう、村の中の誰かが、こともあろうに、いまは亡きアリョーシャ神父の畑に家族の死体を埋葬してしまったのだ。
確かめなくてはならない。そう我が輩は決意した。
日はまだ高く、亡霊を恐れるには、周囲は明る過ぎた。
上に載った土を取り除き、鍬を使ってさらに木箱の穴を広げる。畑の土の下ですっかりと腐りきった木の板は、さほど抵抗することもなく剥ぎ取ることができた。
木箱それ自体はとても古いものだ。この様子では、木箱が埋められたのは、ここ数年などというものではない。
やがて穴が広がり、木箱の中身があらわになった。
人の身長の半分ほどの大きさの布の包みだ。さらに長細い包みと、何か幅広いものを包んだものもある。
全部で三つ。我が輩は手を伸ばし、一番大きな包みを取り上げた。
持っただけでそれが、油を染みこませた包みであることがわかった。結構な重さがある。
奇妙な予感が我が輩の心を包んだ。我が輩はその包みの布を、興奮に震える指で剥がし始めた・・・
村への入り口を示す二本の大木の間を抜け、我が輩は回想とともに、雨の道をたどった。自分がすでに村の境界線を越えたことには気づいてはいなかった。それほどまでに回想のもたらす記憶の輝きは強かったのだ。
・・・運命に出会う瞬間。
剥ぎ取られた布の下から現れたのは、我が輩がいままでに見たこともない、美しくも奇妙な騎士の鎧そのものであった。
全身を衝撃が突き抜けた。
見事な鎧。まるで我が輩のために誂えたかのような、素晴らしき鎧。大地の下の暗闇の中で、我が輩に掘り出されるのをひたすらに待ち望んでいた鎧。
その瞬間、我が輩は自分が騎士となる運命であることを知ったのである。
どうしても指の震えを止めることができなかった。それでも布のすべてを剥ぎ取って、我が輩の他には誰もいない畑の真ん中で、その鎧を確かめた。
全体が板金で作られた鎧である。それにしては見た目ほどには重くないなと、我が輩は感じた。兜を除けば、小手に足まですべて揃っている。
こういった鎧が恐ろしく高価であることを我が輩は知っていた。少なくとも貧乏な神父が気軽に買える額ではない。
美しく磨かれた鎧の前面には、見事な銀の象眼細工で、蔦の紋様らしきものが象られている。その中央、つまり鎧の胸に当たる部分には、どことなく人間の両目を思わせる不可思議な図形が、緑色をした薄い石を使って組みこまれていた。
新品ではない。それはわかる。長い間に渡って使いこまれた物のみが持つ、独特の風格というものがある。だが、損耗した部分が一切見られないのはどういう理由だろう?
二、三箇所、傷がついている部分はあるものの、表面は我が輩の顔が映るほど奇麗である。擦れた部分もなければ、曲がった部分もなし。
調べてみてわかった。あらゆる部分が手抜きのない素晴らしい作りだ。手を覆う小手の繊細で見事な形から始って、金の拍車のついた足の部分まで、滑らかで継ぎ目というものを一切感じさせない。
思わず口笛を吹いてしまった。我が輩の目の前にあったのは、一財産に相当することは間違いない、まさに逸品と言ってよい鎧であった。
その鎧に比べれば、鎧の隙間に見つけた皮袋から転がり出た金貨など、よほど見劣りしたと告白しておこう。
まだ、指の震えは止まらなかった。
次の包みは長細い形状のものだ。開ける前から、その正体は分かっていた。
剣だ。
どちらかと言えば地味な装飾が、鞘の表面に施されている。
まるで我が輩のためにあつらえたかのように、剣の柄は我が輩の手の平に吸いつくように納まった。力をこめて、鞘から刀身を引き出す。
白く美しい両刃の刀身が現れると、我が輩の背を戦慄混じりの感動が走り抜けた。
凄い剣だ。そう直感した。
長い年月この土の下にあったというのに、刀身には錆一つ浮き出ていない。
ため息がもれた。いよいよ最後の包みだ。
鎧に剣。となれば、この包みの中身はだいたい想像できる。
大きな布を一気に引き剥がす。やはり、盾だ。それもすべて金属でできている。
我が輩には理解できない紋章がその盾一杯に描きこまれている。裏側には盾を持つための突起がついている。丸みを帯びた五角形をした、凧に似た感じの盾だ。
材質は鋼鉄か? しかし、そうだとすれば軽すぎる。
我が輩はふと想像した。この盾こそは魔法の盾で、きっと本来の持ち主の元に戻るときまで、おのれが朽ち果てることを許さなかったのであろう。
本来の持ち主とはいったい誰なのか?
決まっている。
我が輩だ・・・
道は狭まり、森へと続く。我が輩は雨の中をひたすら進んだ。
二股に別れる道を、右に行けば隣の村だ。左に行けば、寂れた街道へと出る。街での祭りの季節に、村で取れた野菜を売りに行くときに使うものだ。
我が輩はためらわずに左の道を選んだ。馬に乗ることには慣れていなかったが、どのように扱えばよいのかは知っていた。手綱を軽く引き、馬首をめぐらす。アリョーシャ神父に習ったやり方だ。
遠くへ行くのだ。
今まで行ったこともないほど遠くへ。
誰も追って来れないような遠くへ。
道が続く限りに進むのだ。
・・・運命を感じてはいたが、何も本気で騎士になるために、家を飛び出す気ではなかった。我が輩はいつも、夢見がちな子供だと、周囲の人間に言われ続けてきたが、それでも鎧一つを見つけただけで、騎士になろうなどという甘い考え方はしていなかった。
そう、親父と兄貴たちが、我が輩が見つけた鎧を取り上げた、あのときまでは。
「見ろよ、親父。アンガスがこんなものを持っていたぜ」
目ざとく見つけて我が輩から強引に取り上げた布の包みの中身を、テーブルの上に広げながら、我が輩の兄、家の長兄は言った。
家の暗がりの中でも、美しい鎧は燦然たるきらめきを放っていた。
その場にいた全員が歓声を上げた。もちろん、我が輩を除いてだが。
土間の隅で酒の入った椀を傾けていた親父が、鎧に顔を近づけるとそれをしげしげと眺めてから叫んだ。
「ほうい、こりゃすげえお宝だ。アンガス!」
親父は我が輩の方を向くと、我が輩の首に手を回して顔を近づけた。
むっと酒臭い息が、我が輩の顔に吐きかけられた。
「おめえ、まさか領主の館に盗みに入ったんじゃあるめえな」
それをそばで聞いていた次兄が、笑い声を上げた。
「ひどい冗談だ。親父。アンガスに他人の家に盗みに入る勇気はないさ。それに領主様の館にだって、こんな凄いお宝があるわけないだろ」
「それもそうだな」
親父の手から解放されて、我が輩は後ろに下がった。自分が大変な失策を冒してしまったのはわかっていた。見つけたものを、家に持ち返るべきではなかったのだ。よく考えればこうなることはわかっていたのに、興奮したあまりについ忘れてしまったのだ。
それから後はひどいものだった。父と二人の兄は、鎧を見つけだした当人である我が輩は無視して、テーブルの周りに群がると、この鎧の処分について大声で相談し始めたのだ。
「おい、アンガス。酒だ。酒をもっとだせ!」親父が怒鳴った。
我が輩はこれも薄暗い台所に入りこむと、酒の入った瓶を探った。
あの高貴な鎧の処分について、彼らがどのような案を出そうとも、最後にはすべて親父の酒に化けることを我が輩は知っていた。いや、飲むのは親父だけではない。長兄も次兄も親父ほどひどくはないが、酒びたりと言ってよい状態だ。
一年前、母が死んだときから、その有り様はひどくなる一方であった。
そう。我が輩が運命と出会ったのは、アリョーシャ神父の畑でのことだった。だが、我が輩がそうして出会った運命を、自分のものにしようと決断したのは、薄暗い台所で酒の入った瓶を探しているその時であった。
どのような心の働きなのか、我が輩にはわからない。ただ、埃と虫が舞う台所の片隅で、酒の入った瓶を見つけたときに、我が輩の中の見知らぬ何かがその決意をさせたのだ。
あの鎧も、剣も、盾も、大変な価値のあるものだ。貴族というよりは、王様が持つべきもの。それがいま、ただの酒代に化けようとしている。毎日を、ただ酔っ払って過ごすことばかりを考えている、そんなどうしようもない輩のための酒代にだ。
耐えられない。あれは我が輩が騎士になるために、用意されたものなのだ。
背後では親父たちが際限なく喋りあっている。その目はテーブルの上で光り輝く鎧に釘付けだ。長兄が剣を鞘から引き抜いて、感嘆の声をあげる。いったいいくらで売れるのか、お互いに数字をあげつらう。
誰も我が輩を見ていないことには確信があった。
おとなしいアンガス。夢見るアンガス。愚か者のアンガス。
誰がこの我が輩に注目しよう。
台所の片隅の隠し場所から、すばやくある木の根を取り出す。
薄茶色の、名を持たない木の根である。変色した小さなヒゲ根がその周囲に無数に伸びている。
これは我が輩の母が残したものである。親父がひどく荒れ狂っているときに、母はこれをこっそりと酒の中に浸していたものだ。
まだ我が輩が小さかった頃、それを見つけた我が輩が、どうしてとその理由を母に聞いたことがある。そのとき、このことは黙っていなさいと、母は厳しい口調で言った。死ぬ間際に、母はこれの隠し場所を、我が輩にだけ教えてくれたのだ。
母は魔女だったのかって?
いやいや、とんでもない。おそらく母はこれを、村はずれの薬草使いの老婆からもらったのだろう。村の女たちが、酔った夫に殴られる回数を減らすには、そうするしか手段がないのだ。
我が輩は木の根をすばやく酒の中に浸すと、かき混ぜた。
「おい、アンガス。酒はまだか!」
背後で親父が怒鳴る。我が輩の心臓は胸の中で飛び上がった。
隠し場所に木の根をすばやく戻すと、酒瓶をテーブルへと運ぶ。
それから我が輩は家の外に出ると、後ろ手に扉を閉めた。扉の向こうで、我が輩について何かたちの悪いことを言ってどっと笑う声が聞こえた。
空は曇り始めていて、太陽は雲間に隠れようとしている。一雨きそうだ。我が輩は村の中の道を小走りに駆けた。
家出の計画は、すでに頭の中で形を取り始めていた。
村の中で、余分な馬を持っているのはパン屋だけだ。粉引き所で水車がうまく働かないときには、代わりに馬を使うのだ。
そう、馬である。遠くに行くには馬がいるし、それよりも何よりも、馬のない騎士など格好がつかない。騎士になる気なら、馬は絶対に必要であった。
我が輩がパン屋の扉を開けると、ちょうど主人のフロイドがそこにいた。ひどく太った男だ。パンを焼きあげる度に味見をしていてそうなったという噂であった。
オーブンの前で額にびっしりと汗をかいたままの彼は、我が輩をじろりと見ると、ぶっきらぼうに言った。
「よお、アンガス。たまったツケでも払いに来たのか」
馬が欲しいと我が輩が言うと、彼は大袈裟に目を剥いてみせた。
「馬だと。馬は高いぞ。お前に払えるわけがない。いったい何に使うんだ。言っておくが、ツケはきかんぞ」
我が輩は彼とお喋りに来たわけではなかった。皮袋を取り出すと、金貨をフロイドの前に並べてみせる。兄貴たちは、鎧を我が輩から取り上げるのに夢中で、我が輩が皮袋を持っていることには気づかなかったのである。
今度、フロイドが目を剥いてみせたのは、本物の驚きからであった。
「なんと、アンガス。これは何だ。そうか、道端で金袋を拾ったんだな。よし、これはおれが預かっておいてやる。お前の親父さんに取り上げられないようにな」
金貨の上に伸びたフロイドの手を、我が輩の手がつかんだ。
「馬だ」我が輩は静かに言った。「これは馬の代金だ」
いつもなら我が輩はこんなことはしない。おとなしくフロイドに金貨を奪われてしまっていただろう。
しかし、我が輩の中の何かが変わってしまっていた。
あの鎧を見た瞬間から。
運命に出会うとは、そういうことだ。
我が輩が今までに見たこともない、奇妙な怯えの影を顔に張りつけて、フロイドは手を引っこめた。
「今、余っている馬は一頭しかない。それでよければ譲ろう」
彼が案内した先にたしかに馬はいた。体格はまあまあであった。しかしそれは何と痩せこけた馬であったのか。あばら骨がうっすらと見えているのに我が輩は驚いた。こんな馬を見るのは始めてである。
我が輩の抗議の視線を、しかしフロイドはあっさりと受け流した。さきほど見せた我が輩の行動を、何かの気の迷いだと判じたのだ。すでにその態度はいつもの横柄なものに戻っている。
「おれがお前さんに売ることのできる馬はこいつだけだ。嫌ならやめときな。おっと、ただし、いままでのパンのツケの分は払ってもらうぜ。それにこいつは別に病気というわけじゃない。ただちょいと食が足りないだけなんだ」
「食わしてやればいいじゃないか」我が輩はつぶやいた。
「こいつがどれほどの大食いか知って言っているのか? こいつに食べたいだけ食べさせたら、おれは破産だ。それにこいつに飯を食わせてやりたいなら、お前さんが買い取ってそうしてやればいい」
フロイドはその馬の前でひらひらと手を振って見せた。そして、馬がその手に噛みつく前にすばやく引っこめる。堅い物がぶつかる音がして、馬の歯が空中で噛み合わさった。
「今のを見たかい。丈夫できれいな歯だろう。馬の健康は歯で見るものだ。ということはこいつは痩せてはいるが、折り紙つきの健康で丈夫な馬ってことになる」
フロイドはそう言ってのけた。
「さあ、どうするね? アンガス。こいつを買うのか、買わないのか?」
一瞬迷った末に、我が輩はこの馬を買い取ることにした。家出の計画はすでに進行しているのだ。こんな所でやめるわけにはいかない。
我が輩の返事を聞き、フロイドはさも満足そうに言った。
「それでいい。さあ、こいつはお前さんのもんだ」
我が輩の手に馬の手綱が渡された。我が輩は今や自分のものとなった馬と見つめあい、そして手綱を引っ張った。
馬はぴくりとも動かない。
「おっと言い忘れた」フロイドがにやにや笑いを浮かべながら言った。
「こいつに言うことを聞かすには、ただじゃ駄目だ。食い物でつらないとな」
しばらく押し問答した末に、我が輩は上等な燕麦を一袋、彼から買い取ることにした。
馬は我が輩とその手の中の燕麦の袋を見ると、あっさりと我が輩についてくることに決めた。
まったく、なんという食いしん坊だ!
おとなしく後をついてくるのだが、ときたま我が輩に近づくと、袋に噛みつこうとする。
これはちょっどばかり我が輩の計画とは違う。アリョーシャ神父が話してくれた騎士物語の中の馬は、これほど食い意地が張ってはいなかったはずだ。
だがそんな問題は些細なことだ。我が輩は馬の手綱を引きながら考えた。我が輩の計画の中で一番大変なのはここからである。親父と兄貴たちの目の前から、鎧を取り戻すこと。
我が輩の住む、あばら家が見えてきた。
どうしても、心臓の鼓動が大きくなるのを止めることができない。
空はますます暗くなり、厚く垂れこめた雲が、これから来る予定の大雨を示していた。この分ならば、農作業に出ていた人々も、大慌てで自分たちの家に戻り始めていることだろう。これは我が輩には好都合であった。我が輩の家出を目撃する人間は、少なければ少ないほどよい。
馬の手綱をすばやくつなぎ終えると、我が輩は扉に手をかけた。
音が出ませんようにとの我が輩の望みを完璧に裏切って、大きなきしみ音と共に扉が開く。
テーブルの上にもたれかかるようにして、親父たち三人が眠っているのが見えた。最初はもしかしたら死んでいるのではないかと、そんな在らぬ妄想に恐怖を覚えたぐらいに、彼らは身じろぎすることもなく寝こんでいる。いびきが聞こえてこなければ、その体を揺すってでも起こしていたところである。
外にも増して暗い部屋の中に足を踏みいれる。
鎧に剣に盾。すべてテーブルの上に広げた布の上だ。暗闇の中でも磨きこまれた金属の表面が外からのかすかな明りを反射している。
鎧の前面に埋めこまれている、人の目を思わせる緑の石の模様が、我が輩をじろりとにらみつけたような気がして、我が輩は思わず体を屈めた。
自分のした行為の無意味さに思わず苦笑してしまってから、そっと手を前に伸ばした。眠っている兄の手を取ると、横に静かにどける。
目を閉じたままの長兄の体が、ごろりと横を向いた。その目蓋が薄く開き、我が輩の瞳と見つめあう。
我が輩は全身を凍りつかせた。
それから長兄はまた目を閉じると、何かをつぶやきながら、あの木の根のもたらす眠りの深みへと引きずりこまれていった。
二十数える間、我が輩は動きを止めていた。息をすることさえも止める。
そろそろ計画を再開するべき頃合だ。無理に自分の心に言い聞かせると、また手を伸ばした。鎧一式を載せている布の端を摘まみあげると、そっと上に引っ張る。
よし、ここが勝負だ。少しでも音を立てたら、我が輩の負けである。
一気に鎧を持ち上げた。
無数の金属と金属がでたらめにぶつかり合う音が部屋中に響いた。
どうして我が輩は、この鎧を家になど持ち帰ったのだろう?
元の場所にこっそりと埋め戻してから、それなりの前後策を練ればよかったのに。
周囲が騒音で満たされる中で、そんなことを考えた。
親父たちは身じろぎもしなかった。
これが普通の眠りならば、今の音で全員起きていたことだろう。しかし薬草のもたらした深い眠りの中では、これだけの音でも目覚めには足りないらしい。
しばらくは自分の幸運が信じられなかった。今日は幸運の日だ。いろいろと間違った行動をしているのに、それほど悪い事態には陥っていない。そんなことも考えた。
我が輩はほっと胸をなで下ろすと、忍び足で外へと出た。
雨滴がぽつりと我が輩の頬に当たり、まるで我が輩がこの別離に涙を流しているかのように、頬の上を滑り落ちる。
これが見納めなのだ。馬の上にこの新しいかさばる荷物をくくりつけながら、我が輩は思った。このボロ家も、兄弟たちも。そして飲んだくれの父親も。
決してよい思い出のある場所ではなかったが、そこは我が輩が二十年に渡り、生きてきた場所であった。
それから本格的に降り始めた雨に打たれながらも、村の入り口につくまで、我が輩は振り返りもしなかった・・・
馬がようやく街道へと出る道に入った。
我が輩がよく知っている場所はここまでである。ついにここから、我が輩の新しい、そして未知へとつながる旅が始まるのだ。
親父たちがどのぐらい眠っているのか、我が輩には皆目見当もつかなかった。夕方頃には目覚めるのか、それとも明日の朝なのか。いや、もしかしたら我が輩が家の扉を閉めたその瞬間に、眠りから覚めていることも考えられた。
親父たちの目が覚めれば、いったい何があったのかすぐに悟ることであろう。テーブルの上に並べておいた鎧も剣もなくなっていて、おまけに我が輩の姿が見えない。その結論は、言うまでもないだろう。
最初は当然ながら、村の中を探すだろう。やがてパン屋のフロイドの口から、我が輩が金貨で馬を買ったと聞くことになる。そうなれば、次に探すのは、当然ながら村の外だ。
秘密の財宝を見つけたなんて、口が裂けても親父が村の人々に言うわけがないから、追って来るのは三人だけだと、我が輩は結論づけた。親父と長兄と次兄。我が輩の家族はそれで全部だ。
この痩せ馬では我が輩を乗せたまま早足で駆けさせるわけにもいかないし、かと言って、のんびりと歩いていれば、必死の追跡を行っているだろう親父たちの手に捕まってしまう。
我が輩はいったいどうすればいいのか?
親父たちはきっと、我が輩が隣村に向かったと思うだろう。隣村のほうが、我が輩の村よりも規模が大きい。このかさばる財宝が売れる場所まで行って、手早く金に換える。それからどこか大きな街目指して我が輩が飛び出すのだと、そう考えるはずだ。
いいや。我が輩はこの鎧を売ったりはしない。剣も、盾もだ。これらは全部、自分が騎士たる者であることを証明するためのものだ。
そう、我が輩は騎士になるのだ。
とすれば、我が輩が向かうべき場所は隣村ではない。もっともっと大きな街だ。大領主の館があり、遍歴の騎士たちが集うような、そんな大きな街だ。
頭の中の乏しい知識を探ってみて、おぼろげながらも、行くべき方向をつかむ。そうだとも、たしかこちらの方角にそんな街があったはずだ。ずっと昔に一度だけ親父に連れられて行ったことがある。その旅は街道をたどって何日もかかった覚えがある。アリョーシャ神父に関る用事で、我が輩の親父が何かを頼まれて出かけた旅であったはずだ。奇妙にも、そのことだけは覚えている。
我が輩の考えが正しいとすれば、この道をたどっている限りは、我が輩が親父たちに追いつかれることはない。愚かにも我が輩はそう結論して自分を安心させた。
周囲では徐々に森が濃くなってきた。雨はあいも変わらず降り続いていたが、頭の上を覆う木の傘のお陰で、我が輩にあまりひどくは降りかからなくなっている。
この森を見ていると、奇妙な不安感が我が輩の胸を満たす。この森に関して、何かある噂を聞いたことがあるような気がしたが、どうしても思い出せなかった。
こうして、我が輩の家族である追っ手との間に距離ができてみると、ようやく我が輩の頭も冷え始めてきた。
そうなると今度は、自分がやろうとしてることの恐ろしさが身に凍みてくる。
我が輩はやり慣れた農夫の人生を捨てて、騎士になろうとしているのだ。偶然見つけたこの鎧を着て、見知らぬ土地で騎士として再出発するのだ。
考えれば考えるほど、無謀なことこの上ない。
それともあっさりと騎士ではないことを見抜かれて、鎧泥棒として捕まって処刑されてしまうのだろうか?
どう見ても、この鎧はそんじょそこらの騎士の着るような鎧ではない。よほど身分の高い貴族の持ち物にちがいないのだ。それがどうして畑の中に埋められてあったのか、その理由はかけらも思いつきはしなかったが、それでもこれが親父の酒代になることだけは許せなかった。
いや、ひょっとしたらこの我が輩は、どこかの大貴族の落とし種で、適切な時期が来たときにこの鎧を見つけて、宮廷に現れるように仕組まれていたのではないか?
そのようなことを考えているうちに、段々と自分でも信じこんでゆくのがわかった。
またもや我が輩のいけない妄想癖である。いけないとは思うが、止めることができない。
そんなことを真剣に考えていたから、いつの間にか馬が足を止めていることにも、我が輩は気がつかなかった。
雨の中をさんざん歩き続けた後、いつまで経っても貰えない燕麦の餌に、我が輩の痩せ馬が業を煮やしたのだ。
彼は強情にも立ち止まると、我が輩の手綱に強引に抵抗した。
我が輩もまた、出立のときの高揚した気分が、この雨に萎えてきていた。
それにまるで我が輩を押し止めんとするかのように、正面から吹きつける風にうんざりしていたので、どこか雨宿りできる場所はないかと周囲を探すことにした。
あった!
森の端、空中に突き出した崖の横下に手頃な洞窟が暗い入り口を開けている。まさに天の助けだ。我が輩は神に感謝の祈りを捧げた。洞窟の周りは木々に囲まれていて、格好の避難所を作りあげている。どういうわけか、我が輩のいるここからだけは、偶然に近い形で見通すことができる。それも周囲を注意して見ていたから発見できたわけで、そうでなかったら、決して気づかなかっただろう。
我が輩は馬から降りると、嫌がる彼の手綱を引きながら、暗い洞窟の中を覗きこんだ。
馬ごと中に入れるぐらいの、かなり大きな洞窟だ。洞窟の床は少し地面から高くなっているらしく、中にはまだ乾いたままの砂が敷かれているのが見てとれた。
奥は暗くて見えない。コウモリぐらいは棲んでいるかもしれないが、まあ問題はあるまい。これならば、雨からの待避所としては絶好の場所である。
後ずさりしようとしている馬の手綱を強引に引くと、我が輩は暗い洞窟の中へと足を踏みいれた。
砂が足下で崩れる。見慣れぬ動物の足跡が、砂の上についているのを見て、我が輩は眉をひそめた。
はて、この足跡は、どの動物のものだったかな?
そう思ったことを覚えている。
そのときである。何かが洞窟の闇の中でうなり声を上げたのは。
暗い雨雲の中をひらめく稲妻の閃光に、その巨大なシルエットが浮かび上がる。
なんと!
それは我が輩がいままでに見たこともないほどの大きな熊で、それに加えて自分のねぐらに押しこんで来た闖入者に対してかんかんに怒っていた。
大熊は洞窟の中で立ち上がると、両手を大きく上にあげた。暗闇の中でも、その大きな前足の先に、人間を十分に引き裂けるほどの長い爪が生えているのが見てとれた。
何てことだ。この森に入って以来の不安感の正体はこれだったのだ。我が輩は混乱した頭の一部で、遅まきながらの真実に気がついた。
最近、街道との間をつなぐこの森に、大きな人喰い熊が出没するという噂だ。
村に定期的に巡回して来る商人の幾人かが行方不明になっているし、大きな熊に追いかけられて、命からがら逃げ延びた人間もいる。
目の前にいるこいつがその元凶なのだ。大きくて、腹を空かした、人喰いの熊。
今の今までこのことを忘れていたとは、我が輩は何と愚か者なのだろう?
我が輩は後ろを向くと、この脅威から逃げ出そうとした。
その瞬間、我が輩の頭の中で何かが叫び声を上げた。
畑の中で鎧を見つけたとき以来、我が輩の中に巣食うようになった何か。運命に出会った人間が、新たに知ってしまった何かだ。
我が輩はそこに踏みとどまった。逃げだそうとする足を無理にでも引き止める。歯ががちがちとなるのを敢えて無視する。
逃げ出すわけにはいかないのだ。これは騎士である我が輩の初舞台なのだから。
ここで身を引けば、またもや生まれ故郷の村に戻って、毎日畑を耕す生活に戻ることになる。そうして、わずか雨の一降りの時間にしか満たない家出の記憶を糧に、残りの人生を過ごす羽目になる。
最後にはこの我が輩も、もっとも嫌っている親父のような、酒びたりの人生を送ることになる。逃げ去った時を惜しみ、失った機会を毎日悔いながら過ごす一生。
そういった自分のこれからの人生の軌跡が、一瞬で見えた。
あそこに戻るのは、死んでも嫌だ。
戦おう。そう思ったとたん、勇気がわいた。我が輩は騎士である。人喰い熊の一匹や二匹がなんだ。
背後の不機嫌そうなうなり声はますます大きくなり、我が輩はこれ以上一刻の猶予もないことを思い知らされた。
馬の背中に積まれた荷の中から、鎧と剣を取り出すだけの時間はない。大熊はすぐにでも襲って来る。何か武器になるものはないか。
我が輩は必死に目で地面を探り、風で折られた木の枝が半分泥に埋まっているのを見つけた。
それは半ば腐りかけていて、実に頼りなげな武器に見えた。さきほどちらりと見た、あの恐るべき熊の長い爪とは比べ物になりはしない。
だが、どこにも選択の余地はない。
我が輩はその木の枝を泥の中から引き抜くと、尖った方を先にして、槍のように小脇に抱えた。
ずいぶんと昔に、アリョーシャ神父がどこからか手に入れてきて、村の子供たちに見せた騎士物語の絵を思い出しながらだ。
これは槍だ。我が輩は心の中に思い描いた。この槍で熊の心臓を貫くのだ。
しかしそう思いこんだとしても、我が輩が抱えていたのは、依然としてただの木の枝であり、しかも熊の前足の一撃を受けたら、その場でばらばらになってしまうだろうという代物であった。
敵の攻撃を受けることはできないのだ。我が輩が先に打ちかかり、これでどこか熊の体の柔らかな部分を打ち抜くしか、大熊に勝つすべはない。
選択の余地はない。それがあれば、人生はどれだけ楽か。
そうして我が輩は、洞窟の中で立ち上がってうなっている熊に、その枝の先を向けた。大熊が我が輩とは違う意見を持っていることを祈りながら。
いきなり、熊のうなり声が静まった。
我が輩は目をこらすと、洞窟の中の暗闇を見通せるとでもいうように、熊のいる辺りをにらみつけた。
さあその熊と言えば、今までよりも大きく立ち上がり、鋭い爪の生えた前足を大きく開いて、我が輩を目掛けて突進して来る最中であった。
何たること。熊を脅すつもりが逆効果だ!
我が輩は恐怖に体が凍りつくのを感じた。しまった、これでは逃げられない。
騎士が死の恐怖に凍りつくとは何たること。我が輩は焦ったがどうしようもなかった。大熊が突進して来る。その胸の辺りで何かが光った。
胸だって?
問題はそこじゃない。いままさに、我が輩を殺そうとしているのは、熊の持つ鋭い牙と、前足の危険そのものと言った爪なのだ。それらが我が輩の得物を折り、我が輩の肉を裂く様子が想像できた。
血だまりの中の肉片。悲惨なことこの上ない。
その時である。
餌ももらえずに、さんざんに引きずり回されていた我が輩の馬の我慢が、限界に来たのは。
馬はすばやく我が輩の手に噛ついて手綱を取り戻すと、我が輩の背中を目掛けて、後ろ足で強く蹴りつけた。
いや、それは我が輩が今までに受けた中でも、もっとも凄い不意打ちだったと白状しよう。当たり所が悪ければ、我が輩は死んでいたかもしれない。
踏ん張ることもできずに、我が輩は前へと勢い良く弾き飛ばされた。
長い気絶から覚めたときには、我が輩の周囲は血に塗れていた。
我が輩はしばらくの間、自分は死ぬのではないかと体をまさぐっていた。傷はどこだ
、傷は?
ようやくにして、ひどく痛むのは馬に蹴飛ばされた我が輩の背中と、騎士としての己のプライドだけであることを確認し終えると、我が輩は起き上がった。
洞窟の外では雨がそろそろ上がりかけていた。あれほど厚く空を覆っていた雲の所々に、夕暮れに赤く染まりつつある空が見えるようになっていた。
我が輩は自分の下に敷かれているのが例の熊であることに気づき、少しばかり驚きあわてながらその体をまさぐって見た。
熊の体は冷たくなっていて、折れた木の枝がその側に転がっていた。どうやら馬に蹴られた我が輩が大熊にぶつかった拍子に、手にしていた枝が熊を串刺しにしたようであった。木の枝の残り半分は熊の目玉から突き出ていたからだ。
明らかな致命傷である。あの木の枝は大熊の目玉を貫き、そのまま脳にまで達したのだ。
なんたる幸運! 狙ったとしても、こうはうまく行かなかっただろう。
我が輩は少しばかりとまどいながらも、倒した敵の体を探り、そうしてようやくその熊の皮の下に、別のものがあることを見つけだした。
驚くなかれ。
我が輩が熊と思ったものは、本物の熊の皮で作った縫いぐるみであったのだ。
その皮を被っていたのは、熊と言って差し支えないほど髭ぼうぼうで、熊よりもうんと汚いと断言できるであろう男であった。
洞窟の奥にうずたかく積まれた数々の荷物を見るにつれて、どうやら我が輩にも少しづつ事情が飲みこめて来た。
この男は熊のふりをして、道行く旅人を襲っては、持ち物を奪い取っていたのである。大熊に化ければ、たとえ襲った旅人を取り逃したとしても、領主の兵隊がとんでくることはないからだ。
我が輩の手にした即席の槍は、縫いぐるみの隙間からこの男の片目を貫き、命を奪ったものなのだ。
なんと!
我が輩は人を殺してしまったのである。
ああ、神よお許し下さい。我が輩は祈った。
殺人も恐ろしかったが、それよりもこの殺人に対して何の良心の呵責も感じなかったことの方がもっと恐ろしかった。
いったい、なぜ!
我が輩は自分の心を探り、その理由を見つけだした。
選択の余地はなかったのだ。我が輩の側にも、運命の側にも。
悪漢を倒した瞬間には我が輩は気絶していた。すべては我が輩の力と意志の及ぶ範囲の外で進行している。悪漢に取ってさえも選択の余地はなかった。あまりにも我が輩の槍に勢いがあったので、それを避けることができなかったのだ。
もしそう考えるならばこれは、我が輩が誇りに思うことでもなければ、悲嘆にくれることではないのだ。
ふむ。とても奇妙な状況である。
では誰が、この悪漢である熊男を倒したのであろう。
我が輩は事態を冷静に見つめた。すっかりと冷えた悪漢の死体を足下に横たえたままである。
そう。誰のお手柄かははっきりしている。信じられないことだが。
我が輩は逃げ出した馬を見つけると、洞窟の近くにまでふたたび連れて来た。
今度こそはと期待して、大きな鼻面を我が輩に擦りつける馬の口の前に、燕麦の袋を押しつける。
彼と我が輩、どちらを騎士と呼べばいいのだろう?
まあどう呼んだとしても、この馬は我が輩の命の恩人である。
もしあのまま、我が輩が大熊の姿に脅えたまま戦っていれば、悪漢が胸に隠し持っていた剣で我が輩は突き殺されていただろう。駆け出しの騎士である我が輩に、その攻撃が防げたとはとても思えない。
なんと、不思議なことをなさるのか。我らが神は。我が輩はため息をついた。
人間よりも先に、馬に手柄を立てさせるとは。
まあそれでも、これは我が輩たちの初手柄であると、我が輩は思い直した。
森に巣食って、旅人を襲っていた悪漢を倒したのである。村から遠ざかりかけていた商人たちも、これで戻って来てくれるだろう。
足下に倒れている悪漢が、旅の人を襲って貯えたと思える荷物の数々を、我が輩は暗い面持ちで見つめた。
もしかしたらこれからの旅に役立つようなものが、その中にあるかも知れなかったが、さしもの我が輩もとても手を出す気にはなれなかった。それは人々の血と命で購われたものなのだ。
さて、この悪漢の死体は埋めてやるべきだろうか?
それとも次の街に着いた所で、そこの領主に報告をして、この洞窟を調べに来てもらうべきだろうか?
しかし、この付近を納めている領主は、我が輩の村の領主のそのまた主人である。その領主が我が輩の素性を知れば、我が輩はまた村に戻されてしまうかもしれない。
これは難問だ。我が輩は悪漢退治の手柄を誇ることもできないことになる。
そんなことを考えながら、馬が燕麦を美味しそうに食べる姿を見ていた我が輩は、誰かの叫び声が遠くから聞こえてくるのに気がついた。
もしや悪漢には仲間がいて、そいつらが自分たちの巣に帰って来たのかと、我が輩は思った。
だとすればまずい。数人の悪漢を相手にして、これらを倒す自信なんか、我が輩にはなかった。夢想の中でこそ我が輩は無敵の騎士だが、かと言って現実を知らないわけではない。
馬の手綱を引いたがびくともしない。この痩せ馬は、燕麦を食べるのに夢中だ。
ふと思いついて、燕麦の袋を持ち上げる。やはりそうだ。袋の中に顔を突っこんだまま、我が輩の馬は後をついてきた。
燕麦の袋に幸せそうに顔を埋めている馬を森の背後にあわてて隠すと、我が輩は木陰から声のした方を覗いて見た。
そこにいたのは、手に手に松明を持った我が輩の家族であった。
親父に長兄に次兄。松明の反対側の手には、先の尖った鋤を持っている。
それをどう使うつもりであるのかは明らかだ。我が輩のこの夢見がちな頭を、それで耕そうというのである。
殺気だったその様子から、何としても我が輩を捕まえ、我が輩の正当なる財産である鎧を、自分たちの手に取り返そうと思っていることは明白であった。これでは家族というよりは山賊である。
ううむ。困った。我が輩は頭を掻いた。
なにぶんにも彼らは我が輩の家族である。彼らが我が輩をそうは思っていないにしても。面と向き合って喧嘩をして怪我をさせるわけにもいかないし、そうかと言って我が輩の行く先々に付きまとわれるのも困る。
今こそ、知恵を働かせるべきときだ。騎士物語の中にでてくる、機転に満ちた英雄のように。我が輩は腕を組んだ。こうすると、何だか自分が賢くなったように思えるのだ。
そうだ。我が輩の頭に、良い案が浮かんだ。これならいけそうだ。
我が輩はそっと洞窟に戻ると、床の上の悪漢の死体をまさぐった。まだ血に汚れたままの熊の毛皮を死体から剥ぎ取ると、頭からすっぽりと被る。この毛皮をついさきほどまで、死人が被っていたのかと思うと気持ちが悪かったが、この際だ、贅沢は言えない。
熊に見えるかな?
さあ、それは試して見なくてはわからない。
夜が近づいている。本物の暗闇が落ちれば、森の中を動き回るなんてまず無理だ。
我が輩は暗い森のなかをできるかぎりの速さで走ると、何とか親父たちの先回りをすることができた。
松明が三つ、道の上を近づいて来る。
さあ、いまだ!
熊に似せた吠え声を張りあげながら、彼らの前に飛び出す。彼らの前に仁王立ちとなり、両手を大きく広げる。前足の爪を強調するように振って見せると、いまにも襲いかからんとするかのように、体を伸ばす。
悲鳴。叫び。泣き声。
雄々しくも熊に立ち向かおうという者は一人もいなかった。あっと言う間に、親父たちは消え去った。
計画がこれほどうまく行くとは。我が輩はあきれ返った。
念のために、悪漢の血に濡れた我が輩の服の切れ端と、熊の毛皮からむしり取った毛をその場に置く。
これで彼らは、我が輩が熊に教われて殺されたと思いこむにちがいない。
それでも財宝の鎧が惜しければ、彼らは人喰い熊がうろついている怖れのある森の中を、ただひたすらに探さなくてはならないのだ。
それだけの勇気が彼らにあるとは、我が輩には思えなかった。一家の中の末っ子をいじめることはできても、本当の危険に立ち向かうことなどできはすまい。
我が輩の捜索は諦めざるをえないだろう。
その夜、我が輩は洞窟の中で悪漢の死体とともに一晩を過ごした。
小さな火を起こし、暗闇の中に自分の世界を穿つ。目の前に転がっているのは悪漢の死体だ。ぽっかりと開いた口、血だらけの片目、そしてそこに刺さった木の枝。
我が輩が行った最初の殺人。最初の冒険。
自分が殺した死体と一緒だったが、不思議と怖くはなかった。ここには、善悪の区別はすでになく、あるのは奇妙な静けさだけ。
だけど眠りは訪れはしなかった。
畑の上で作物が成長するときに立てる、静かなる音ならぬ音。それを聞いての眠りはもうないのだと、我が輩は知った。人を殺したのだ、もう後に戻れはしない。
我が輩は騎士となったのだ。そうでなければ、目の前のこの死体の理由がつかない。悪漢を倒し、ドラゴンの口の前から姫君を救いだし、魔法使いの邪悪な術に剣で対抗する。それこそが騎士の仕事なのだから。
夜が明けた。世界にまたもや光が満ち溢れ始める。洞窟の入り口から光が差しこみ、我が輩の行く手を示した。
もう行くべき頃合である。
我が輩は、周囲の草を食いつくそうと執念を燃やしている痩せ馬の背に乗ると、鎧の入った荷物の上を軽く叩いた。
ふむ、と我が輩は鼻を鳴らす。こうして我が輩の若かりし頃のことを、改め
て書き記して見ると、かっての我が輩は、まさに無知の塊とでも言うべきもの
であることがよくわかる。
アリョーシャ神父の畑の中から、素晴らしい鎧を見つけたという、ただその
ことだけで、自分が騎士となる定めであると思いこむとは、まったくのことに
恐れいる。
しかしまあ、公平に判断すれば、実はこの行為はそれほど無謀であるとも言
えなかった。
当時の我が国は隣国との戦争のただなかにあり、鎧と馬を持参した者ならば
誰でも、最下級の雇われ騎士になるぐらいはできたのである。兵の損耗は激し
く、新米騎士の選り好みができる状態ではなかった。
もっともそれは、領主の所に行き着くまでに、山賊の類に荷物の一切合財を
奪われなければの話であるが。当人の命も荷物の一つに数えられることは言う
までもない。
自分自身の行為に評価を下すならば、無知のもたらす結果の何たる幸運なる
偶然。まあ、そういう所であろう。
冒険。冒険。冒険。確かに驚くべき冒険が我が輩を待っていた。
そう、その頃の夢見がちな我が輩でさえ、想像もしなかった恐るべき冒険が。
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