第5話

 祐二はえり子に言った。

「ごめんね、こんなことになっちゃって。でもさっきバスの待合所があっただろ。もしかするとバスがあるかもしれないから、きょうはバスで帰ることにしようよ」

 えり子は「しょうがないわね」と不安を振り払うような強い語調で答えて車から出ると、寒さに身震いしながらも、学生鞄とと手提げを持って祐二のあとをついてきた。

 ぽつり、ぽつり、と街灯の灯る道路に出てえり子の顔を見ると、彼女は意外に落ち着いた表情をしているのが分かった。祐二は安心し、急に勇気を得た。

「本当にごめんね。でもちゃんと家までは送っていくから」

 そう明るく言うと、

「ううん、気にしなくていいのよ」

 えり子が落ち着いた調子で答えた。祐二はその口調にいっそうほっとした。


 腕時計を見ると、時刻は7時を過ぎたところだった。

 バスの待合所に貼ってある朽ちかけた時刻表を、街灯のくすんだ明かりで眺めると、バスは20分ほど前に1台行ったばかりだった。次の便は7時35分まで待たなければならなかったが、その時刻表は縁がかなり錆びていて、表面の塗装がところどころ剥げ落ちていた。果たして今でもその通り運行されているのか、祐二は疑わしい気がした。

 湖へ来る途中でも、バスとすれ違った記憶は彼にはない。また車と格闘している最中も、バスが通る音を聞いた覚えはなかった。

「7時35分まで待てば、本当に来るのかなあ」

 祐二はえり子に尋ねるともなく言ったのだが、えり子にも答えようがないのは当然だった。


 その時、祐二の脳裏に再びホテルが浮かんだ。それはみるみるうちに具体的なイメージを伴って膨らんだ。黄色い門灯、白塗りの壁、そして恐らく中に並んでいるであろう淫らな雰囲気の部屋を思った。祐二はためらいながら切り出した。

「あのう、実はね,少し歩くとホテルがあるんだよ」

 えり子はきょとんと祐二を見つめ、その先の言葉を待っていた。祐二は誤解されるのを恐れながらも思い切って先を続けた。

「そこまで行って、フロントで電話を借りて、タクシーに来てもらおうか」

 えり子は祐二の真意をはかりかねるように、それには何も答えなかった。

「そのほうが早いし、確実だと思うけどな」

 するとえり子は、

「うん、そうね、いいんじゃない」

 とあくまでも弱気を見せずに、大人ぶった調子で言った。

 その言い草が、祐二には少しおかしかった。

 祐二はこの時、勿論えり子と一緒にホテルに入るつもりなどなかった。えり子を表に待たせ、自分だけ中へ入ってフロントで事情を話し、電話を借りようと思っていた。あるいはホテルの中に、公衆電話くらいあるかもしれないと思っていた。

 

 しかし祐二とえり子が帰りの道とは反対のホテルの方向へ歩き始め、まもなく大きな橋にさしかかった時、祐二の理性の底にある微細な欲望が、もう1度頭をもたげ始めた。

 両脇の街灯に照らされてくすんでいる橋は、湖の上を渡ってその先が遠くの闇にかき消えている。橋の路面が、ざらざらとしたスポンジのように見える。ふわふわと柔らかそうにも見える。その両側には、途方もなく巨大な暗黒が広がっている。


 深い暗闇の中にぼんやりと浮いているその橋を、祐二とえり子はゆっくりと進んで行った。深淵のような闇の中央で、祐二の欲望は少しずつ膨らんでいった。3分の1ほど行って振り返ると、すでに背後の闇も、果てしなく深く感じられた。そして、もうあと戻りはできないといった気持ちが、完全に祐二を支配した。えり子も同じ気持ちであるかのように、ぴったりと祐二に寄り添ってついてくる。


 ぴちゃん、と下方で水の音がした。多分魚が跳ねたのだろう。

 2人がかまわずに歩いて橋の中ほどまで来た時、今度はジャボン、とかなり大きな音がした。

「なに、あれ」

 祐二の左側を歩いていたえり子が、ついに不安そうな言葉を発した。

「魚だろ」

「うそ、すごい大きな音だったよ」

 えり子は祐二のほうへ一歩踏み出し、彼の左腕を抱きしめた。

 祐二は胸が高鳴り、気持ちが高ぶるのを覚えた。えり子の腕と、柔らかな胸の感触が、コートの奥から伝わってきた。そこで祐二は言った。

「大丈夫だよ」

 一瞬声の調子が不自然になり、うわずっているのが自分でも分かった。

 内心の欲望を抑圧しようとするかのように、また工場長の顔が浮かんだ。

 祐二は急に何かを破壊しようという気に駆られた。しかし自分が何を破壊するのか、彼には分からなかった。自分を抑圧する工場長のイメージをか、それとも自分の生活をか、あるいはえり子の貞操をか。

 ただその混沌とした衝動がえり子に向かって解き放たれると、半ば自分の意識が、えり子の意識と溶け合うのを感じた。途端に暗黒は何ほどのものでもなくなり、祐二の内で、そして恐らくえり子の中で、相手の存在は闇よりも広くなった。

 祐二の理性の底の欲望は、完全に理性の殻を破って彼の内に充溢した。

 祐二は自分が罪を犯しつつあると感じた。今まさに、えり子と一緒に、一瞬の至福の誘惑に身を委ねつつあると感じた。そして彼は思った。

 

 自分はどうせ、今のまま小さな工場で工員などしながら、いずれ世間の片隅で一生を終えるに違いないのだから、一瞬のきらめくようなみずみずしい愉楽も、いっそ悪くないかもしれない。こんな美少女となら、たとえ自分が犯罪者になったとしても、後悔しないかもしれない。


 えり子は半ば恐れているようでもあり、半ば求めているようでもあった。しかし次の瞬間、覚悟を決めて、背後に手を回す祐二に身を任せるかのように見えたその瞬間、えり子は「いやっ、どうするの」と言って抱擁を拒んだ。祐二にとってそれは意外な言葉だったが、えり子は心と身体のやり場を失い、身体を小刻みに震わせているのだった。

 その時、車のヘッドライトが遠くに見えた。それは緩慢な速度でこちらへ近づいて来た。

「分かった、分かった、悪かったよ」

 祐二は急に、自分の内に罪悪感と後悔に似た気持ちが湧き立つのを感じながら、手の力を緩めた。

 そうして近づいて来る車を眺めながら言った。

「止まってもらおう」

 祐二は左手を挙げて車に合図しようとした。が、その時、灯こそ消えているものの、屋根の赤いランプに気づいて突然腕を下ろすと、背筋に冷たいものを感じて知らぬふりを装った。

 警察のパトロールカーが、ふたりのすぐ後ろで止まった。えり子を見ると、彼女は茫然とした表情をしていた。すぐにひとりの警察官が降りてきて、ふたりに後ろから声をかけた。

「ちょっと、あなたたち」

祐二とえり子はすくんだように立ち止まった。

 えり子が、全身の力が抜けたかのように、すっと紙の手提げを落とした。祐二はあっ、と思った。オルゴールが割れるな、と思った。それから路上にガラスの砕ける音が響いた。その間映画のスローモーションを見るように、ずいぶん長いあいだ、祐二は落下する手提げを見ていたような気がした。

 警察官はふたりの正面にまわると、それぞれを一瞥したあと、祐二に向かってこう尋ねた。

「ちょっとあなた、どこへ行くんですか」




 祐二は豊かな水をたたえた川のほとりで、きらきらと光を反射する川面や、ぽかぽかとした空気の中でのんびりと竿を垂れる釣り人を眺めていた。

 川を渡るのどかな風は、淀んだ水や、対岸の木の葉の香りを運んできた。

 祐二は土手に座ってその風に吹かれながら、3ヶ月ほど前の冬の出来事を思い出していた。


 祐二が警察官にいきさつを話したところ、ふたりはパトロールカーに乗せられ、えり子は自宅へ送り届けられた。

 警察官が家の入り口でえり子の両親から事情を聞き、祐二は住所と氏名を確認されただけでその場は解放された。

 翌日、工場長は祐二を事務所へ呼んだ。机の上で手を組んで、しばらくじっと睨みつけるように彼を見つめていたが、ひとつため息をつくと、ようやく重々しく口を開いた。

「念のためひとつだけ聞くが……」

工場長はそう言ってから語気を強めて続けた。

「おまえ……まさか娘になにもしなかったろうな」

「そんな、何もしてません」

 工場長はそれからひとしきり、探るような目で彼を見ていた。祐二がたまらず目を逸らすと、脂にすすけた壁の上方から、相変わらず「人々の幸福を目的として」とか、「社会の発展のために」という文字が、いかめしい顔つきで彼を見下ろしていた。

 それから工場長の、

「よし、分かった。もう行っていい」

 という突き放すような冷たさを含んだひと言で、彼は解放されたのだった。


 祐二はこの出来事を思い出し、岸辺で風を受けながら、熱いものが胸に込み上げてくるのを感じた。


 あれ以来、祐二は車で通勤しているため、えり子には1度も会っていない。工場長も、2度と家には呼んでくれなくなってしまった。

 それまでひとつひとつ積み上げてきたものの大きさを、そしてそれを一瞬にして失ってしまったことの痛みを、彼は今になって実感していたのだ。


 が、それにしても、と彼は思った。

 えり子は一体どうしているだろう。相変わらず4時10分のバスに乗って、昼も夜も、勉強に明け暮れているだろうか。


 祐二の内を冬の情景がよぎった。深い霧と闇の中に浮かんでいる1本の橋の上を、自分とえり子が手を繋ぎ、おぼつかない足どりで歩いて行く情景である。

 彼はえり子の手のあたたかみを感じつつ歩いていると、ふと遠くの橋の先がぼんやりと明るんでいるのを見る。前方も、左右も、闇と霧に沈んで何も見えない橋の上を、彼はそのくすんだ明かりと、手のぬくもりだけを頼りにどこまでも歩いて行く。しかしはっと気づいて見回すと、いつの間にかえり子の姿はなく、彼はひとりぼっちになっている。彼は茫然と、僅かにぬくもりの残った自分の手を見つめる。そして顔を上げると、もはや確かにあったはずの前方の明かりも、いつの間にか消え失せている。彼は束の間、ぼんやりと空を見つめるが、やがて再びうなだれて歩き始める。1人で、不確かな足どりで、祐二は手探りするように暗い橋の上を進んで行く。


 と、その時、土手の上からおーいと呼ぶ仲間の声で祐二は我に帰った。もう昼休みも終わる時刻だった。細かい作業の繰り返しに戻らなければならない。

 祐二は深いため息をつき、立ち上がって岸辺を離れると、道路を渡り、小石を蹴とばしながら、チャイムの鳴る工場へ向かった。


(完)

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さよなら美少女 ガラスの道化師湖に散る レネ @asamurakamei

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