第4話

 再び車に乗って、2人は1時間ほど川を遡ると、ダムへやって来た。

 ダムの真上の道路を通過すると、周囲を小山と冬枯れの森に囲まれた湖が、遥か下方にひっそりと広がっているのが見えた。それはいかにも静かに、ゆったりと横たわっていた。

 水が大分減っているらしく、水面が下がった分、普段水中に没している茶色い岩肌があらわになって、静まり返った湖面を縁どっていた。

 祐二はさらに車を走らせると、右手の細い道に折れて森の中を走った。木の葉が落ちきって、木立ちの奥にどんよりとした空のうかがえる寒々とした森を通り抜けると、湖の奥の一角のほとりに車を乗り入れ、水際のすぐ近くまで行って止めた。

 エンジンを切って外に出ると、途端に冷え冷えとした空気がふたりを包み込んだ。あたりには風もなく、釣りをする人も、ボートに乗る人もなかった。

 ただ波ひとつない凍ったような湖面だけが、背後の山々を映して眼前に広がっているのだった。

 山々が、森の木々が、そして湖面が、吸い込まれるような静寂をたたえていた。対岸の山肌を、微かな霧が這っていくので、空気が動いていることが分かった。

 周囲の静寂に耳を澄ますと、祐二は労働の苦痛がすっと霧散して、内心が浄化されるような心地がした。深く呼吸をすると、疲労が白い息と共に澄んだ空気に溶けていき、鬱屈した気分が、少しずつ解放されていく気持ちがした。

 祐二が小石を拾って湖へ投げると、ぴちゃん、という音があたりの静けさを貫いた。

 彼は空気が震えるのを感じたような気がした。

 彼方のしぶきは水面の山々を砕き、丸い波紋が幾重にもなってゆっくり広がった。波紋が勢いを失うと、再び少しずつ、中心から鏡のような湖面が現れた。やがて波紋の最後の輪は、巨大な鏡の中に消えた。

 今度はえり子が足もとの小石を拾った。いかにも遠くへ放ってやろうという熱気を込めて、それを投げた、と、その瞬間、すぐ目の前でぴちゃん、と水がはじけた。ふたりは笑い声をたてた。笑い声は、こだまのように水を渡って対岸にまで響いた。

 祐二が横手で平たい小石を投げた。石は水を切り、一瞬沈んでは即座に水面へ飛び上がり、2、3度それを繰り返してから水中へ消えた。あとには向こうへ波紋の輪が3つ並んで残り、それがゆっくりと広がるにつれて山の木々がたゆたった。


 また2人を包み込むように静けさが戻ってきた。

「ねえ、どうして勉強しなきゃいけないのかなあ」

 えり子がコートのポケットに手を突っ込み、湖面を見つめながら、突然ため息をつくようにして言った。

「そうだね、なんでだろうね」

 祐二がまた石を投げた。遠くに丸い輪が広がった。

「親は将来のためだって言うけど……」

「結局それなんじゃないかな。特に男は、いい大学に入って、いい企業に就職して……大切なのは学ぶことじゃなくて、いい点数をとることなんだよ」

「でもそれじゃあ、本末転倒だと思うけどな」

 祐二はまた石を投げた。今どき、なぜ勉強するのかなどという疑問を持つ子がいるのかと思った。そして自分もよく、同じようなことを考えていたのを思い出した。

「ねえ、人間ってなぜ生きてるんだろう」

「……」

「私も、あなたのように学校やめちゃおうかな」

 祐二はそれには何も答えなかった。えり子の言葉には、同意を求めるような調子が込められていたのだが、祐二はそれにどう答えてよいか分からなかったのだ。

 自分が同意したからといって、彼女が明日にも学校をやめるとは思えなかったが、やめたところで、一体どこに、何があると思っているのか、という怒りに似た反問が、彼の内に湧き起こったのだ。

 祐二はもう1度石を投げて景観の静寂を突き破ると、寒々とした湖畔の森へ向かって歩き出した。それから思い出した。

 そういえばあの頃自分も、えり子が言ったなぜ生きてるかという、青春に特有の疑問を抱き続けていたのだということを。


 祐二はいつの頃からか、生きる意味を、あるいは目的を捜し求めるようになっていた。

 死ぬためによりも、むしろ生きるためにこそ理由が必要だと感じるようになっていた。

 しかしいかに受験のための知識を詰め込んだところで、それは発見できなかった。また将来鳥籠のような家に住んで、満員電車で通勤して、企業の利益のために果てしない競争を続けたところで、やはりそれは発見できるはずがないだろう。

 結局、祐二は自分が高校をやめたのはその思いのせいだったのかもしれないと考えた。

 生きることの意味を、この世界のどこかに見出すためだったのかもしれないと考えた。少なくとも当初は、そうした純真な気持ちを抱いていたような気がした。しかしいまだに、時として同じ思いをひきずっている自分に彼は気づく。そしてそのたびに彼は思うのだ。この7年間で、自分は一体何を発見することができたろうと。


 えり子は手提げを持って、森へ向かう祐二についてきた。

 森に入ると、冬枯れの木立ちの間にいく筋もの小道があった。

 小枝や枯れ葉をさくさくと踏みしめながらその小道を歩いていると、暗い色合いの木々が、すぐ左手をゆっくりと横切っていく。見上げると、小枝がくっきりと、暗い雲に筋ばった無数の細かい線を描いている。


 冷たい、霧にも似た雨の粒が、枯れ枝の間から舞い降りてきた。しかし、それにはまだ衣服を濡らすほどの勢いもなかった。


 

 雨の粒はしだいに大きくなって、やがて木々や地面をしっとりと濡らし始めた。

 2人は小道を右に折れて広い道路へ出た。

 百メートルほど先が、対岸に続く大きな橋になっていたが、それは車も殆ど通らないような、寂しい道だった。すぐはす向かいに、屋根がトタン葺きの、古ぼけたバスの待合所があったので、そこへ駆け込んだ。ふたりはハンカチで、髪や衣服についたしずくを拭い、並んで古い木のベンチに腰かけた。

「ううっ、寒い」

 えり子がおどけた調子でつぶやいた。

 祐二はためらいながら、自分の着ていたハーフコートを脱ぐとえり子の肩にかけてやった。

 えり子はされるままにそれを羽織ると、手提げの中から、サンドイッチとふたり分のジュースを取り出した。

 祐二は自分の分を受け取って、それを頬張り、また考えた。

 もし高校生の時、自分にえり子のようなガールフレンドがいたら、息苦しく、窒息しそうな日々の中の、大きな光明になっただろう。

 勉強の苦痛や学校のつまらなさから、どれほど逃避できただろう。

 そしたら自分も、今とは違った生活を選んでいたかもしれない……。


 祐二はためらいながら、えり子にそのことを語った。

 えり子は何も答えずに微かな笑みを浮かべ、手にしていた缶ジュースを傍に置いて、手提げの中からオルゴールの箱を取り出した。

 包装紙をとり、蓋を開くと、透明に輝くピエロが、もの悲しい顔をして現れた。弱く、ほの白い冬の光のせいか、それは今にも泣き出しそうに見えた。

 えり子はそれを手に取り、台をくるっ、くるっ、と数回まわすと、人形のほうへ耳を傾けた。

 待合所に繊細なシチリアーノの音色があふれた。音のひとつひとつが、壁のベニヤに弾けて混ざり合った。

 祐二は、自分とえり子の気持ちが音の中で溶け合うのを感じた。

 目の前には、さわさわと細かな雨が降り続いていた。


 ほどなく薄暮が降りてきて、細かな雨はやがて粉雪に変わった。ここから水面は見えなかったが、森の向こうの静まり返った湖へ、雪が音もなく吸い込まれていく様が想像された。


 その時、祐二は自分の中に、ある強い衝動が湧き出すのを感じた。それは祐二の意識を現実から切り離して自身の内へと誘い込み、甘く、同時に後ろ暗い考えを、彼の頭に浮かび上がらせた。

 祐二は全神経をえり子のあたたかみに奪われながら、おぼろな意識でこう考えていた。

〈今、もしこの美しい少女に接吻したら、あるいは彼女を抱きしめてその胸に触れたら、自分は犯罪者になるのだろうか〉

 しかし、そこで祐二の脳裏に工場長の表情や態度が浮かんだ。えり子のふたりといない綺麗な頬や鼻に、なぜか工場長の面影を見た。

 祐二の意識は霧が晴れるように現実へ引き戻された。


「もう帰ろうか、寒いだろう」

 祐二はそう言ってえり子を促した。

 えり子はオルゴールを裸のまま手提げに入れると、箱や包装紙は手に持ったまま、祐二について雪の中を小走りに車のほうへ戻ってきた。


 あたりは少しずつ闇に近づいていった。

 祐二がエンジンをかけて、暖房を入れると、ふたりは何も話さずに、そのまましばらく座席に座っていた。

 熱い空気が氷を溶かすようにふたりを足もとからあたためると、どんよりとした夕べの沈黙はひどく心地よいものとなった。

 やがて体温が戻ると、えり子はあくびをひとつしてつぶやいた。

「私、このまま眠っちゃおうかな」

 祐二は微笑みながらも内心に残ったえり子に対する僅かな欲望を振り払い、

「行くよ」

 と言ってアクセルを踏んだ。とその時、後輪が滑って、車体は少し揺れただけでもとの位置に戻った。祐二ははっとして2、3度強くアクセルを踏んだ。ところが後輪は一層激しく空回りするばかりで、アクセルを踏めば踏むほど、ぬかるみに深くはまっていった。

 祐二は困惑した。幸い、雪は小降りになってきた。しかし彼はこうした経験は初めてだったから、どうしたものか戸惑い、手際良く事を処理することができなかった。

 まず、祐二は懐中電灯を手にして外へ出ると、ジャッキで車を持ち上げようと思ったが、地面が柔らかいので、ジャッキの土台にする板を探した。しかしそれは見当たらなかった。

 ちっぽけな光の輪を頼りに四方を探し回ったあげく、結局見つからないため、ジャッキを直接地面に立てて車を持ち上げようとした。

 しかしそれでは逆にジャッキが少しずつ地面に埋まっていくばかりで、車は微動だにしなかった。

 祐二は小石を集めてきて、タイヤの下に埋め込むことも試みたが、アクセルを踏むと、タイヤは一気に石をはじいて空回りするばかりだった。

 何か良い方法はないかとあれこれ思案したが、まるで何も浮かばない。

 祐二はこうした時にどうすれば良いのかという知識が全く欠けていたのだ。

 祐二はえり子に対して不手際を恥じつつ、結局座席に戻る以外どうすることもできなかった。


 雪はいつしか止んでいた。

 祐二は冷えた体をあたため、手をこすり合わせながら、「困ったな。何かいい方法はないかな」と1人つぶやく。

 えり子は時折祐二の顔をうかがいながら考える様子をしていたが、彼女に祐二以上の知恵があろうはずはなかった。

 あたりはすでに真っ暗で、湖は暗黒の中に沈み、低空に微かな山の稜線が見えるだけで車一台通る気配がない。

 昼間美しかった湖が、今は不気味な黒い沈黙となって目の前に横たわっている。

 もうどうすることもならなかった。

「困ったな。おとうさんとおかあさん、心配するだろうね」

 おとうさん、という自分の言葉に引きずられて、また工場長のイメージが頭をよぎった。

 えり子は「平気よ」と答えたものの、やはり不安なのか、助手席に座ったまま、ぼんやりと黙り込んでいる。

 祐二は思い出したようにラジオのスイッチを入れた。少しでもえり子の気持ちを慰めなければと思ったのだ。しかし音楽がこもったような音を立て始めると同時に、ふと、すぐ先の橋を渡ってしばらく行ったところにある、カップルのためのホテルが頭に浮かんだ。以前1度同僚と来た時に、入り口に薄ぼんやりと黄色いランプの点る、意外に地味なホテルを祐二は見たことがあったのだ。

 普段なら卑猥な印象を受けるはずのホテルが、その時は不思議に幸福の象徴のように見えたのだった。

 しかしそれは、今は脳裏をよぎっただけで、それ以上具体的な想像には至らなかった。


(つづく・次回最終回です)

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