第3話
雲の低く垂れこめた木曜日だった。
その日有休をとった祐二は約束の午後2時、駅の近くの道路脇に買ったばかりの白い中古車を停め、バーゲンで購入したモスグリーンのハーフコートを羽織って外に出た。
車にもたれて立って、煙草に火をつけると、さびれた町並みや、その背後のどんよりとした、灰色の絵の具を塗りつけたような空を眺めていた。
駅の方角から、約束どおり学校を早退し、右手に学生鞄と紙の手提げ袋を持ったえり子が歩いてきた。
彼女は祐二を見つけると、紺のコートを揺らしながら歩道を小走りに近づいて来た。短い髪も上下に揺れた。車のところまで来た時、祐二は「やあ」と小さな声で言うと、えり子のあまりの可愛らしさに急に生来の内気が顔を出し、思春期の少年のような恥ずかしさを覚えた。
彼はおどおどしながら隠れるように車の中に入った。
「いい?」
えり子が言って、助手席に入ってきた。途端に隣の座席から彼女の体温が伝わってきて、祐二は胸苦しさを感じ、同時に全身の神経が高揚するのを覚えた。
しかし即座に、運転席がいかにも古びていて、飾り気がないのに改めて気づき、急に恥ずかしくなった。
メーターなどの表示や、その他の装置は見るからに安っぽく、味気なかった。
そしてえり子の父である工場長が、何百万もする車に乗っていたのを思い出し、今さらながらわびしい羞恥が込み上げてきた。
ところがえり子はそんなことは気にもせずに目を輝かせていた。
祐二はそれにようやく勇気を得て、エンジンをかけると車を発進させた。するとたちまち羞恥は霧散し、何かわくわくする期待が、祐二を、そしてえり子を徐々にとらえ始めた。エンジンがあたたまってきた頃暖房を入れ、彼は慣れない運転でこわごわとハンドルを切った。
しばらく殺風景な町中を走ると、えり子が何か食べるものを買って行こうと言い出した。
そのまま少し車を走らせて、えり子の指示したコンビニエンスストアの前で祐二は車を止めた。
車から降りて店の中に入り、彼らはサンドイッチとりんごのジュースを2本買い求めた。
外へ出て車に戻ろうとした時だった。えり子が「ねえ、ちょっと待って」と、何かを発見したように車の横を通り抜けて、通りの向こう側に並んでいる店へ走って行った。
ぬいぐるみを飾ってある店があったから、てっきりそこへ入るのだろうと思って見ていると、えり子はその隣のガラス工芸店のウインドウの前で祐二を振り返った。手招きするような仕草をしたため、祐二が道路を渡って追いつくと、えり子は先に扉を開けて中へ入って行った。
入ってすぐ右手の、空色の布で覆われたテーブルの上には、手のひらに乗るほどの、ガラスでできたこうもり傘が、つややかな光沢を放って並んでいた。
その隣には、高さが20センチほどの、ガラスでできたピエロの人形が並んでいる。それはどれも表情に愁いを浮かべ、ぼんやりと空を見つめている。
そうかと思えば、思わず手に取ってみたくなるような、ガラスでできた体調5センチほどの子犬や、子猫、蝶々、かたつむり、あるいはりす、うさぎ、ねずみといった動物たちが、なめらかな体の線にそって反射をあげながら、楽しげにテーブルの上で戯れている。冷たい、精妙な美しさを感じさせるそれらの生き物を、えり子はじっと見つめ、そして嘆息を漏らした。
さらにその横には、高さ3センチほどの天使たちが半円状に並んでいた。それは唯一直立した指揮者を中心に小編成のオーケストラを作っているのだが、それぞれが手にしている様々な楽器からは、澄明な、繊細できらきらとした音楽が聞こえてくるかと思われた。
「かわいい」
満面に笑みを浮かべながら、祐二の同意を求めるように一瞬彼を振り返ってえり子が言った。祐二も微笑んだ。
しかし祐二は、それらは確かに美しいと思ったが、えり子のような年頃の少女がかわいいと言うのは少し奇異に思われた。というのは、それらはあまりにも精密で冷たすぎるのだ。
むしろえり子がかわいいと言うには、隣の店のぬいぐるみの方が余程ふさわしく思われた。
祐二は、澄んではいるが、凍えて、冷え切ったようなえり子の内心を、そのガラス細工に見る思いがした。
祐二のひとり合点かもしれないが、彼は抑圧された生活を送っているえり子を、急に痛々しく思った。生き生きとした目で店内を歩き回るえり子が、いかにも束の間の逃避を楽しんでいるようにも見えたのだ。
また同時に、祐二は労働のせいでひどく神経が疲労していたため、店内を歩きながら、それらガラス製品のもろさが気になった。
一瞬、自分が棚の上のグラスを落として割ってしまう幻想にとらえられ、不安になった。
弁償を強いられるということではなく、それらのうちのひとつでも割ってしまうことが、なぜかえり子の夢を、あるいは彼女の心の中の何か大切なものを打ち砕いてしまうことになるような気がして怖かった。
それは取り返しのつかないことのような気がして、そうならないうちに、祐二は早く店を出たいと思った。
するとえり子がまた、ため息をつくようにして言った。
「いいなぁ」
「どれかひとつ、買ってあげるよ」
祐二は不安を振り払い、あえて明るい調子を作って応じた。
「本当?」
えり子はゆっくり選ぶように工芸品の前を歩き、ひとつひとつ吟味するようなふりをしたあと、憂愁の面持ちをした、高さ20センチほどの、ガラスでできたピエロの人形を手に取った。それは輝き具合によって、寂しさとも嘆きともとれる表情をしており、ガラスのとんがり帽子を被って、パジャマのような透き通る服を着ていた。鼻が丸く、小さな台の上で、うつむき加減に膝を抱えるようにして座っている。
えり子がその台を固定して、くるっ、くるっ、と回すと、彼女の手の上でピエロはゆっくりと回りだし、いかにもガラスを弾くような、輝く音色が流れ始めた。
「このメロディ、前から素敵だなって思ってたの」
その時祐二は初めて、えり子は前にもこの店に来たことがあり、そしてこのピエロのオルゴールに目をつけていたのかもしれないと気づいた。
「何ていう曲か知ってる?」
えり子はピエロを耳もとに近づけて、メロディに聴き入ったまま祐二のほうへ目を向けて尋ねた。
「シチリアーナだよ」
「シチリアーナ……有名な曲?」
「有名有名。フォーレという人の曲だよ」
「ふうん、私、これがいいなあ」
首を少し傾け、ねだるようにえり子は言う。
「いいよ……あのォ、すみません」
祐二は店員を呼び、金を払った。
扉を開けて店を出ると、半ば薄らいでいた不安から、彼はようやく完全に解放されるのを感じた。
えり子は祐二の横を歩きながら、オルゴールの入った袋をまるでぬいぐるみのように抱きしめた。その姿を見て、祐二は、昔こういう曲を聴きながら美しい世界を夢見、また信じていた時代が自分にもあったことを思い出した。
ある年代まで確かに、祐二はそうした美しい世界を信じていたのだった。輝かしい名誉などなくとも、富に満たされていなくとも、彼の未来は、果てしない、心洗われるものとの出会いに彩られていた。というのも、ほんの些細なことにも、たとえば古い家並みの白壁にまとわりついた蔦や、あるいは曇り空の鳩の群れにさえ、祐二は心奪われる性質を持っていたからだ。
だから、祐二は自分が生きている限り、自分の心を満たしてくれるものが限りなく向こうからやってくると信じていた。同時に,それが彼に生きることの喜びを感じさせてくれるはずだった。
しかしいつの頃からかー多分偏差値という自己の認識方法を知らされた頃からーそうした祐二の心は摩滅し、擦り切れ、やがてぼろ布のようになってしまい、今はその破片すら残っていない。
彼の内の美への憧憬は、とっくの昔に現実によって圧し潰され、遥か遠くに追いやられてしまった。そして気がつくと、殺伐として、荒涼とした日々だけが、鉛のように重く祐二の未来にのしかかっているのだった。
(つづく)
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