第2話
水気の多い大粒の雪が舞う、2月の夕暮れのことだった。
乗降客の少ない私鉄の小さな駅を出ると、祐二は夕方4時10分のバスに乗るつもりで、ターミナルの停留所に佇んでいた。
人影は、駅の軒下にぽつりぽつりと車を待っている人がいるだけで、ターミナルを出た道路脇には、白くけぶった商店が並んでいた。
その光景を眺めながら冷たい風をこらえていると、祐二の色白の頬はすぐに赤く染まり、彼は自分が無意識のうちに、いつの頃からか身についてしまった、しかめっつらになっているのが分かった。
バスは白い結晶の粒を左右に撒き散らすようにして、線路沿いの道をターミナルに向かって湧き上がって来た。
最初に黄色い屋根が見え、運転席が現れると、すぐに全体があらわになった。
それは祐二のすぐそばまで来て減速すると、チェーンの音をガラガラと響かせながら停車した。
開いた扉から乗り込み、ムッとするほど温まった空席だらけの車内を後部の座席の方へ歩み始めた時、こちらを見て微笑んでいるえり子の顔が、まず祐二の視界に飛び込んで来た。
「やあ、えりちゃん」
祐二はそう言って、ゆっくりとえり子の座っている最後部の座席に向かいながら尋ねた。
「今帰り?」
こっくりと頷いたえり子に、一応「いい?」と了解を得て、そのすぐ隣に腰を降ろした。
高校の制服の上にコートを着て、膝の上に学生鞄と紙の手提げを置いたえり子は、自宅で見る時よりもずっと落ち着いて、清楚に見えた。
色の白さと左右に長く伸びた眉、それにきれいに澄んだ瞳に、コートの紺はよく似合っていた。
そして何よりも、えり子は美しかった。祐二の心がとろけてしまいそうなほどの美少女だった。
乗客はほかに、やはり女子高校生が2人、それに買い物帰りらしい中年の女が数人いるだけだった。
「どうしたの、こんな時間に」
えり子は祐二が腰掛ける間もなく彼に話しかけた。
「いや、今週から遅番をやることになったんだよ」
祐二はそう答えた。
祐二がそれまで敬遠していた遅番の仕事をするようになって、きょうで2日目だった。
いつの頃からか、彼は車が欲しいという願望を持ち始めていた。
暖かな日曜日、疲労を癒すために、のどかな川辺や山道をドライブしたいと思うようになったのだ。
ローンを払うには金がいる。
工場はもともと2部制で、工員は希望により、1週間ごとに早番と遅番を交替する昼夜混合の勤務につくことができた。早番は朝8時から夕方5時まで、遅番は夕方5時から夜中の2時までだったが、月2万円の夜勤手当のつく昼夜混合の勤務のほうが、車を買うには都合がよかった。それで祐二も自ら希望し、昨夜から初めて遅番の仕事についたのだ。
しかし車は購入したものの、自宅に届くのは来週になると言われた。そこで今週いっぱい、行きは今まで通り電車とバスで通勤し、帰りは深夜になるので、同僚の車に同乗させてもらうことにした。
今はちょうど、その通勤の途上だった。
「あっ、ほんとう。遅番って大変なんでしょ?」
えり子は工場の就業規則を知っているらしく、祐二の言葉に即座にそう答えた。
「うん、まあ」
祐二が曖昧に返すと、彼女はひと呼吸おいて、窓の外へ視線を移しながらつぶやくように言った。
「すごい雪」
「うん」
バスは舞い散る雪の中で少しずつ速度を上げ始めた。
ターミナルが遠ざかると、軒を並べている八百屋や、靴屋、あるいは金物屋などの店が窓外を背後へ駆けて行く。
工場長の高校1年生のひとり娘、それが、このえり子だった。祐二は何度か工場長の家に招かれたことがあったが、ふかふかとしたソファとテーブルのある、白いカーテンの引かれた清潔な応接間で酒を飲んでいると、彼女は勉強の息抜きと称して決まって話に加わってきた。
内向的で女性と話すことの苦手な祐二は、初めこそこの「息抜き」とやらの時、8歳も年下のえり子に何を話せばよいのか戸惑うこともあったが、えり子は祐二と話すのが嫌いではないらしく、すぐに打ちとけるようになった。
女性の容貌など褒めたことのない祐二が、えり子の髪型のことを、「その、おかっぱみたいの、似合うね」
とぎこちなく言うと、
「よしてよ、ボブカットっていうのよ。ホントにもう、おじさんなんだから」
そう言って冗談まじりに祐二をからかった。
えり子から見ると、祐二はどこかずれていて、もうおじさんなのだそうだ。
もちろん祐二にしてみればおじさんと言われるのは嬉しくなかったのだが、
「だって私から見ればもうおじさんよ」
えり子は笑いながら多少控えめな調子でそう言っていた。
しかしそのえり子の口調には、どこかひどく親しみがあった。そして祐二から見れば、えり子もまた多少標準からずれた感覚の持ち主に思われ、一風変わった者どうし、互いにしか分からない親しみと理解が、そうした言い草に込められている気がしていた。
そしてそれは、祐二を招いて酒を注いでくれる工場長には、決して分からない感覚だったに違いない。
バスはいつしか古びた街並みを通り抜け、人家の少ない、畑ばかりが目立つ通りを走り始めていた。
白く染まった夕暮れの畑は、寒々としてひどく淋しげだった。
バスが進むにつれて畑の白色は次第に深くなり、降りてきた夕闇の底に沈んで淡く光っている。
その光景を見ているえり子の横顔に見とれそうになりながら、祐二は、
「いつもこの時間?」
と尋ねてみた。
「そう。毎日このバスに乗ってるの」
えり子は可愛らしい苦笑を浮かべながらそう答えた。が、その苦笑には、何か言葉とは別の意味が含まれているようにも思われた。
祐二はこの時、初めてえり子と2人きりで話をしたのだが、工場のことや、えり子の学校のことを話すともなく話しながら、不思議に自分が、静かな落ち着いた気持ちになるのを感じていた。
祐二はそれを、雪のせいかもしれないと思った。雪をはじくチェーンが外界の音を遮断し、窓の曇りによって風景がくすみ、車内が暖かな密室と化しているせいかもしれないと思った。が、同時にふと、祐二は自分とえり子は、やはり何かが似ているのではないかという気がした。
祐二は精神的に抑圧され、鬱屈した気持ちを抱えていつも満たされぬ思いに悶々としていたのだが、えり子の一見真珠のような表情や、ちょっとした言葉の端々に、それに似た心情の表出する瞬間があるように思われたのだ。
「えりちゃん1年生でしょ。勉強はどう? まだそれほど大変じゃないの?」
祐二がそう尋ねた時、えり子の表情に、突然かげりがさした。
「ううん、大変」
「大変?」
「大変。親がうるさいから」
急に不快な気持ちを表現するように、眉をしかめ、口元を歪めて答えるえり子に、祐二は少しおどけながら、
「へえっ、工場長、そんなにうるさいの?」
と意外な様子を見せて尋ねると、えり子は一層不愉快そうに答えた。
「ううん、おとうさんよりも、母がうるさいの」
そう言う時のえり子の面持ちには、むしろ大袈裟なほどにやりきれないといった調子が表現されていた。
しかしその言い方に少しも冗談めかしたところがないことから、僅か16の少女が、身に余る重圧に日々煩悶しているらしいことが分かる。
えり子によると、彼女の高校は有名な進学校で、勉強が辛くてたまらないのだという。
まず家に帰ってから7時頃まで勉強し、週に4回、夕食をとったあと8時から10時まで、家庭教師にみてもらっている。そのあとはさらに夜中までも勉強しなければならない。
このスケジュールは親が決めたものだが、もう自分には耐えられない、と彼女は眉をしかめた。
祐二も、高校生の頃は勉強が苦痛でたまらなかったのを思い出した。
しかしそれでも彼は、えり子ほど徹底した生活はしていなかった。
嫌気がさすと、ノートに落書きをしたり、机に突っ伏して居眠りしたりしていた。
あるいはまた、ラジオの深夜放送を聞いたり、夜中にヘッドホンで音楽を聴いたり、時にはテレビの深夜映画を観たりといったことに勉強からの逃げ道を見出していた。
祐二は案外えり子もそんなことをして苦痛を紛らわせているかもしれないと思い、尋ねてみた。すると、祐二が聴いていた深夜のラジオ番組がいまだに続いているのを知り、懐かしい気分にとらわれた。
「そう、あれまだ続いているの」
祐二が感慨深げに言うと、
「うん、続いてるよ」
彼女は明るい表情を取り戻し、楽しげに言った。
「来週は早番だから朝早く通勤する。その翌週は遅番だけれども、車で通勤しなければならないから、もうバスの中で一緒になることはないと思う」
ドライブに行く約束をしたのは、翌日、やはり同じ時刻のバスに乗り合わせたえり子にそう言った時だった。
「車持ってたの?」
祐二が言い終えた時、えり子が聞き返した。
「いや、最近買ったんだよ。来週届くはずなんだ。中古の安いやつだけどね」
「ふうん……」
えり子はそのまま祐二の顔を見つめ、何か言いたそうにしていた。それで祐二はふと、半ば冗談に、
「ドライブに連れて行ってあげようか」
と、そそのかすような口調で言った。するとえり子はその言葉を待っていたように、ホント? と食い入るようになおも祐二を見つめ、みるみるうちに瞳が輝き始めたのだ。
そこで祐二がドキドキしながら、
「本当に行く? じゃあ連れて行ってあげるよ」
と、戸惑いながらもえり子の気持ちを確かめるように言うと、
「ホントに? やったあ! 行こうよ、ドライブ!」
えり子は両手を合わせ、座席の上で身体を弾ませるようにして無邪気に答えたのだった。
(つづく)
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