さよなら美少女 ガラスの道化師湖に散る
レネ
第1話
バブル最盛期、まだパソコンも携帯電話も普及していない、これはそんな頃の話である。
従業員が60人ほどの小さな工場で,祐二はもう2年以上も、朝から晩まで部品を並べる作業に没頭していた。
疲労が背後から石のようにのしかかってきたり、鉛の重さにも似たひどい頭痛がこめかみを襲うこともあったが、機械が動いている限り手を休めるわけにはいかなかった。
灰色の壁に囲まれた、ギシギシと軋む床に立って、規則的な機械の音に追われながら、米粒ほどの部品を貼り付けたり、ピンセットでその歪みを直したりといったことばかり繰り返していると、祐二はいつしか彼自身がなくなってしまう恐怖に襲われた。意識は機械の一部となり、機械なくして自分などというものは存在しなくなってしまうのだ。
夏の昼休み、食堂の椅子で紫煙をくゆらせていると、工場の背後の林から窓を伝わって聞こえてくる蝉の声に、あるいは青い夕暮れのひぐらしのざわめきに、自分を取り戻す安堵を感じることもあったが、それがコオロギの鳴き声に変わり、やがて冬ともなると、疲弊した神経には、終業時間になっても僅かな充足もなかった。ただただ倦怠と侘しさに打ちひしがれて、膝を抱え込みたくなるばかりであった。
工場は、ある通信機メーカーの下請け会社で畑や民家に混ざってぽつりぽつりと建っている、似通った規模の企業のひとつだった。
工場の前には、狭い道路を隔てて淀んだ川が横たわっており、多少濁ってはいるものの、それは豊かな水をたたえていた。
向こう岸にはごつごつとした石の川原が広がり、その背後には小高い山が連なって、春ともなると木々が青々とした葉を繁らせた。
川幅は30メートルほどで、本流は遠浅のため釣りをする人もいなかったが、手前には砂礫に雑草の生えた中洲があり、そのこちら側に深く静かな溜まりがあった。
昼休みに土手に座ってぼんやり眺めていると、何人かの釣り人が、その溜まりでのどかな釣りを楽しんでいた。
今は5月で、日向ぼっこにはちょうど良い季節だったから、祐二はよく、昼休みをこうして岸辺の土手に座って過ごした。
静かな水面や釣り人を眺めていると、身体がぽかぽかとあたたまって、穏やかな、いい気持ちになった。
目をつぶって顔を上げると、睫毛をさらさらとした風がなでていき、瞼がちかちかと赤くなって、そして遠くで鳥のさえずるのが聞こえた。
しかしそうしながら、時々彼の脳裏を、3ヶ月ほど前の、冬の出来事がチラとよぎることがあった。
するとそれはたちまちひとつの情景を伴って、染み入るような懐かしさで彼の心をとらえるのだ。
そうした時、彼はその情景の虜となり、いつも多少の憂鬱を含んだ、胸苦しく、切ない気持ちになった。
……一切の風景が一面の闇と深い霧に消えている中を、ただ一本の舗装された長い橋だけが、白い光彩を受けたようにぼんやりと浮かび上がってのびている。その橋を、祐二と、高校の制服を着た神田えり子という少女が、手を繋ぎ、おぼつかない足どりでむこうへ向かって歩いて行くのである。
えり子の背は高くも低くもなく、比較的長身の祐二の肩を少し出るほどで、髪は短めの、おかっぱのような形をしている。目は二重で澄んでおり、鼻は高くもなく低くもないが、まるで宝石のような美少女である。
白い霧は、橋の表面を右から左へゆっくり流れていて、彼はえり子の手のあたたかみを感じつつ歩いていると、ふと遠くの橋の先がぼんやりと明るんでいるのを見る。それは窓の明かりのようでもあり、もっと強い、街灯の明かりのようでもあるのだが、何なのかはよく分からない。ただ、その部分だけが、長い橋の路面に比べると、やや黄色味を帯びて一層はっきりと明るく、彼はなぜかそれに強くひきつけられるのだ。
あの明かりがあるから、自分は歩いて行けるのだと感じる。あの明かりの中に何かが見えるような気もしている。何かといっても、それも遠目には何なのか定かでないのだが、彼は彼女の手を一層強く握り、幻のようなその光だけを頼りに、どこまでもどこまでも橋の上を歩いていく。……
祐二は今年24になった。
高校を2年生の時に中退して何度か職を変わったあと、2年ほど前に今の工場に落ち着いた。
仕事を変わる時、面接を受けると必ずどうして高校をやめたのかと尋ねられた。しかしそのたびに、彼は「理由は何もない」と答える以外になかった。
充分説明できるほどまだ自分の心境が整理できずにいたこともあったが、彼にしてみれば、「ではどうしてあなたはやめなかったのか」と、むしろ聞き返したかった。3年間も続けるほど高校生活は価値あるものだったか。学校は、それほど魅力に満ちたものだったか、と。
「高校をやめたのは君なりに事情があったのだろうが……。オレは大学まで行ったけど結構楽しかったぞ。本当は君もそうすれば、もっと色々な意味で良かったはずなんだかな。まあ学歴はともかく、能力はあるはずなんだから頑張ってくれ。期待してるぞ」
工場の製品を買い上げているメーカー側の管理職で、今の職場に派遣されて来ている工場長は、私立の、祐二と同じ高校の出身だった。有名大学の附属高校だ。そして2年ほど前、祐二が工場に入社したばかりの頃、彼に向かって喜色満面にそう言ったことがある。
机の上に置いた手を組んで、にこやかに祐二を見つめるその表情の、背後の壁の高いところには、毎日朝礼で唱和する社訓が額縁に入れて掲げられていた。
それは今でこそ暗記してしまっているが、その頃はまだ馴染みが薄く、「人々の幸福を目的として」とか、あるいは「社会の発展のために」という文字が、視界の隅にぼんやりちらついていたのを祐二は覚えている。
工場長は中背で、がっちりした体格の、一見穏やかな表情をした人だった。もう50歳近くなるため、先輩といってもまるで実感を伴わなかったのだが、工場長のほうでは随分祐二を可愛がってくれた。
仕事のことで何かと世話を焼いてくれるだけでなく、目もくらむような美貌の高校生の娘同伴で、よく寿司屋などに酒を飲みに連れて行ってくれたし、今年の正月は、彼1人を家に招いておせち料理をご馳走してくれた。
しかし祐二は実のところ、娘の美貌にときめきながらも、工場長に対してあまり親しみは抱けずにいるのが真情だった。むしろ時々、憎々しい気持ちになることさえあった。というのもいかにも健全で、屈託がなく、企業の営利に向かって邁進する工場長は、いわゆる落ちこぼれである祐二からすると、ある種の敵意を抱きたくなる存在でもあったのだ。
その上工場長の態度には、正常な軌道からはずれてしまった後輩を、なんとか立ち直らせてやろうというお節介が見え隠れした。
確かに工場長には、ある程度の社会的地位も、信用も、経済的安定もある。だから祐二は、世間一般の常識は工場長を善とみなし、自分のような存在は、その基準からすればでき損ないでしかないことは分かっていた。
しかし工場長が自分が正しいと心底盲信し、祐二の考えは間違いであると頭から決めてかかる態度が彼には耐えられなかった。
祐二にしてみれば、むしろ自分こそが、既成の価値を疑うことのできる、人間としてより真実味を備えた存在なのだと主張したかった。工場長はといえば、善かれ悪しかれ社会が押しつける物差ししか頼みを持たない俗人なのだ。彼はそう思っていた。
しかし祐二は無力だったから、工場長の前では従順であるより仕方なかった。
「期待している」などと言うが、小学生でもできそうな単純な作業に何を期待しているのか、と内心苦々しく思いつつも、彼は工場長の良き後輩であり、良き従業員であるしか方法がなかった。
そして工場長が、自分の傲慢に気づき、絶対だったはずの物差しが崩壊する瞬間の到来を、心の中でひそかに願っているのだった。
(つづく)
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