えいけつ

驢垂 葉榕

夜明け前

 「ごめんね、起こしちゃって」

 ベッドの上で座る老婦がそう声をかける。ベッドが置かれている病室は何もかもが真っ白だった。窓もなく、色がついたものと言えばベッドの操作パネルとナースコールのボタンだけだった。それすらベッドの上からは見えないだろう。この過剰に白い個室が心を病んだもののための部屋でもあることは長い月日の中で二人とも察していた。最もこの病室を出てもこの世界≪うちゅうせん≫には何の変化もない。話し相手になる人間はおらず、窓に映るのは暗闇だけだった。AIも数年で底が見えてしまった。

 「いいんだ。なんども言ったろう」

 紳士が答える。少し派手な服だが壮年だろう。老婦より二回りほど若い。

 「変化もないのに一人起きてるのが暇なのは当たり前なんだ。俺だって起こす。そういうことなら起きた時から話し相手がいた俺は遥かにマシだ」

 「でも......」

 老婦は視線を落とす。手には茶碗があった。青い蓴菜≪ジュンサイ≫の模様がついた茶碗だ。中にはかき氷が少しだけ残っていた。無色のシロップがかかっただけの白無垢のかき氷。最近はずいぶん食も細くなっていたが氷だけは喉を通るらしかった。

 「ずっと迷惑をかけてきたから謝りたくて。謝って許されるなんて思ってないけど、謝りたい人はたくさんいるけど、それでも謝りたくて。ずっと自分のことだけだったの。小さい頃はぜんそくがあっていろんな人に助けてもらった。病院に連れて行ってくれたのはいつもお兄ちゃんだった。迷惑をかけて申し訳ない思いもあったけど独占できてるみたいで少しうれしかったの」

 茶碗にしずくが落ちる。彼が泣いている彼女を見るのは久しぶりだったようだった。

 「中学に上がるころにはすっかりぜんそくも治ってね、動けるようにはなったけれど、お兄ちゃんが就職で遠くに引っ越しちゃったこととかそれまで休みがちだったからクラスにあんまりなじめなかったこととかあって、ちょっとグレちゃった。多分、謝らなきゃいけない人はこのころの人が一番多いだろうけど、もうできないね」

 しずくは茶碗に落ち続ける。彼女は笑っていた。泣きながら笑っていた。

 「高校は楽しかった。学校もろくに言ってなかったから、入れた高校は立派なとこじゃなかったけど、楽しかった。青春ってこういうことなんだと思った。友達もできたの。亜希子っていってね、中学の時喧嘩してたから一緒の学校だって知った時はビックリした。でも話してみたら面白くて親友になった。ちゃんとJKしようって決めて一緒にいろんなところに行った。東京にもたくさん行った。卒業してからはちょっと疎遠になったけどこの船に乗るまで時々遊んでた。この船に乗ったのが衝動的だったからちゃんとサヨナラ言えてないことだけ、置いてきた私の未練」

 彼女は涙をぬぐってわざとらしく笑って見せた。こんな時だからこそ彼に笑っていてほしいと言っているような、そんな笑顔だった。

 「高校を出て就職したのは地元の医療機器の会社だった。別に悪い会社じゃなかったし、お給料も十分もらえた。でも地元だったからグレてた時期のことを知ってる人が何人かいてね。みんないい人だったから騒がなかったし気も使ってくれてたんだけどそれがダメだったの。ずっとうっすら気持ち悪くて。結局一年ぐらいで行けなくなっちゃった。それからずっと自分が嫌いで閉じこもってた。閉じこもってたけどどこかここじゃない場所に行きたいとか、そんなことばっかり考えてた。そんな時だったの、お兄ちゃんが恒星間移民船に乗るってわかったのは。それを聞いたときすぐに移民船に潜り込む計画を立てた。希望して乗れるものではないけど、運ぶ人がとても多いし何より元居た会社がコールドスリープの装置を作ってたところだったからいろいろできた。直前でキャンセルした人のデータをそのままにしておいて入れ替わって乗り込んで運び込まれた後で正式にキャンセルするの。籍自体は残ってたから同僚に頼むだけでよかったし、50年の片道切符をコールドスリープなしで行こうとする人なんて想定されてなかった」

 この船に乗ったところまで話を進めて、彼女はうつむいた。何かに迷っているようだった。見かねて彼が口を開く。

 「いいんだ、わかってる。わかってるんだ......。お前はとし子なんだろう?」

 それを聞いて彼女は少しこわばった。

 「そりゃ最初は気づかなかったさ。起こされてすぐは20年も早く起きてしまったことの絶望とか戸惑いとか...起こされたことへの恨みとか、そういうことがほとんどだった。それに俺が知ってる妹は俺よりずっと年下で目の前にいるのは親子ほども年が違って見える相手なんだ。でもしぐさとかいろんな部分に見覚えがあった。境遇が妹に似てるって言ったって限度がある。気づいていたんだ。でもこんな瞬間まで言えなかった。言い出せなかった。謝らなきゃならないのはこっちの方だ」

 ここまで聞いて彼女はやっと顔を上げた。微笑んでいた。悲しげに、でも晴れやかに、微笑んでいた。

 「ごめんね、起こしちゃって」

 「いいんだ。なんども言ったろう。俺だって起こした」

 「ごめんね、つき合わせちゃって。向こうについたら料理店を開くんだって、新天地についた流れ者がやるのは洗濯屋か料理屋だって楽しみにしてたのに邪魔しちゃったよね」

 「いいんだ。お前に料理を作れたこの20年は楽しかったし修行にもなった。還暦から料理店を開いた例なんていくらでもある。良い店にする」

 「ごめんね。私が体壊していろいろ迷惑かけたよね。よりにもよってこの船の設備じゃ治せない奴で」

 「いいんだ。子供の時に戻ったみたいだった。そうなってたのは俺だったかもしれない。そうなったらお前も同じことをしたと思うから」

 「ごめんね。最後の料理にこんなもの頼んじゃって」

 「いいんだ。客の食べたいものを出すのがいい料理人だと思ってるから」

 「ごめんね。このあとあんなこと頼んじゃって」

 「いいんだ。お前が俺のことを考えて言ってくれてることは分かってる。それ以上は思いつかなかったし、隠しはしても嘘はつかずに済む」

 「ごめんね。先に、勝手に、一人で、...私一人で逝くことになっちゃって」

 「いいんだ。...いいんだ」

 そこまで聞いて、彼女はわずかに氷の残るだけになったみぞれみたいなかき氷をあおった。そうして最後に、微笑んで、横になりゆっくり目を閉じた。


 紳士は席を立つ。病室を出る。廊下に出ると正面に窓。外の宇宙の暗闇と無色透明の特殊な窓は鏡のように彼を映し出していた。彼女の最後の注文を思い出した。かき氷。甘い、無色の、安楽死用シロップをかけたかき氷。この後の計画といっしょに託されたあの注文は彼女の最後の願いだった。正真の。そこまで考えて、思考が悲しみに押し流されて立っていられなくなる。正真の、松針の、傷心の。そんなことばかりが頭を埋め尽くす。彼女の存在は、この瓶詰の地獄のような世界にあって確かに確かに支えになっていた。人は死ぬと千の風になるという。なら風も吹かない、光もない、銀河の片隅で死んだ妹の魂はどこへ行くというのか。慟哭があった。その声すらここでは伝わらない。


 どれだけそうしていただろう。少しだけ窓の外が明るくなっている気がした。進行方向に星が見えた。目的地だと直感した。朝が来たのだ。時期に船中の人々が目を覚ますだろう。思うことはいくらでもあったが計画がある。病室へ引き返す。彼女はすっかり冷たくなっていた。抱きかかえるとずいぶん軽い。死体は重いと聞いていたが闘病の結果骨と皮だけになった体は寒々しいほど軽かった。

 彼女の亡骸をエアロックに運ぶ。宇宙に捨てる。そうして病室を調え、彼女の痕跡の一切を消す。彼は不運にもコールドスリープが解けてしまったが20年間にわたり孤独に耐えて皆を見守り続けた英傑として受け入れられる。それが計画だった。ログや病室以外のすべてはすでに完遂していた。それだけが二人が潔白でいられる道に思えた。エアロックに着いた。この辺りはもう疑似重力が切れていたから彼女の重さはかけらもなかった。エアロックへ彼女をいれ、一緒にいってしまいたいという誘惑を振り切り本船に戻って、船外へと投げ出した。知らずに泣いていたらしい宇宙を漂う凍った彼女と涙とが瑛≪宝石≫のように輝いていた。さようなら。俺の愛しい妹よ。優しく、白くけなげな妹よ。

 窓の外はもうだいぶ明るくなったように感じられた。朝だった。えいけつの朝だった。

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