西島君は最低最悪

夏生ゆう

失恋を知ったのは突然だった。


「皆さんにお知らせがあります。今月末、田崎くんと澤田さんが結婚することになりました」


 金曜日の終礼で、上司と後輩の結婚の知らされた。


「おめでとうございます。田崎部長」

「おめでとう! 澤田さん」

「ありがとう。みんな」

「ありがとう、ございます」


 人々が祝福の言葉を口にする中、私は部長に、『おめでとう』を言うことが出来なかった。



◇◇◇



 仕事からの帰り道。今日の空は雨模様。

 私の心にも、大粒の雨が振り付けていた。

 それはもう、隕石かってくらい盛大に。雨を遮る傘なんて穴だらけにして、そのまま私の頭を鈍器で殴るくらいの激しさで。


 ――まるで私だけ、世界から切り離されてしまったみたい。

 

 雨で濡れた道を、車のランプが反射して光る。目の前の色が変わるたび、いつもよりずっと時の流れをはやく感じるのに、本来なら聞こえるはずの雨音が、今の私には遠く感じられた。

 

 職場のビルからの一歩が踏み出せなくて、ぼんやりビニール傘をさして夜の風景を眺めていると、誰が私の後ろから、とん、と傘をぶつけてきた。


「なにやってんですか。先輩。帰らないんですか?」


「……西島くん」


 少し高いアルト声が聞こえてきて、私はゆっくり振り返って、彼の名前を呼んだ。


 西島くんは、私の高校からの後輩だ。

 年齢はひとつ下で、大学も学部は違えど同じだった。その経緯もあって、『先輩でも働けるなら俺そこ受けます』なんて、ちょっと失礼な理由で彼は私と同じ職場にやってきた。

 

 ちなみに彼の営業成績は、一年先に入社した私に追いつきつつある。『先輩』としては、ちょっと危険な存在だ。


「知らなかったんですか?」

「……」


 そして部長が結婚した相手は、なんと西島くんの同期だった。

 ふわふわして小さくて、小動物っぽい「守りたくなる」系の女の子――ではなく、なんと部長が選んだのは、教室の片隅で本を読んでいそうな、真面目で影の薄い女の子だった。


「部長、私に優しかったのに……全然駄目だった……。夜遅くまで付き添ってくれたのに」

「ああ、俺が入社する前部長が先輩のために居残りしてたやつ」


 ボソボソと私が言うと、西島くんが頷いて言った。


「まあ部長にとって先輩は、恋愛対象っていうより、我が子みたいな感じなんじゃないですかね」

「……」


『俺が育てました』

 道の駅に売ってある鮮度の高い野菜の生産者の表示みたく、私が部長に育てられたのは周知の事実だった。


「つまり部長が優しかったのは、先輩にだけじゃなかったってことですよ」

「うっ」


 痛いとこを突かれて、私は胸を押さえた。

 本当のこととはいえ、ここまではっきり言われるのは気に食わない。私は傘を片手で持ち直して、ぽかぽか西島くんを殴った。


「あっ。もう駄目ですよ。こんなとこで殴らないでくださいよ」


「馬鹿、馬鹿、馬鹿あ…っ! 西島くんのろくでなしひとでなし!」


「先輩、普段人に暴言はかないから語彙の貧弱さがバレてますよ」


 西島くんは片手で私の拳をガードしながら、また余計な一言を口にした。


「まあ、今日は金曜日ですし。愚痴なら付き合いますけど」





「で。……なんでこの映画選んだんですか?」

「黙って」


 私はその後、西島くんと一緒に映画館を訪れた。

 愚痴なら付き合う――西島くんから言ったのだ。自分の言葉には責任を持ってもらわないと!

 ちなみに私が買ったチケットは、ごてごてのラブ・ストーリー。席はカップルシート。そして、ポップコーン特大、ジュースは二つ、コーラLサイズだ。


「カップルシート席で豪快にポップコーン貪るのやめません?」


 映画を眺めながら、ぼりぼりとポップコーン食べていたら、西島くんが呆れた声が言った。

 彼はちらりととなりの席でイチャイチャするカップルを見て、少し不機嫌そうに眉を下げて私に耳打ちした。


「なんでこの席にしたんですか? 浮いてますよ。俺たち」

「だって、ここだと席広いでしょ」


 それに今は散財したい気分だったのだ。せまくるしいシートに押し込められて、映画を見たくはなかった。

 私の返答に、西島くんが物言いたげな顔をする。私は彼を無視して、スクリーンの中のある青年を見つめていた。


『愛してる』

 

 映画の中で、主人公の初恋の相手は事故で死んでしまう。

主人公は彼との思い出を忘れられないまま生きていたが、ある日、彼とは真逆のタイプの青年にアプローチを掛けられて、彼女は彼の思い出を抱えたまま、新しい人生の一歩を踏み出す、という話だった。

 そして――。


「は――!! あの俳優さん、部長に似ててかっこよかった……!」


 その、亡くなってしまう初恋であり初めての彼氏役の俳優は、部長にとても良く似ていた。

 私がこの映画を選んだ理由はそれだった。

 俳優さんにはもともと興味はなかったけれど、社内で部長に似ていると聞いてから、こっそりチェックしていた映画だった。


 映画が終わり外に出ると、雨がやんで空には星が輝いていた。

私は西島くんより一歩前に出ると、空を仰いで大きく息を吸い込んだ。


「……そんな顔するのに、なんでこんな映画見たんですか」


でも、涙を堪えていたことは、西島くんにはバレてしまっていた。私は、西島くんに背を向けたまま言った。


「……部長には、たくさんお世話になったの。だから、心から、おめでとうってちゃんと言えるようにならなきゃいけないの」


下を向いて、拳を握りしめる。


「だって。本当に……本当に、好きだったんだよ」


 西島くんの前では泣かないと決めていたのに、私の声は震えていた。


「あー……」

 

 西島くんはため息を付くと、立ちすくむ私の前まで歩いてきて、私の頭をぽんぽんと優しく撫でた。まるで、小さい子にするみたいに。


「いつも頑張ってる。えらい。えらい」


 私は、思わず彼の手を払って睨みつけた。

 そりゃあ、西島くんと私だと西島くんのほうが背が高いけど! そんな慰め方で絆されるほど、私は安い女じゃないのだ。

 

「私のほうが年上なんだから! 子どもあつかいしないで。ていうか、男が女の子の頭撫でるのセクハラだからね」


 先輩として、私は西島くんに厳しく指導した。


「女の子……?」


 西島くんが、こてんと首を傾げる。


「何。なんか文句あるの?」


「いーえ」


 ぎっと私が睨むと、西島くんは静かに笑ったように見えた。


「ほら、次はお酒飲みに行くよ」


 そんな彼が少し気に食わなくて、私は彼に背を向けて再び歩き出した。


「面倒な人だなあ」


西島くんが、私の背中に向かって呟く。


「何か言った?」


 文句あるのか。

 私がにっこり微笑んで尋ねると、西島くんは再びため息を吐いて、私の後ろについてきた。


「はあ。わかりましたよ。乗りかかった船ですし、最後まで付き合います」





「ぶちょぉ……」


 いつも以上にハイペースに飲んだせいで、少し世界がぐるぐるする。

 私の前には、私が空にしたグラスが並んでいた。

 学生時代通った安い居酒屋。

 学生時代はサラダとアイスクリームが美味しいと思えたのに、今はイカの天ぷらのほうが美味しく思える。

 今日だけはカロリーなんか無視してやけ酒やけ食いをすると決めた私のことを、西島くんは少し心配そうに見つめていた。


「先輩は、なんでそんなにあの人のこと好き何ですか?」

「優しくて、大人で、所作が綺麗で、センスが良いところ」

「誰にでもいい顔して優柔不断で人の頼みを断れなくて、なのにどこか線を引いてて、マナーに厳しくて、持ち物に金かけてそうなところ?」

「なんでそそんあこというのおっ!!!」


 ダンッ!!!!

 私は、グラスをテーブルに叩きつけて叫んだ。どうしよう。呂律が回らない。

 くらくらして――私が倒れそうになると、西島くんが私の体を支えてくれた。


「何やってるんですか」


 いつもより少しだけ厳しい声が、頭上から降ってくる。その声が――いつもより優しく聞こえて、私は、腕まくりされた彼のワイシャツをぎゅっと掴んだ。


「ぶちょうはね……優しいんだよ」

「……へえ?」


「飲み会のとき、私がお酒弱いって知ってたから、代わりに飲んでくれたの。本当は、ぶちょうだっておさけ強くなかったのに。それに、私がお財布忘れてお昼無かったときは、ぶちょうがごはんおごってくれたの」


「先輩がポンコツって話ですか?」

「にしじまくんのばか」


 なんだか馬鹿にされた気がして、私は唇を尖らせた。


「ぶちょうはね、私が仕事で間違って、夜遅くまで仕事しなきゃいけなかった時、本当はぶちょうの仕事は終わってたのに、終わるまで残って、私にずっと教えてくれたの。あの日ぶちょうがいてくれたから、私は仕事を続けられた。だから私は、今ここにいるの」


 その言葉を口にした時に、私は自分の中で、何かがかちりと噛み合った気がした。


 そうだ。

 部長が他の誰かを好きになって、その人と結婚しても、私が部長に恩を受けたことは変わらないし、私はそんな人柄を、これからも慕い続けるだろう。


 部長は尊敬に値する上司だ。

 彼がいなければ、私のようなとろい女が、今も仕事を続けられているはずがない。

 だとしたら――ある意味、私を「一人の大人」にしてくれたのは、部長であることに違いはなかった。


『鈴森さんに頼んでよかった』

『よかったな。鈴森』

『はい! ありがとうございます』


 『出来ない』が『出来る』になっていく。

クライアントから信頼されることに、私は喜びを感じていた。

 人前で話すこと、相手の気持ちを考えること、会社の看板を背負う一人の人間として、どういう姿勢であるべきなのか――これから入ってくる後輩達に、自分はどういう先輩でありたいのか。

 

 一人の人間としても社会人としても、私を成長させてくれたのは、確かに部長その人だった。


 仕事も恋も、なんて。元々欲張りなことは分かっていた。

 部長が優しいのは私にだけじゃない。でも、褒めてもらえるのが嬉しくて。「一人前になったな」なんて言われたときに、嬉しい半分、少しだけ寂しくなって。

 そんな自分の想いは、尊敬だけだとは思えなくて。……でも、自分の想いを告げるには、部長はあまりにも「優しい」人で。

 部長の「手のかかかる部下」ですらいられなくなるのが怖くて、私は想いを告げることを恐れた。

 部長は優しい人だから。私の思いを知ってしまったら、きっと気を使わせてしまうから。

でも、そんなことは所詮言い訳だ。


 きっと部長には、私の知らない顔が沢山あるんだろう。

 私はその顔を知るための一歩を踏み出すことが出来なかった。この結末は、ただそれだけのことだ。


「先輩は、ずっとあの人のこと追いかけてたんですね」


 西島くんが、感情の読めない声で言う。

 営業成績上り調子の、期待の社員。私とは違って手がかからない彼は、部長だけではなく会社にも期待されている。


「追いかけても振り向いて貰えない気持ちは、僕にも分かります」

「?」

「好きなのに――……憎らしい」


 彼の長くて綺麗な親指が、私の唇をなぞる――ように見せかけて。


「なにしゅるの」

「あはは。変な顔」


 西島くんは、私の唇を指で挟んで遊び始めた。

 グワッグワ!

アヒルのような口にされて、うまく喋れない。

 会社ではいつも好青年の仮面を被っている彼は、その瞬間だけは、まるで私が初めて彼と出会った中学から上がったばかりの彼のように幼く見えた。


 西島くんは笑うと幼く見える人らしい。

 年下のくせにいつも落ち着いていて、私を子ども扱いする彼じゃない。年下らしい彼のそういう表情かおは、私は案外嫌いじゃなかった。





「う、うーん……」


 清涼感のあるシトラスの香り。

 いつもとは違う香りに違和感を覚えながら目を覚ますと、そこは見知らぬ場所だった。

 黒とグレーで埋め尽くされた室内には、カーテンから漏れた光が差し込んでいる。

 しかも驚いたことに、私が着ていたのはスーツではなく、大きな男物の服だった。


「な、なんで……!?」


 自分の置かれた状態が飲み込めず慌てていると、布団の中で何かがモゾモゾと動いた。


「あと五分・・・・・・」


 謎の物体――こと、西島くんは寝言を口にして私を抱きしめると、猫がするみたいに私にすり寄った。


「こ、こら、起きなさい!」

  

 私は彼から布団を奪って自分に引き寄せると、彼の額に手刀を食らわせた。


「ふあああ……。……あ、おはようございます。先輩。てか寒いですんですけど、もう少し寝たいので布団返してくれませんか」


「なんで西島くんが私の隣で寝てるの!? この部屋派どこ!?」


 寝ぼけて抱きついて来たくせに、なんでこの男はこうも冷静なんだ!

 私が激高すると、西島くんははあ、とまるでわがままをいう子どもを前にしたかのようにため息を吐いた。


「……言っておきますけど、不可抗力ですからね」

「不可抗力……?」


「先輩家に送ろうとしたら、部屋の鍵どこにあるか教えてくれないし。仕方ないから俺のとこにつれてきたら、部屋につくなり玄関で吐くし」

「……」

「また吐くかもって思ったら、放置はできないじゃないですか」


 『窒息死って知ってます?』西島くんは、冷静に私に言った。

 

「先輩もいい大人なら、自分の酒の上限くらい知っておいたほうがいいですよ」


「じゃあ、西島くんが着替えさせたの?」

「まあ、そうなりますね」


「見た?」

「はい?」


「見たの?」

「はい。じゃないと着替えさせられないですから」


 西島くんは、あっけらかんと言った。


「見た、見たんだ……!」

「ちょっと先輩! いきなり殴らないでくださいよ」


 恥ずかしいのと腹立たしいので感情が整理できない。私はベッドの上の枕で、西島くんの頭を殴った。


「見た。見たんだ。部長にも見せたことないのに……!」


 わっと私が泣き出せば、西島くんが少し不機嫌になった。


「別に俺だって、こんなふうに見たかったわけじゃなかったですよ。あと俺、もう少し胸ある方が好きです」


「…………最っ低っ!」


 拗ねたように彼が言う。

 私は彼の言葉に一度フリーズしたあとに、カッとして枕ではなく手で彼の頰を叩いた。

 肌を打つ乾いた音が、静かな朝にやけに響いた。


 

◇◇◇



「ご結婚おめでとうございます。部長、澤田さん」


 週が明けた月曜日、部長に挨拶をした私は、にっこりと微笑んで部長たちを祝福した。

部長と澤田さんは、私からの祝福に照れくさそうに微笑んで、「ありがとう」と言った。

 柔らかい陽の光みたいな二人の纏う空気は、今の私にはまだ眩しくは思えたけれど、それでも事実を知った数日前よりも、私の胸は痛まなかった。


「おはようございます。先輩」

「西島くんはしばらく私に話しかけないで」


土曜日の朝、彼が洗濯してくれた服を着て彼の部屋を出たぶりの再会。

週明けの月曜日、西島くんの挨拶に、私は今日ばかりは振り返る気になれなかった。


「なんでそんな不機嫌なんですか。先輩、俺に対する態度部長と違いすぎません?」

「あ・な・た・のせいでしょう!?」


 振り返らないつもりだったのに――彼の言葉がかんに障って、私は思わず振り返って彼の胸ぐらをつかんでいた。

 ――本当にこの男。この男は……!!!


「先輩。いい大人が暴力に訴えるのはどうかと思います。あとここ、それなりに人が通るんですけど、見られてもいいんですか?」


 どうどう。

 西島君は、まるで暴れ牛を落ち着かせる闘牛士みたいに手を上下させた。私はむっとしたあとに、彼から手を離した。

 でも、本当に気に食わない。


「まあいいです。俺のこと睨めるくらい、先輩が元気になって良かったです。先輩に泣き顔は似合いませんからね」


 西島くんはそう言ってあの日の夜のように柔らかく微笑むと、今度は彼が、私に背を向けた。

 その笑顔のせいだろうか。私は思わず、彼のことを引き止めていた。


「ま、待って。西島く――」


 ――それって、どういうこと?


 貴方の言葉の裏の、貴方の本当の気持ちが知りたい。しかし私の声に足を止めた彼は、いつものような掴みどころない笑顔を浮かべ、ひらひらと私に手を振った。


「じゃあ俺、これからクライアントのとこに行ってくるので。先輩は引き続き、もうすぐ結婚する部長たちと同じ部屋で仕事頑張ってくださいね」


 もしかして西島くんも実は優しいのかも、なんて思ったのに。

 相変わらずのひねくれた物言いに、私は一瞬固まってから、拳を握りしめた。

 失恋の痛みよりも強く、彼に対する苛立ちが、今は私を満たしていた。



「・・・・・・・・・・・・西島君!!!!」

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