雨が降っている
第7話
「なるほどね。どうしても教えてくれなかった初体験の相手は、そういうことだったか」
あきれ顔のミカは片眉を上げて春香を見た。
春香は肩をすくめる。
「今でもよくわからないのね、その時の気持ち。私もひとなみに自分では気づかずに、クラスの人気者の男の子のことがひそかに好きだったのか。それとも、私は月野さんになってみたかったのか。あるいは、実は彼女のことが好きだったのか」
「鈴原と寝てみても答えが出なかったの?」
「でなかった。でもまあ、おかげでトラウマを克服してへんな恐怖症も治ったから、よかったかな」
あの雨の夜、鈴原は私に訊いた。
「もしかして、初めて?」
私は素直に頷いた。
「そう、初めて」
驚くわけでなく、引くわけでなく。
翔太は優しく微笑んで、私を丁寧に扱ってくれた。以前、別の子に無理やり押し倒されたときは嫌悪感しか感じなかったのに、その時は安心感みたいなものを感じていた。
肌と肌が触れ合って、自分以外のぬくもりを感じられることは、すごく気持ちのいいものだと思えた。
雨は夜通し降り続け、明け方には上がったようだった。
夜明けに少しだけ眠っただけだったのに、なぜか眠くはなかった。少しお腹がずきっと痛んだけれど、翔太を起こさないようにそっと身支度をして、借りた服をたたみ、音を立てないようにドアを開けて外に出た。
朝日がまぶしかった。
久しぶりに素顔で外に出た。色付きリップだけぬって、知らない街を昨夜の記憶を頼りに駅へ向かった。
電車に乗り、乗り換えて、自分のマンションに向かう。
ロックを解除して、ドアを開け、内側に入ってドアを閉めて施錠する。レースのカーテンを引いただけの正面の大きな窓から、朝日が漏れてくる。
ドアに背を預け、大きく呼吸する。
不思議と、心が軽かった。
何かが解けた、そんな感じ。
確実な未来のような何かを約束したわけではなかった。
電話番号さえ交換しなかった。
出てくるときにメモを残したわけでもなかった。
週末会おうとか、どこかへ出かけようとか、そういうたぐいの次につながる何かみたいな。
翔太は私の大学は知っていたし、私も行こうと思えば彼の家まで行けた。
でも、何もしなかった。
お互いに、しなかった。
あの夜、翔太は私を大事なもののようにずっと抱き寄せていた。
私も広い背中に腕を回していた。
たぶん、最後に話していたことは、いつかパリに行ってみたいという話。
映画とか、行きたいこところとか、好きなものとか、意外と共通のものが多かった。
そのうちどちらともなく、眠りに落ちてしまったけれど。
「……」
ひどく疲れてまとまらない頭の中で、ほんの数時間前のおしゃべりを思い出して、私は口元をほころばせた。
離れていても、もう会うことはなくても、どこかで偶然再会しても、きっと私たちは変わらない。
久しぶりだね。元気? なんて、何気なく訊きあうだろう。
新聞配達のバイクの音が聞こえる早朝の静けさの中で、私はそう思っていた。
「それで、鈴原とはそれから会ったの? 付き合ったりとかした? 案外あんたたち、お似合いだったかもね。似た者同士って感じで」
「ああ、そうか。似た者同士ね。だから好感があったのかな」
「なにをいまさらとぼけたこと言ってるのよ」
「それっきり、会わなかったよ。なぜかな。たぶん、会いに行けばよかったのかな? きっと、拒絶はされなかったと思う。それどころか、付き合ったかもね。でも、結局はいつか別れていたかも」
「そうならなかったのが、事実だけどね」
「つまり、別れる必要もないってことね。ずっとただの、もとクラスメイト。卒業して何年か経って、報道写真家になったって偶然会った誰かに聞いて、すごいなぁって思った。ちゃんとなりたいものになれたんだなって」
「あたしだってあんただって、なったじゃない。なりたいものに」
春香はあははと気の抜けた笑い声をあげる。
「いちおうね。あ、そうだ、月野さんにも、この前会ったんだ」
「えっ? そうなの? どこで? 彼女、日本にいるの?」
「ううん、いまはトロントに住んでいるんだって。私のウェブサイト見て、連絡してきてくれたんだ。彼女は結局ずっとイギリスに住んでいたんだけど、大学出た後ロンドンの法律事務所で働いていた時に会った日本人の国際弁護士と結婚して、子供が二人いる。すごくきれいなマダムって感じになっていて、生き生きとしていたわ。結婚八年目の記念に、指輪をデザインしてほしいって言われてね」
「へぇぇ。不思議な縁だこと。あんただってわからないで、あんたの作品に目を留めたのね?」
「そう。なんか、嬉しかったね」
バーテンダーがそっと、春香とミカの間に黒オリーブとサンドライトマトのマリネを差し出してほかの客への応対に戻る。時々、彼はこうして常連の二人にサービスしてくれる。
ミカは黒オリーブをステンレスのカクテルピンで刺して口に入れる。春香は遙と会った時のことを話し始めた。
その日も、雨が降っていた。
街中のレンガ敷きの明るい広場を見渡せるガラス張りのカフェ。
偶然のメールから半年ほど、指輪のデザインや近況報告などのやり取りをして、遙は親戚の結婚式に出席するために来日して、ついでに完成した指輪を受け取るために私に会いに来た。
白いスーツの美しい女性が、入店するとすぐに窓辺にいる私を見てやわらかく笑んで手を上げた。
艶やかなストレートの栗色の髪は、きれいに結い上げられている。化粧をしているけれど、十七歳の時の面影はある。きれいな少女は、落ち着いた美しい三十歳の女性になっていた。
「久しぶり。会えてうれしいわ」
低く落ち着いた声。安心させる雰囲気は変わらない。昔大人びていたせいか、今はそんなに変わらず若々しいままに見える。誰かの妻になり、誰かの母になっても彼女は彼女のままだった。
アールグレイのベルガモットの香気が、湿った空気にはんなりと漂う。
彼女はイギリスでの生活や今のカナダでの暮らしぶりについて語った。困ったこと、驚いたことを、面白おかしく語る。私は時折声を出して笑い、彼女の話を楽しんだ。
大学の時に翔太によって高校の時のあの雨の中の呪縛を解かれてもなお、私は相変わらず誰かと落ち着くことなく、仕事ばかりしている。何人かの人と付き合ったけれど、結局は長続きせずに放置してなんとなく消滅するようなことばかり繰り返していた。私がそんな毎日を送っている間に、彼女は着実に幸せな家庭を進行形で築き上げている。
「雨」
私の言葉に彼女は首を傾げた。
「なに?」
「雨。日本の雨。久々に見られたんじゃない?」
遙が一瞬驚いたように目を見開いて、それから優しく微笑んだ。
「ああ、よく覚えてたね」
降りしきる静かな雨に目をやる彼女の美しい横顔を見て、私ははっと息をのんだ。どこかで見たことがあるかな? いや、でも、まったく同じ表情、それは大学時代に偶然再会したときに遙のことについて話していた時の……翔太の横顔だった。
「懐かしい。高校の時の会話ね。私が初めて好きになった男の人はね、あの学校の世界史の先生だったの」
遙はふふふと笑んだ。私は笑み返した。
「聞いた。大学の時に街で偶然、鈴原に会った時にね。あなたのことがとても好きだったって。それで、先生から奪ったんだって」
彼女は少し驚いたように唇を開いて、それからふっと笑みを漏らした。
「あら、なんだ……やっぱり、あなたには話したんだ」
「え?」
「あなたには、彼、なんでも話すだろうなって思ってたの。彼は先に私を好きにならなかったら、きっとあなたを好きになってたと思う。あなたと彼も、なんかどこか似てるし、話が合わないわけはないし」
「なんとなくわかるような、わからないような」
私が苦笑すると、彼女は唇の端を上げた。
「私みたいな薄情な女に振り回されたあとに、浅野さんだっけ、あの子みたいな、幼い考えの子の期待に応えなきゃいけないのはつらいだろうから。彼には避難所を作っておいてあげたかったの。だからアルバム委員には、あなたを推薦したわ」
「月野さんも鈴原のこと、ちゃんと好きだったんだね」
「そりゃね。十七歳の子供なりに、彼のことは思いやっていたわ」
「でも、結局彼はあなたがいなくなった後に投げやりな感じで浅野さんと付き合っていた。私にあなたのことが好きだったって言ったのは大学の時で、しかも偶然会ったときよ。偶然会わなかったら、きっと話してくれなかったと思うな」
「実際、偶然でもあなたに話したんじゃない。私の勘は外れていなかったってことでしょ?」
結果論に満足げな彼女を見て私はあきれた。
その後、カフェの上階の宝飾店に向かい、私は彼女に注文された指輪を差し出した。
それは深い青の、普通に見ればサファイアに見えるかもしれないパライバトルマリンという石の、アンティーク調の繊細なデザインの指輪だった。
イメージ以上にすてきだと言って、彼女はとても気に入ってくれた。
偶然に私の作品のウェブサイトを見て、まずはデザインに惹かれて、作家が私だと知って彼女はとても感動したのだと言った。
「あの日、一緒に海を歩いた時。あの時に見た海のような青ね」
指輪を右手の薬指にはめてかざし見て、彼女は目を細めた。そうね、と私は穏やかに笑んだ。
「ほんとうに、不思議な縁だこと。あんたたち、三人で恋してたけど、一般的に言う三角関係ではないみたいな。よくわからないけど、なんか特別な縁があったのね。それでこのこと、彼女は知ってるのかな?」
ミカは新聞の切り抜きをベージュパープルのこっくりと落ち着いたネイルをした長い指に挟んでひらひらと振った。日本人報道カメラマンの、外国での訃報記事。
「さぁ。私のフェイスブックに地元の子が知らせてきたから私も知ったけど、彼女はどうかな。ミカも私から聞くまで知らなかったでしょ。彼女は、知ったとしても誰にも知らせないと思うけど。地元の子たちが言うには、崖から転落した車は大破して炎上したから、谷底で発見されたときは損傷がひどかったんだって。やっとのことでDNA鑑定して、身元が判明したって。お葬式は家族だけでひっそりと済ませたんだって」
ミカは私の肩を抱いて自分のほうに引き寄せた。
「ねぇ、今日は鈴原の四十九日に当たるんでしょ? あたしがおごるから、二人で偲んでやろう」
ミカはバーテンダーを呼びつける。
「リョウ! シャンドンの2013年を一本ちょうだい」
若いバーテンダーは優雅な笑みを浮かべる。
「かしこまりました。イチゴをサービスでお付けしますね」
彼はウインクをすると準備しにバーカウンターの奥に行く。
春香はくすっと笑って親友の肩に寄り掛かった。
目を閉じると、あの激しい雨の降る放課後のPC室で聴いた、翔太の激情の吐露を思い出す。
冷静な遙の首筋にかみついた翔太に向かって、まるで小さな子供をあやすように遙が言う。
「そんな跡を残さなくても、忘れない。いつか死ぬときに、必ず思い出すから」
すると翔太は苦笑して言う。
「死ぬときに? それじゃあ、おれもそうするよ」
はたして、車ごと崖から谷底へ転落したとき即死だったのか、それとも数分、数時間か数日のあいだ苦しんだのかはわからないけれど……彼はあの時の言葉通りに、彼女を思い出したのだろうか。
あるいは……
ほんの一瞬でも、私のことは思い出してくれただろうか。
ポン!
バーテンダーがヴィンテージシャンパンの栓を抜く。彼は新しいふたつのフルートグラスにシャンパンを注いでくれる。辛口のロゼが細やかな泡を立てている。
雨みたい。
「献杯」
春香とミカは細いグラスを掲げ合う。彼女たちの背後でドアが開く。
常連の一人であるフランス人のビジネスマンが困り果てた表情で入ってきた。
彼は春香とミカがバーカウンターにいるのを見ると、スーツの肩や袖や手にしていたブリーフケースを見せるようにして、フランス語で二人に言った。
「雨が降ってきましたよ。まいったな」
「降ってるの?」
「うそ。さっきまでは気配もなかったのに」
二人が日本語で軽く驚いて言うと、フランス人のビジネスマンは頷いてまたフランス語で言った。
「たぶん、通り雨でしょう」
「そう願うわ」
「当分ここで雨宿りね」
フランス人が眉を上げておどけたあとに奥の席へ行くと、バーテンダーが二人に近づいてウインクしてくすりと笑った。
「ごゆっくり」
雨の夜。
春香の隣には、人生の半分以上を共に過ごしている友がいて、目の前にはピンクゴールドの
夜は好き。
そしてそして、夜の雨も好き。
まるで幼い少女たちのようにくすくすと無邪気に笑いながら、春香とミカはそれぞれの往復はがきに万年筆で書き込みをしている。
まずは「ご」を二重傍線で消して、「欠席」を丸で囲む。「ご出席」にも二重傍線。
最初の一杯を飲み干して、今は二杯目。
いちごを片手に、いままでの失敗した恋愛遍歴を語り、笑い合う。
外は雨。
雨が静かに降り続いている。
【Fin】
Rain しえる @le_ciel
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