もうひとつの秘密

第6話

夢の中で、遙と翔太が抱き合っている。



私は二人を盗み見ている。



いけないことをしているみたいで、罪悪感で、胸がつぶれそう。


思いがけず誰かの、誰かと誰かの秘密を知ってしまった。


ふたりだけの秘密を知ってしまった後ろめたさに、ひどくさいなまれる。




なんてことなの。


私には、荷が重すぎる!




学校を休んだ日。入れ違いに登校したミカから電話がくる。プリントを持っていけなかったことを謝るとそんなものはどうでもいいよと彼女は笑った。明日は学校に行くからと告げると、今日の授業のノートは明日見せてあげると言われたのでお礼を言った。


その電話を切って十分くらい後、遙から電話が来た。激しい雨の中の昨日のPC室での二人を思い出してしまい、密かに緊張した。彼女は知らないだろうけれど、私は彼女への罪悪感でかなり後ろめたかった。


「もしもし……」


緊張で少し声がかすれてしまった。


「風邪なの? だいじょうぶ?」


いつもの、落ち着いた声。私は呼吸を整えてからゆっくりとしゃべり始めた。


「ううん、ちょっと、熱が出ただけ。昨日、夕立で濡れちゃったせいかな。でももう下がったから、明日は学校に行くね」


すると、受話器の向こうで安堵の吐息とともに声が柔らかくなった。


「そう、よかった。明日学校で会えるの、最後だから。明日も休むなら、お見舞いに行こうと思ったの」


「あっ、そうだ、そうだったね。明日の放課後、お別れ会だったね。絶対に行くよ。もうなんともないから。心配してくれて、ありがとうね」


「じゃあ、明日ね。楽しみにしてる」







「へぇ。お別れ会の前々日だったのか。四人でPC室でお別れ会したときは、あの二人何でもない感じだったよね。あたしの目も欺くとは、大したものだったわね」


唇を尖らせてふーんと呟き、ミカはリキュール類が並べられたバーカウンターの中の棚を見上げてしばし考える。そしてつまらなそうに首を傾げた。


「あの子がいなくなってすぐ、鈴原はあの小動物みたいなあざとい子と付き合い始めたよね。あれって、やけくそだったのか」


「そうかもね。全然違うタイプの浅野さんと付き合って、彼女を忘れたかったのかも」


遙がいなくなってすぐ、浅野ゆりなは翔太と付き合いだしたとクラスの女子たちに公表した。


おそらくは春香だけが、彼が抜け殻みたいになっていることに気づいていたと思う。偶然知らなければ彼の微妙な変化は見過ごしていただろう。


ゆりなと一緒にいて楽しそうに笑っていても、翔太はどこか気が抜けた常温の炭酸水のようだった。


やがてアルバム委員の仕事も終わり、春香は翔太とはただのクラスメイトとしてしか接点がなくなった。



特別親しくしたわけではない。他のクラスメイトとそう変わりない、ただそのまま、他愛ない感じだった。




時々、翔太がゆりなと並んで下校してゆくところを見かけた。クラスのベストカップルとして、彼らはクラスメイト達に大いにはやし立てられていた。

 

ゆりなはとても嬉しそうだったけれど、翔太はいつもぼんやりとしていたように思う。


春香でさえも遙のことが忘れられずにいたから、翔太はなおさらだったかもしれない。





「あたしもあんたも同窓会にはまったく行かないから、その後のことなんてまったくわからないよね。結局、二人はあれっきりだったのかな」


ミカの言葉に春香は眉を上げて笑んだ。


「私ね、今夜はミカと二人のことについて語りたいと思ってたんだ。だから十数年の封印を解いて、もう一つの秘密を教えてあげるよ」


「えっ? なによ?」


「高校を卒業してから二年後に、偶然会ったんだ、鈴原に」


「へぇ?」


ミカはふっと口元をほころばせ、春香のほうに上半身を向けて頬づえをついた。なにか、秘密の匂いを感じ取ったのだろう。左の眉を吊り上げて、春香に話を促した。






私は希望通りに故郷を出て、東京の大学に通っていた。


一人暮らしにも慣れて自由な生活を満喫していた大学二年生の六月の初め。梅雨に入る少し前だったように思う。


雨がさらさらと降っていたある日の午後。



「あ!」


「あ……えっ? あれ? 生田?」


音もなく降る霧雨の白く霞む街の中。私は偶然に鈴原翔太と再会した。


「信じられない! すごい偶然!」


「本当だ。すごい」


私たちは通りをひとつ入った裏路地のカフェの二階で、雨宿りを兼ねて少し話すことにした。


「元気?」


卒業するまで見慣れていた人懐こい笑顔で、翔太は首を傾げた。激変というほど変わっていないけれど、少し大人っぽくなっているなと思った。私は笑顔で頷く。


「うん、鈴原も元気そう。大学は、どう? 写真、だよね?」


「ああ、うん。専攻してるものは何もかもが面白いよ。生田は、造形だっけ?」


「そう、デザイン学科」


「ファインジュエリーのデザインがやりたいんだったよね」


「よく覚えてるね」


放課後、アルバム委員の仕事をしながら、一度だけ話したことがあったけれど。


「生田とかあいつ、伊藤とか、すでに人生計画を立てて着実に実行していくような奴らは尊敬してたから。それにしてもさ」


翔太はくすっと笑った。


「女は怖いね。高校の時とは全然イメージが違うから、さっきはあ! って叫ばれてこっちがびっくりした」


「男は損だね。鈴原はすぐにわかったよ」


私たちはふふふと笑み合った。


「浅野さんはまだつきあってる?」


「いや、卒業前には別れてたから。浅野は地元の短大だし。そっちこそ、相変わらず伊藤とは仲いいの?」


「もちろんだよ。大学は別だけど、よく会ってるよ。悪いことするときは、いつも一緒。今は留学中」


「あいつは根っからのワルだからな。それで生田、彼氏はできた?」


「なんとなく親密な子はいるけれど、いまいちピンとこない。鈴原は?」


「うん、イギリスの留学生と付き合ってる。今は九月まで帰国中だけど」


「イギリスかぁ……月野さん、どうしてるかな」


口にしてはっと我に返る。


言わないほうがよかっただろうか? でも、翔太は何でもないように首を傾げた。


「さぁ。高三の時以来だから、どうかな。あいつのことだから、うまくやってるに違いないね」




私はほう、と息をついて窓から絹糸のような細かな雨を見る。


「雨がね」


「え?」


「雨が好きだって、彼女が言ってたんだ。だからむこうでも、雨が多くても平気だって。でも、日本の雨が見られなくなるのは残念だって」


翔太も窓の外に視線を向けた。私たちはそれぞれに、彼女に関するそれぞれの思い出を脳裏に浮かべる。


「おれさ」


翔太は窓の外をぼんやりと見つめたまま呟いた。私は何も答えずに彼の横顔を見る。


「おれさ、あの頃、実はあいつのことが死ぬほど好きだったんだ。ほんとに、死ぬかと思ったぐらいに」


「うん」


「あれ? 知ってた?」


「うん」


「なんだ、そっか。すごく驚いてくれるかと期待したのに。侮れないな、生田の人間観察力」


はは、と翔太は力なく笑った。




それから私たちは少しの間何もしゃべらなかった。


雨は音もなくやわらかく、狭い石畳の路地を濡らす。私のキャラメルラテの甘い香りが湿った空気に漂う。


目を閉じると今でも、激しい雨の中、PC室で彼女に激情をぶつける翔太の必死さが思い浮かんでくる。




コ、コ、コン。




特徴のあるノック。遙と翔太、二人だけの合図。




私は翔太を見つめた。


「知ってたって、わからなかったかな。知ってたからあの写真を、卒業アルバムにのせたのに」


「えっ?」


翔太は目を見開いた。そしてはっと息をのみ、次の瞬間、やわらかに微笑んだ。


「ああ、なんだ、そうか、そうだったのか……ありがとうな、生田」


私は口の端を上げた。




卒業アルバムのクラス写真はすべて、翔太が撮ったものだった。


クラスの何気ない風景、イベント、各部活動や何かの大会。私たちの高校生活のあらゆる思い出がキルトのようにつづられている。


見開きいっぱいの思い出の中、左の隅の下のほうに、三センチくらいの写真がある。


月野遙が頬づえをついて教室の窓の外を眺めている横顔の写真。


右斜めのその大人びた表情は、せつないほどに美しい。それは撮影者の強い思いも感じることができる。



編集の最終段階で、どうしても載せたいとごり押しして載せたものだった。なぜそんなにその写真にこだわるのかと翔太に訊かれて、彼女もクラスの一員だったことをみんなに覚えておいてほしいからだと答えた。


それにそれは、翔太が撮った写真の中で、一番心惹かれる写真だった。アルバム委員の職権を乱用して、誰にも文句は言わせないと思っていた。しかし、クラスのみんなの反応は私の予想とは全く違った温かいものだった。


その写真を見た誰もが、月野遙という少女がどれだけきれいな子だったのかに、初めて気づいたのだ。何も告げずに突然、外国に行ってしまった目立たなかった子。



 

霧雨は止まない。


カフェを出たのは青い闇が降り始めたころだった。


街に明かりがともり始める。




アーケードの下を私と翔太は歩いている。


見上げると街灯の下を通る霧雨が音もなくきらきらと光って見える。すごく、儚い感じがした。




初めて降りた駅。そこは翔太のアパートがある近くの商店街。


私は白いコットンレースのチュニックに細身のジーンズに赤いチャンキーヒールのパンプス。学校帰りでシルバーのバックパックを肩にかけていた。もともと色素が薄くて染めているのかとたびたび高校で注意されていた髪は背中を覆うストレートだった。


高校の時は学校で化粧することも制服を着崩すこともなかったが、大学では好きな服を着て化粧をしておしゃれを楽しんでいた。きれいだとか美しいとか、異性に言われるのにもなんとなく慣れてきていた。


翔太は青いTシャツに古着のジーンズ、黒のスニーカーに赤の大きなバックパック。髪はツーブロックで前髪を横に流していた。相変わらず目立っていそうだった。


そういえば、私服姿を見るのはお互い初めてだったと気づいた。



その日の午後じゅう、いろいろな思い出話をした。カフェを出た後に食事をして、それから一緒に飲み明かそうという流れになった。なんとなく離れがたかったのは、懐かしさというよりも、今まで遙について語れなかったことを語る相手に会ったことがお互い嬉しかったからなのかもしれなかった。


翔太のアパートへ行ったのは、そのほうが私のところに行くよりも近かったからだったと思う。


駅からコンビニに寄って赤ワインとスナック菓子を買った。傘はさしていたけれど、霧雨のせいで髪も服も持ち物もしとどに濡れていた。




アパートにつくと翔太はタオルとTシャツとジャージを貸してくれた。


私の服はハンガーで吊るして乾かしてくれたと思う。ひとりで男の子の部屋に入るのはそれが初めてだったけれど、さほど抵抗がなかったのは私たちの間には何も起こるはずはないと、お互い何も感じていなかったせいだったかもしれない。


当時の私はしきりと自分の部屋に呼びたがる男の子の魂胆が見え見えなのが嫌だった。でも翔太は私にとってはいつも「ほかの誰かのもの」であったから、変な意識はなかった。服を借りて着るのも何の抵抗もなかったし、二人きりでいても高校の時の延長で緊張することはなかった。



サンテミリオン一本で、翔太は饒舌になった。


写真が趣味だった翔太は、当然のようにアルバム委員に立候補した。そしてクラスの女子たちは月野遙を女子代表に選出した。


彼は最初、遙のことが苦手だったそうだ。お堅い地味でまじめな女子。ところが、放課後を一緒に過ごすうちに、彼女に惹かれていった。


当時彼女は教師の一人とひそかに付き合っていた。その教師は女子生徒に結構人気のあった若い教師で、婚約者がいるという噂だった。


翔太は教師から彼女を奪い取った。遙は教師に未練を残すことなく、翔太を受け入れた。


しかし彼女は、二人の仲は秘密にしてほしいと言ったそうだ。なぜかと訊くと、彼女は淡々と答えたらしい。


「私、もうすぐいなくなるの。父の転勤で、ロンドンに行くのよ。それでもいいなら、それまでは付き合うわ」




 

あの激しい豪雨の日、二人の秘密を知ってしまったことは、私はどうしても翔太に告白できなかった。


彼女がいなくなって二年経った今でも、彼は彼女のことを引きずっているのだろうと感じた。きっと女の子から一方的に好かれるばかりの彼にとって、初めての手痛い失恋だったのだろう。




「アルバム委員を誰に引き継いでもらおうかって訊いたら、即答だったよ。生田がいいって。おれも賛成だったけど、一応訊いてみたんだ。どうして? って。そしたら、どうしていつもどうしてって訊くの? って」


「同じ名前だから親近感あったのかもね、字は違ったけど」


「名前だけで推薦しないだろう? 生田のことが、好きだからだって言ってたな」


「好き?」


「うん、変な意味はなくて、好きなんだって。わかる?」


「わかるよ。私も、彼女のこと、好きだったから。あの大人びた感じ、あこがれだった」


「大人びた、か。おれは振り回されてばっかりだったな。あいつ、精神的に大人だったから、すごい年上と付き合ってるみたいな感じだった。きっと先生でさえも、手玉に取られていたんだろうなって思う」


翔太は苦い思い出し笑いを浮かべた。彼は最後の一口のワインをあおるとテーブルにこてんと頬を付けた。彼の目じりからは涙が一筋、つう、とこぼれた。


忘れられないひとなのだ。彼女は、彼の心の中に、まだ苦く存在し続けているのだ。



かわいそうに。



私の心の中には、翔太があの日、遙の首筋に着けた赤い痣のように、二人の雨の中の情事がトラウマとなって残っていた。


翔太のいちずな激情と、それをいなす遙。誰かといい感じになっても、二人のあの情事が頭の中にこびりついていて、私はしり込みしてしまっていた。


大学に入ってから出会う男の子たちの、ぎらぎらした目が怖かった。


いいなと思っても、友達がその子を気に入ったといえば、私の気持ちはすぐに萎えて、彼女に譲ろうとか思ってしまう。男の子と二人で会って気があると勘違いされ、無理やりキスされたこともあった。歯と歯がぶつかって唇が切れて血が出て、ひどく幻滅して怖かった。突き飛ばして必死に逃げ帰ったけれど、男の子に力ではかなわないと思い知らされた。部屋に戻った私は、悲しくなって泣いた。




高校のPC室。あんな風にできたらいいのに。


遙が翔太の背にさまよわせていた白い手。


翔太が遙に降らせていたキスの雨。


私の心に焼き付いて消せない、あの光景。



 

私はそっと指先で翔太の涙をぬぐった。そして彼の髪をやさしく梳く。


そして彼の頭をそっと、自分のかたのくぼみにのせて撫でる。恐怖心はみじんも感じない。心は不思議なくらい凪いでいた。



翔太が私のかたのくぼみに頭を預けながら少し上を向く。


私はそっと彼の瞼に唇で触れた。


それから彼の唇に口づける。


自然と閉じた目を開けると、視線が合った。


そしてまた目を閉じる。


するとまた唇が重なった。



なにか特別な感情があったわけではない。


恋に落ちたわけでもない。


衝動だったわけでもない。


恋愛感情でも、懐かしさからの感傷でもなかった。


私は翔太の中に遙を感じて、翔太も私の中に遙を感じていたのかもしれない。




部屋には、ソファの後ろに背の高いスタンドライトのオレンジの明かりがともっていた。


昼間よりも雨は強くなり、一晩中降り続ける。


私たちのことは、雨が隠してくれる。



 

愛なんて、わからなかった。




いまでも、わからないけれど。



そう、永遠にわからないかもしれない。





私はその夜、トラウマから解放された。

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