秘密の思い

第5話

その日の放課後は、まだ四時前だというのに外はどんよりと暗かった。




低く立ち込めた厚いメタルのような雲。


海も鉛色で荒くうねっていた。遠くからはかすかに雷鳴が聞こえてくる。




「夕立が来るね」


窓から重い空を見上げた私がそう呟くと、翔太も頷いて同意した。


「今日はやめにしておこうか。生田、雨が降り出す前に帰りなよ。電車止まったらやばいでしょ。今日は伊藤の家にも寄るんだろう?」


「そうだね、帰る。またね」


翔太に手を振ると、私は職員室へ向かった。


ミカが風邪をひいて休んでいたために、担任からプリントを受け取り、彼女の家に持っていくことになっていた。




「あー」


廊下を歩いていて、ふと思い出した。


PC室に、忘れ物をした。今となっては、それが何だったか思い出せないけれど。


私は降りかけた階段を引き返し、三階の一番奥のPC室へ向かった。


天気が悪いし、みんな早く帰宅したかったのだろう、誰ともすれ違わない。きっともう翔太もとっくに帰ったはずだ。私はそっとドアを開け、中に入ると忘れ物を探した。それはたぶんノートか教科書の類で、いつもアルバム委員の作業をする大きなテーブルのあたりにあったと思う。それをカバンにしまい、部屋を出ようとしたとき、準備室への内ドアが少しだけ開いていることに気が付いた。


準備室は備品が置かれていたので、普段はカギがかけられていた。もしや先生か誰かが鍵をかけ忘れたのかと思い、せめてドアを閉めておいてやろうと考えた。


ドアに近づいて、ノブに手をかけた。


その時、誰かがPC室の引き戸を開けようとする物音ががたがたと聞こえて、なぜか、私はとっさに準備室の中に入ってそっとドアを閉めた。


誰かと出くわして準備室のドアが開いていたのでと言い訳をして、なにか備品がなくなったと疑われたくなかった、いや、単に誰とも出くわしたくなかったからだったかもしれない。結果、隠れるような形になってしまった。その時は入ってくる人が長居するとも思えなかったし、いなくなったらすぐに出ようと軽く考えていた。



 

ピカっと、鈍色の空が裂けた。


遠くで、女子たちの悲鳴が聞こえる。


そして激しい雨音。


私はすでに後悔し始めた。


準備室のドアなんかに気を取られずにすぐに出ていくべきだった。


イグアスの瀑布のような大雨。


私はため息をついた。


雨の音でよく聞こえないが、PC室を開けようとしていた人は、もういなくなったかしら?


私は準備室のドアにそっと耳を寄せた。





雨音が幸いにもメゾフォルテくらいに弱まった。


耳を澄ます。


そして私は心の中で舌打ちする。


言い争うような声。


いる。


誰かが。


最低でも二人。





私は気まずさに息をひそめた。




雨は降り続ける。


雷が鳴り響く。


室内は暗く、そして言い争う声は途切れ途切れ続く。


あれは……あの声は。


聞き覚えのある声と、声。


ふと、弱まる雨音。





「――もう終わりだって言ったよね?」


遙だ。諭すような低い声。いらだちが含まれている。


「了承してないし、勝手に終わらせるな」


そして翔太の悲しげな、遙を責める声。


「もうすぐいなくなるんだよ、私、遠くに行くの」


「わかってる。でも連絡ぐらい」


「取らない。私のことは、忘れて」


遙の声は冷たくもなく、優しくもなく、限りなく感情を抑えている。


「どうして」


一方で、翔太の声は怒気をはらんでいる。普段の彼からは、想像もつかない声。


「将来なんて、半年先のこともわからないじゃない? 戻ってくることも、待つことも、何も約束はできない。だから私のことは忘れてよ」


「できない! こんなに、こんなに気が狂いそうなほど一緒にいたいのに!」


遙はため息をつく。


「それはね……一時の感情なのよ。時が過ぎればなんであんなにって、思うようになるわ。痛みや苦しみはね、時が経てば和らぐものなの。今はつらくても、そのうちだれかと出会って、思い出の一つになるから、ね?」


「いやだ。今はつらい、死ぬほどつらい。きっと、ずっとつらい。行かせたくない」


駄々っ子のように聞き分けのない翔太に、遙はふっと笑みを漏らす。


「ばかね。どうしようもないこと言わないでよ」


雨音が再びすこし強くなる。がたがたと、イスやテーブルが乱暴に動かされ、床をひっかく音がする。


私は準備室のドアにもたれながらしゃがみ込み、思わず口から洩れかかった悲鳴を両手で抑えて飲みこんだ。どうか、二人が私に気づきませんようにと祈りながら。




バタン!




イスが倒れた音がする。そして遙の、ため息交じりのあきれた声。


「本当に、ばかね……」


ドアの向こう側に、圧力がかかって軋む音がする。私は息を止める。





二人の会話が聞こえなくなり、やがて吐息とかすかなかすかな声が漏れ聞こえてくる。


雨はさらにまた激しくなり、校舎や窓をたたきつける。


ドア一枚隔てた向こう側は、私が知る人たちのいる私のよく知る空間でありながら、まったくの別世界となっていた。


クラスメイト達の秘めやかな情事は、豪雨によって覆い隠されている。


私は這いながらドアからそっと離れ、準備室の机の下に潜り込んだ。息をひそめ、固く目を閉じる。


どうか、これが現実ではありませんように。


早く二人が出ていきますように。


どうか二人に、気づかれませんように。





翔太が言っていた、好きな子。それは月野遙。



なぜ、気づかなかったのだろう? 人間観察は得意なはずだったのに。


二人は誰にも知られることなく、付き合っていて、そして別れたのだ。


遙が、外国へ行ってしまうから。


それでも、翔太はあきらめきれずに、彼女を引きずっていた……






「うっそ! やるわね、あの二人が、学校で!」


ミカはミモザを一口飲んでにやりと笑った。


「なんていうか……のぞきみたいになっちゃって、罪悪感でずっと言えなかったんだけど。なんかね、衝撃的だったな。後にも先にも、誰かの情事に遭遇したのは、あの時だけ。情けないことに、腰が抜けちゃって」


あはは、と春香は力なく笑った。ミカは肩をすくめる。


「なんだかんだ言って、あんたはうぶだったからね。あたしなら小窓から覗いちゃったかも。それにしてもかなり間抜けだったわね。ヒトの、そういうところ盗み見みたいになっちゃって」


「笑わないでよ。その時は必死だったんだから。見つかったら痴女よ、痴女。ちょっと、もう、笑わないでったら!」


大笑いするミカの腕をぱしっと叩いて、春香は眉を下げて苦笑した。





雨が弱まり雷も遠のいたころ、遙がかすれた声で静かに言った。


「悲しまないで。これで本当に最後。雨が上がったら、私たちはただの友達で、こんなことはもう二度とないから」


彼女は立ち上がり、制服の乱れを直し、スカートのほこりを払っていたようだった。かすれた声が呟くセリフは、まるでフィルム・ノワールの女優のようだった。


私は机の下からそっと這い出して、ドアに近づくとこそっと立ち上がり、小窓から勇気を出してPC室をのぞいてみた。



栗色の長い髪がほどけて、はだけたシャツの胸元に乱れ落ちている。


気高い横顔は、両足を投げ出してまだ床に放心したように座り込んでいる翔太を、慈悲深いまなざしで見下ろしている。まるで菩薩かマリアか……神々しい感じ。


どんよりと曇る厚い雲が裂けた隙間から、強烈な夕日が窓いっぱいに差し込んでくる。


軒先を伝う雨のしずくが、キラキラと透けて落ちてゆく。たぶん、西日のせいでまぶしすぎて、二人からは私のほうは良く見えないだろう。


翔太の制服のブレザーは、ぐしゃぐしゃになってテーブルに投げてある。そのそばには、つるが開いたままの遙の黒縁メガネが無造作に投げ置かれていた。


彼女はシャツのボタンをひとつひとつはめなおす。最後に眼鏡を拾い上げてかけようとした、その細い手首を翔太が乱暴につかむ。


「痛い」


彼女は振り払うでもなく、困ったように顔をゆがめる。


「ねぇ、痛いよ。跡が残る。離して」


翔太は小さな子供のように首を横に振る。


「いやだ、離さない。跡が残ればいい。永久に消えないくらい残ればいい」


「折れる。離して」




遙は自由なほうの手で翔太がつかんでいる手をほどこうとする。


もちろん、力の差は歴然だからほどけるわけがない。彼女の髪がはらはらと翔太の顔にかかる。


彼が手を離すと、遙の細い両腕が彼の首に絡みついた。翔太の腕は彼女の背に回されて、細く頼りなげな体をすっぽりと抱きしめる。


二人は長いキスを交わす。何度も何度も交わす。


言葉は冷静で淡々として感情のかけらもないほどそっけないのに、彼女の唇は優しく彼の瞼や唇に降り注ぐ。まるでお互いを記憶するかのように、二人は言葉もなく口づけを交わす。


翔太は首をひねり、遙の首筋にかみついた。そしてしばらくかみついた後に唇を離した。「痛い」と遥は呟いて、しかし怒ることなく弱々しく苦笑して、翔太の髪をやさしく撫でた。


「そんな跡を残さなくても、忘れない。いつか死ぬときに、必ず思い出すから」


翔太は苦笑する。


「死ぬときに? それじゃあ、おれもそうするよ」



遙は眼鏡をかけるとぐしゃぐしゃになっていた翔太のブレザーを手に取り、形を整えるとテーブルに置きなおした。


「先に帰るね。さよなら」


彼女は、翔太の返事を待たずにPC室を出て行った。


あとに残された翔太は二、三分ほどぼんやりとしてから深いため息をひとつつくと、のろのろと立ち上がり髪や制服の乱れを直した。そしてテーブルの上に遙が丁寧にたたんでおいたブレザーを手に取ると、それを無造作に指でひっかけて右肩に担ぎ上げ、PC室を去って行った。


西日が先ほどの夕立や雷などウソだったようだ。


濡れた窓がきらきらと日の光を反射して、より一層オレンジのまばゆい光で教室内を照らし出している。


一方では、机やいすの陰に濃い陰影を落してもいる。





—―静寂。





窓の外には、キャー、と女子数人がはしゃぐ声。


私は人の気配がなくなったことを何度も何度も、慎重すぎるほどに確かめてから緊張を一気に解いた。


安堵したあともしばらくは腰が抜けてその場にへたり込んでいた。




どれくらいそうしていただろうか、やがてやっとのことで立ち上がり、まだその辺に翔太や遙がいないか警戒しながらほうほうのていで校舎を出た。


湿った地面からは雨の匂いが立ち上っていて、さっきまでの衝撃的な光景を脳裏にフラッシュバックさせた。


野球部の部員たちが練習を再開させたのか、掛け声やバットにボールが当たる高い音が響いてくる。



 

あの日は、どうやって家に帰ったのか覚えていない。


ミカにプリントを持っていくこともすっぽりと頭の中から抜けてしまっていた。


そして私は翌日、高熱を出して学校を休む羽目になった。

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