放課後

第4話

「どうやら待ち人現る、のようですね」


ぼんやりと高校時代のことを回想していた春香は、バーテンダーの声にふと我に返る。




「ごめんね、待った?」


御影石の階段にジミー・チュウのヒールの音が響いてヒューゴ・ボスの黒のかっこよくセクシーなスーツ姿のミカが入ってきた。


自信に満ち溢れた美女。多国籍の多くの部下たちを従えて、ミラービルディングの上階のオフィスから世界を動かしている。


私の隣のスツールに座るとき、ふわりとミツコが香ってくる。



「リョウ、ミモザちょうだい」


はい、と返事をしたバーテンダーがカクテルを作る間、バーカウンターに置かれた同窓会の通知を見てからミカは春香に微笑んだ。


「言われた通りに持ってきたよ」


「よろしい」


春香は往復はがきを持ち上げてひらひらと振ってみせた。


「行かないよね。行ったら最後、身辺調査されて妬まれてひがまれておとしめられてマウンティングされてしっちゃかめっちゃかヘルタースケルター、井の中のかわずちゃんたちや挫折組に負のパワーを向けられて心身ともに疲れ果てる」


「大人になったね、ミカ。昔のミカならそういう連中は全員逃がさずに再起不能に仕留めてたよね」


「戦わずして勝つことが一番だと悟ったからね。孫子に教わった」




二人はあははと笑った。


四大陸それぞれに愛人がいて、マセラティを乗り回し外国の経済紙に載り世界中を飛び回るミカが現れたら、みんなドン引きするだろう。


同窓会なんて、楽しめる場ではない。同級生たちの現在には正直何の興味もないし、興味を持たれるのも遠慮したい。


十四年経った今になって懐かしんだり親睦を深めたいようなクラスメイトも思いつかない。私は定期的にミカと会っておしゃべりできていてそれだけで充実しているし、ミカもほぼ同じだろう。




バーテンダーがミカのカクテルを差し出す。私たちはフルートグラスのふちを軽く触れ合わせた。強化ガラスの涼やかな音がかすかに響く。


「乾杯。唯一のあたしのツレに」


「乾杯。世界を手玉に取る幼馴染に」


二人は微笑んだ。




ミカは春香の往復はがきを手に取ると感嘆した。


「十四年か。あんたとあたしは二十年? 時が経つのは早いものだね」


「うん、そうだね。早く大人になりたくて仕方なかったのに、あの頃は自分がこんな年になるなんて想像できなかったな」


「同感。三十歳なんて、もう人生終わったオバサンだと思ってた。でも全然そんなことなかったな。今はすごく充実してる」


「実際、中身はそんなに変わってなくて、この年になっても自分が未熟者だと感じるわ」


春香はミカが振るはがきを見て苦笑した。


「高校の時の思い出なんて、どうでもよかった。懐かしくもなんともないし。でも一つだけ、今でも忘れられない思い出はある」


「へぇ。あたしに内緒で、気になる男子でもいた?」


「いた」


「うっそ!」


「気になる男子と女子」


「はぁ?」


春香はバッグの中から新聞の切り抜きを取り出してミカの前に差し出した。


ミカはそれを手に取って目を走らせ、はっと息をのんだ。彼女の瞳孔が開き、動揺が浮かぶ。


「これ……」




それは、一人の日本人が外国で事故死したという記事。


南米グァテマラの山間部で、日本人カメラマンの乗った車が落石をよけきれずに崖から谷底に転落し、現地ガイドとともに死亡したという内容だ。


フリーランスのカメラマンの名前は鈴原翔太。




「忘れられない男子のほうね。彼と、忘れられない女子との秘密が、私の大きなトラウマだった」


「秘密?」


「そう、秘密」


「ちょっと待って、彼が高校時代に付き合っていたのって、あの、小動物みたいにかわいい……なんだったっけ、名前!」


「浅野ゆりな?」


「そうそう、その子。その子があんたの忘れられない女子なの?」


「違う違う、彼女のことじゃないよ。彼が……鈴原翔太が本当に好きだった子は、あの子じゃなかったの」


「あの二人、付き合ってたじゃない」


「でも、違った。鈴原が好きだった子は、本当は違う子だった。たぶんそのことを知ってるのは、彼が好きだった本人と、偶然知ってしまった私くらいだと思う」


「は……? 春香?」





「生田は、絵を描くような仕事を目指してるの?」


放課後、PC室で写真を振り分けながら翔太が私に訊いてきた。



私はみんなの一言メッセージのページのレイアウトを考えていた。


「うん? うーん、どちらかというとそういうのは趣味にとどめておいて、芸術とか美術とか学んで、画廊とか美術館とかアンティーク系のお店で働きたいかな。でも一番興味あるのは、ファインジュエリーのデザインかな」


「へぇ。具体的だね。伊藤は世界征服でも企んでいるっぽいけど」


「企んでるよ。トップの大学行って、留学もして、最高の人脈を作って世界を動かすんだって」


「有言実行型か。伊藤らしい」


翔太はははは、と笑った。



「鈴原は芸大に行って写真をやるんでしょう? こういう風に、人物を撮りたいの?」


私は机の上に広げられた同級生たちの写真をぐるりと見渡した。


「ううん、人を撮るのは好きだけど、こんなんじゃなくて……なんていうかな、人間のあるがままの姿を撮りたいかな。いろいろな地域のいろいろな人たちの日常や非日常。貧困、飢餓、戦争や紛争、幸せの瞬間、あるがままの真実が伝わってくるようなやつ。フリードマン・エンドレみたいな。知ってる? 憧れなんだ」


「うん? だれ?」


「ロバート・キャパっていったらわかる?」


「ああ! 知ってるよ。世界史の教科書に載ってるよね」


「そう、キャパっていうのは彼の恋人が考えた架空の写真家で、本名はフリードマン・エンドレ。中学の時に偶然写真展を見て、こう、がつんと頭を殴られた感じだった」


「イングリット・バークマンの恋人になった人だよね。報道写真家」


「よく知ってるね。すごい。初めて同年代で話が通じる人に遭った」


「あんなふうになりたいなんて、かっこよすぎだよ。鈴原のファンの女子たちが大騒ぎするわ」


「誰にも言わないって。言ったってキャパなんて誰も知らないし。言ったからって自分には関係ないのに、ひとの夢に騒ぐのは理解不能だな」


翔太は苦笑した。


「あのさ、一度訊いてみたかったんだけど。女子にきゃあきゃあ言われるのって、どんな気分なの?」


「まったく、不思議だね。俺の何を知ってるのかなって。もしかしたらすごい変態かもしれないとか、ひとにはいえないような妙な癖があるとか、思わないわけ? それに人間だから、普通にうんこもするし屁もこくし」


「あははは。そうだね。理想化されるのも迷惑な話だよね」


私がお腹を抱えて笑うと、翔太はふっといたずらめいた笑みを浮かべた。


「生田はさ、好きな男子、学校にはいないでしょ」


「ふん、否定はしないな。学校にだって外にだっていないよ。そんなことにかまけている暇は、今はないから」


「やっぱりな。伊藤もだろう? やたら人間観察はしてるけど、それだけって感じだし。頭のいい女は男子に嫌がられるよ」


「別にいいよ。そういうのこだわらない誰かにそのうち出会うかもって思っておく」



「まったく、月野がどうして生田や伊藤を気に入ってるかわかったよ。なんか、精神年齢高くて、似たところがあるよね。姉貴やその友達と話してるみたいだ」


「月野さんか。あの子は好きだな。勉強はもちろんそうだけど、そういうんじゃなくて、頭がいいなって思う。アルバム委員のこと頼まれてからよく話すようになったけど、もっと前からそうなりたかったな。外国に行っちゃうなんて、残念」


翔太はふっと笑んだ。それが少し大人びているなと思ってドキリとする。


「お前たちって、きっと精神的に大人なところがあるんだな。だから気が合うのかも」


「それって褒めてるのかな? まあいいや。そういう鈴原は好きな女子はいるの?」


「いるよ」


「浅野さん? いや、違うか。あんな露骨に迫られてるのに、さりげなくかわしてるものね。もしかして、年上かな?」


「へぇ、やっぱり女は鋭いな。だてに人間観察してないんだな」


「私の席からは教室がよく見渡せるからね」


私があごを上げて自慢げに言うと翔太は苦笑した。


でも彼はそれ以上そのことに触れてほしくなさそうだったので、私もあえて突っ込むのはやめた。


それから翔太はしばらくぼんやりと心ここにあらずな様子で、レイアウトの相談をしても生返事だった。もしかして、彼は片思いなのかもしれない、あるいは、人には言えない、言いたくない苦しい恋をしているのかもしれないとふと思った。




そのころは自分が恋愛には興味がなかったから気づかなかったけれど、彼は恋をしていたんだと、あの様子を今みたら私はすぐに確信すると思う。


あれは、誰かを一途に思う男の顔だった。彼の思いのベクトルは一方向に伸び続け、受け止めるべき終点がなかったのかもしれない。


あんなに女子にモテる子でも、かなわないものはかなわないのだ。


ふと寂しげな表情をした時、彼はひどく幼く見えた。迷子になって、知らない街中で途方に暮れている小さな男の子みたいに。


彼にそんな表情をさせるのは、一体どんなひとなのだろう? もしかしたら本当に年上なのかもしれない。振り回されているのかもしれない。




そんなふうに考えていた私は偶然に、それが誰なのかを知ることになる。

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