Diamond
第8話
誰も知らない海辺の小さな町。
二人きりで、ひっそりと静かに暮らした。
病状が悪化してくると、幸せな時間ばかりではなかった。
体のあちこちにガン剤の副作用で吐き気が止まなかったり、激痛にのたうち回るさまになすすべもなく背中をさするしかなかったり、燃え尽きるろうそくを見つめるように、日に日に弱っていく様をただ見守ることしかできなかった。
それでも彼はつらいとか、苦しいとか投げやりなことは一切言わずに、いつも「ありがとう」と彼女に言い続けていたのだという。
いい大学を出て、仕事にも恵まれ、これからは上り詰めるだけだった。突然に末期ガンと診断され、余命半年の宣告を受けた。普通なら、気が狂ってしまうかもしれない。
自暴自棄になって、何も手につかず周囲に当たり散らしてしまうかもしれない。
それでも幸せだと、彼は言ったという。
ひとり寂しく病院のベッドの上で死んでいくわけではない。
あなたに手を取ってもらいながら、眠りに落ちるように死ねるから。その瞬間まで、あなたがそばにいてくれるから。
あなたを巻き込むことはとても申し訳ないけれど、生きていた証が欲しかった。
あなたの心の中に、ずっと生き続けられる。ありがとう。
本当に、ありがとう。俺はとても幸せだよ。
そう言って彼は、激しい苦痛に乱れた呼吸の下で彼女を見上げて微笑んだ、と彼女は言った。
誰だって若く健康だったのに、ある日突然余命宣告されたら絶望するだろう。
自分はそうならないと何の根拠もなく思うけれど、絶対にそうならないという保証はない。まさか自分が運悪くそうなってしまったとしたら、その時は何ができるだろう?
きっとたいていの人は、自分自身のことしか考えられないはずだ。今までできることをしないでおいたことや、実現できなかったことを悔やむだろう。これからしようとしていたけれどまだ実現していないことも、残念に思うだろう。
宣告を受けた時は目の前が真っ暗になり、一晩中部屋の隅にうずくまって絶望していたという。
彼は彼女の部屋の玄関先で土下座したまま言ったという。
あれもしたい、これもしたい、まだ行ってみたいところもたくさんある。
最初は、そういう欲望ばかりが思い浮かんだ。明け方近くになると、自分が死んだ後のことがあれこれと頭をよぎった。
両親はすでに亡く、兄弟も親戚もいない。俺は天涯孤独だ。
このまま、身寄りがいないまま一人で死んでいくことを想像していた時、頭にはある一人の人が思い浮かんだ。
この世で、今までの人生の中で、生きている人の中で唯一、とても大切な人。
俺を叱り、導き、守り、思いやり、いつくしんでくれた人。
それがあなただった。シホさん。
あなたにすがりたい。格好悪くてもいい、一緒にいてほしいと、
会社のロビーに彼が現れると、女子社員たちが浮足立った。
自信にあふれ、見た目がよくて、仕事もできる。
そんな彼が心から嬉しそうに、明らかな好意を向けて少年のように一途なまなざしを向けて話す相手に、ユカは冷めた視線を送った。
どうしてあんな地味なオバサンとあんなに嬉しそうに話しているのかしら。
年上が好きなの? それにしても趣味が悪い。
あんな雑用しか能のないぼんやりした存在のオバサンの、一体どこがいいのかしら。
いいえ。
本当は、わかっていた。
わかっていたけれど、認めたくなかった。
自分よりも年を取っていて容姿も劣る女が、誰もが羨む男にあんなふうに見つめられているなんて。そ
んなことを認めたくはなかった。認めるわけには、いかなかった。
なぜ?
どうして?
なんのために?
なんのためにあの二人を引き裂くことに力を注いだのだろうか。
なんのために彼を奪い取ろうなどと考えたのだろうか?
わかっている。
ユカ自身の、ちっぽけでうすっぺらなプライドのため。
私は自分のどこが、彼女よりも優れていると思っていたのだろう?
彼女の価値観が私の価値観から大きく
自分が認められない人を初めからいいところを見つけようともせず、先入観だけで全否定して自分は全面的に正しい采配を下したのだと満足する。
そんな自分は、なんと浅はかで視野が狭く、愚かな人間だったのか。
死期の迫った人に頼られるなんて、ユカには一生ないだろう。
ましてやそれが、親密な関係だと思っていた人だった場合は。
そんな相手からありがとうと言われたり、手を取って死ぬ瞬間にそばにいてほしいだなんていわれることも、絶対にないだろう。
あなたの中に生き続けることが、自分が生きた証になると言われることも、絶対にありえない。
そう、それは嫉妬だ。
私は彼女に嫉妬していた。
私が決して得られないものを得るそんな彼女に。
日に日に衰弱してゆき、やがて様変わりして別人のように病んでゆく姿を見続けて耐えて、笑顔で接し続けることができるだろうか? そんな相手を見続けることがつらくても、つらい自分のことよりも相手のことを優先して、思いやり支えてあげることができるだろうか?
もしも夫がステージ4の癌だと、余命半年と診断されたら?
ユカはたぶん、「不幸な妻」となった自分の感情をコントロールできず、今後のことを不安に思ってただ泣き叫ぶしかできないだろう。夫が余命いくばくもなく、苦しみながら死んでゆくことの悲しさよりも、夫が亡くなった後の自分への心配しか考えられないだろう。
ユカが薄情なひどい人間なのではなく、彼女はそれだけの器の人間なのだ。
彼はそれを見抜いていた。
だから、ユカにはなにも告げずに去って行った。なにも期待せずに。
ユカのために去ったのではなく、自分自身のために。
残り少ない人生を、ユカのことを考えるのに使うのはもったいない。
ユカのことなど、どうでもよかったのだ。
神永シホは、実はユカのところに行けと言ってのは自分だと言った。
彼女はユカの秘書としての広い人脈が、いずれ彼の仕事に役立つと考えたという。
もちろん、社交的で華やかなユカ自身が、彼のパートナーとしても十分に役立つだろうと。今までユカは付き合う男が自分に対してどんなメリットがあるかを常に考えてきた。しかしまさか、逆にメリットを考えられていたとは、夢にも思わなかった。しかも、本人にではなく、彼を思う第三の女から。
半年前のユカなら、憤慨したはずだ。激怒して暴言を吐いていたかもしれない。
「これは俺のわがままだ。人生最後のわがまま。しかも、このわがままを通したら、あなたに迷惑がかかるだろう。婚姻届けを出しても、結婚一周年記念は一緒に迎えられない。俺はあなたの人生の汚点になる。でも、それでも、我を通したい。残り少ない時間を一緒に過ごしたい。この世からいなくなる瞬間に、手を握っていてほしいって、そう言うから……小さな子供みたいに、頼りなげに泣きながらそう言うから、どうしても叶えてあげたくなったんです。私は何枚診断書を目の前に広げられてもなかなか信じられなかったけど……というか、信じたくなかったけど……真剣だったから、ああ、本当に死んじゃうんだって思って……」
彼女はあふれそうな悲しみを細い指先でそっとすくいながら寂しそうに微笑んだ。すん、と鼻をすすってティーカップに視線を落とすと、ほろほろと両目から涙が零れ落ちた。そして黒目勝ちの潤んだ瞳がユカを見つめた。
ユカは心臓を木槌で叩き潰されたような気がした。
「だから私は、彼の最後のわがままを聞いてあげようと決めました」
怯みながら、ユカは言葉を固まる喉から絞り出す。
「そうしてそこまで? 長年働いた会社を辞めて、あなたもすべてを捨てたんでしょう? しかも、たった半年しか一緒にいられないとわかっているのに」
バカげた質問だとわかってはいたけれど、どうしても聞いてみたかった。そして、答えてみてほしかった。ユカならば絶対に選ばない選択肢。
「私も、肉親がいないんです。兄弟もいないの。彼と同じ。この世にひとりぼっちで、死に急がなければならないとしたら、何かにすがりたくなる気持ちが痛いほどよくわかるから。救ってくださいと、彼は言いました。それで、ああ、このひとをひとりでは逝かせたくない、そばにいて、幸せな満ち足りた穏やかな気持ちで逝かせてあげたい、そう思ったんです。それしか、考えられなくなったんです。私には失って困るものなんて、何もないので……」
どうやって家まで帰ってきたのか、ユカはあまりよく覚えてはいない。やっと少しだけ我に返ってくると、着替えもせずに居間のソファにぼんやりと座り続けていたことに気づく。
外はすでに薄闇に暮れなずみ、タワーマンションの窓から見える街並みには明かりがともり始め、広い部屋の中も夜の闇に覆われ始めていた。
ソファにぐったりと身を沈め、暗がりの天井を見上げる。
もちろん、天井が見たいわけではない。ユカは昼間会った神永シホの言葉の数々を、頭の中ですっと反芻し続けている。しかし何度反芻しても、まったく消化には至っていなかった。
体のあちこちに転移したガンの痛みに苦しみさいなまれ眠れないとき、鎮痛剤が効いて眠りにつくまでの間、シホは彼に学生時代に旅した外国の国々のことを聞かせたという。彼女は淡々と平凡に年を取っているだけだと思っていたユカはその意外性に驚いた。
ボランティアでタイやカンボディア、ヴェトナムを回り、子供たちに日本語や英語を教えたり、学校をつくる手伝いをしたこと。ワーキングホリデイでカナダに行き、国を横断したこと。ヨーロッパを巡り、ワイナリーで季節労働したこと。バックパックを背負い、長距離バスで様々な国の同年代の人たちと、オーストラリアを回ったこと。
薬で和らいでゆく激痛の中で、彼は笑みを浮かべて彼女の手を握り、嬉しそうに聴いていたという。
「―――そろそろ、行かないといけないんです。アオイちゃんと大友君が、お別れ会を開いてくれるので」
シホはすまなそうに微笑した。
「どこへ……あ、海外へ行かれるって。ご旅行ですか?」
「そうですね……ヴェローナの知り合いのところで、仕事のお手伝いをすることになって。もともと、そのために会社を辞めようと計画していたんですが」
「えっ? おひとりで、行かれるんですか? 働きに?」
「はい。しばらくは帰ってこない予定です。ついでにあちこち、行きたいって言っていたところを
ユカは眉を
「あの……さいごに一つだけ、お聞きしたいことがあります。大友さんが、桜井さんのお墓はないとおっしゃっていたのですが」
こくりとシホは頷いた。
「はい。ありません。葬式もしないでくれって、遺言で。祖父母や両親のお墓は合葬にしてもらいました」
「では、桜井さんの遺骨は、やはり合葬に?」
シホはやわらかく微笑んで首を横に振ると、鎖骨の間のくぼみの、銀の細い鎖に通された青い石にそっと触れた。
「これです。これが、夫です」
「えっ?」
「遺骨。人工ダイアモンド。こうすればどこでもいっしょに行けるでしょう?」
「……」
「骨から作るダイアモンドって、ちょっと黄色っぽい色になるんです。でもね、俺は青がいいって言って」
—―ああ、『ミセテアゲタクテ』って、そういうことなの……そうやって、一緒に海外に行くのね。
深いため息をついて、暗がりの部屋でユカは左手の薬指にはまったふたつの指輪をかざしてみる。
一つは婚約指輪で大粒のダイアモンド。ラウンドブリリアントカット、三・五カラットのFクラス。誰もがため息を漏らす美しさと大きさ。
暗闇の中でもキラキラと輝いている。もう一つは有名宝飾店の結婚指輪。プラチナの台にきっちりとダイアモンドがつながってはめ込まれたエタニティリング。
誰に見せても羨ましがられる。
「……」
ユカは神永シホの鎖骨の間のくぼみに光る薄い青の人口ダイアモンドを思い出す。
あのダイアモンドの前では、ユカの高価なダイアモンドはすべて色あせて見える。
今まで、宝石がほしいといえば買ってくれる男は何人もいた。経済状況によって数万から数十万の、ルビーやサファイア、ダイアモンド。夫もまた、妻の指にはまる指輪で財力を誇示したがる男だ。
しかし、ユカには一生現れない。自分の遺骨をダイアモンドにして贈る男は。加工にはかなりの金額がかかるとしても、それは値段がつけられるものではない。一方では彼女自身も、誰かの遺骨のダイアモンドなど不気味なだけで、身に着けてあんな風にいとおしそうに触れることなどできないと思う。
自分には、そこまで愛してくれる人はいない。そこまで愛せる人もいない。
ユカがろくに知りもせずに価値のない女だと思っていたシホより、ユカのほうがよほど価値のない女だ。高価なアクセサリーや化粧品、服はすべて誰かの価値観の受け売り。雑誌に載ってるとか、テレビで話題になっているとか、みんながもてはやしているからとか、そういうものがユカの価値観の基準になっている。
中身なんて、空っぽだった。
自分よりも美しくない女はすべて見下していたし、自分に見合った価値のない男は無視してきた。小さなころから容姿がよかったせいで親からも周りからもちやほやされすぎたせいで、それが当然だと思っていた。
今までで一番執着した相手は彼だった。
でも彼にとってユカは、最も愛すべき存在ではなかった。
彼にとって忘れられない女は、神永シホだった。
彼は死んでもなお、彼女のそばにいたかったのだ。ダイアモンドになってまで。ただの炭素の塊になってまでも。
ユカには、サヨナラのディナーをおごっただけ。
腹を立てる権利も立場もない。常にだれがユカにとって価値があるのかについて考えてきたが、ユカがだれかにとって価値があるのかないのかは、考えたこともなかった。
しかし彼にとってユカはさよならのディナー程度の価値しかない女だった。
もう行きますねと、バッグとコートとレシートを手にしたシホを、ユカは慌てて制した。
私がお支払いしますと言って、彼女の手からレシートをやんわりと奪い取る。そして丁寧に頭を下げた。
「きょうは本当にありがとうございました。そして……会社では大変失礼な態度を取って、申し訳ありませんでした」
するとシホは驚きに黒目がちな目を丸く見開いた。そして穏やかに微笑んだ。
「人って、いろいろでしょう。好き嫌いがあっても当然だし、気が合う合わないも自然でしょう。価値観もみんな違うわけだし、私は何も気にしていません。あなたにはあなたの魅力的なところがたくさんあります。どうかもう気にしないでください」
ごちそうさまと頭を下げ、神永シホはゆっくりした足取りで去って行った。
薄闇は部屋の中のものの形をほとんどシルエットだけに変えた。今ユカはひとり、暗がりの中でぼんやりと考え続けている。
誰からも見捨てられて途方もないブラックホールに放り出されたような、絶対的な孤独と無力感の中で押しつぶされるような、数万光年の寂しさの中にいる。
私はからっぽ。
誰からも心から愛されないし、愛したこともない。
誰かのために何かを捨てて献身したことも、されることもない。
いつだって、自分本位で生きてきた。自分さえよければ他人のことなんてどうでもよかった。だって、自分の人生だもの。なにかいけないの?
自分の人生を自分の思うように、自分らしく生きる。誰にも迷惑はかけていない。
そのために攻撃的になることはあるけれど、それのなにがいけないの? 少なくとも、ずっとそうしてきたし、周りも何も言わなかった。
でも。
高層建築の展望フロアの、透明ガラスの床の上から下を眺めているみたいな、身のすくむ不安感にさいなまれる。
大友も二宮も、あんなに必死に頼み込んだユカに同情するどころか、あきれた苦笑を向けてきた。
そのことは心外だったけれど、何も期待されていないことが衝撃的だった。悪口を言われれば悪口を返す。非難されれば抗議する。簡単なことだ。でも、あきれられたらどうすればよいか、ユカにはわからなかった。
あの夜。
プロポーズされるだろうという勝手な思い込みで期待に胸を膨らませレストランへ向かった。素敵な場所で、自分の望むシチュエーションで。
他の女たちが羨む相手から、羨む
それだけが、望みだった。
その望みさえ叶えば、相手への感謝や気遣いなど思いつきもしなかった。
自分が幸せになることばかりに関心があり、相手の異変も悩みも苦しみも理解しようとはしなかった。もしも少しでも彼に関心があれば、病気に悩んでいることにも、気づいてあげられたかもしれないのに。
彼はモノではない。ユカに都合のいいように動くモノでは。
私は彼のことを少しでも知ろうとしなかった。
この世に一人ぼっちで生きていたなんて、思いもしなかった。
どうして?
—―それは、自分がそうではないから。自分以外の立場に立って、なにかを考えようとしたことがなかったから。
「……」
彼の死を聞いて、今初めて涙が頬を伝い膝の上に置いていた手の甲にはたはたと零れ落ちた。
それらは、左手の薬指の豪華なダイアモンドたちの上にも降り注いだ。
涙を流す自分を冷静に観察する自分がいることに気づき、ユカは口元だけで笑う。
この期に及んで私は、こうやって
ガラスのテーブルの上で、スマホがブーブーと鳴ってかすかに滑る。
夫からのメッセージ。
『遅くなりそうだから、先に寝てて』
画面がブルーに光って、部屋が真っ暗だったことに初めて気が付いた。
はぁ、と深いため息をつき、彼女の華奢な鎖骨のくぼみに乗っていたブルーのダイアモンドを思い出す。
一人の人が、生きていた証。
贈ることも贈られることも、ユカには一生ないだろう。
街は人工的に明るく輝き始める。
なにも変わらない。
いつもと同じように、夜がやってくる。
【完】
Diamond しえる @le_ciel
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます