再会

第7話

それから一週間。




 ユカは重たい不安を胸に、単調な毎日を悶々と過ごした。



 

 私の何がいけなかったのか。


 私がした何がいけなかったのか。


 私がいつ何をどう失敗したのか。




 あの大友という上司も、二宮アオイも、同じような苦笑を浮かべ同じことを言った。



 知る必要のないこと。


 知らないほうがいいこと。




 その言葉が、頭から離れない。


 あの人たちの、あの困惑の苦笑。


 私には何も期待していない、あきれた苦笑。


 私だけが知らない何かを彼らは知っていて、そして知らないユカにあきれている。




 何も知らない私だけが、ばかみたいじゃない……




 たとえ不快でもいい。


 あるがままの真実が知りたい。


 何を間違ったのか。


 どうしても、知りたいのだ。





 ちょうど七日目の夜の十時ごろ、ユカのスマホにショートメッセージが届いた。件名のところに『神永です』と書かれていた。どきりと心臓が高鳴る。胸がざわめく。



 まるで好きな人に告白した後の返事待ちの少女のように、ユカは動悸を押さえながら震える手でメッセージを開けてみた。



『三日後に日本を発つので、明日なら昼間すこしお会いできます』



 同じ会社で勤務していたが、部署も階も違うし、毎日顔を合わせていたわけではなかった。


 秘書室だけでなく多くの人たちと毎日かかわり華やかに過ごすユカと、一日のほとんどを営業課の自分のデスクの周りで過ごす神永シホは、ほとんど接点がなかった。


 仕事の上で話したことはほんの数回だったし、私的なことで話したことなど皆無だった。だから「お久しぶり」などの挨拶がない、そっけない一文だったとしても仕方のないことだ。当時はこうしてメッセージをやり取りすることさえ、想像もできなかった。



 彼女を敵視したのは、彼ゆえだった。



 ユカは震える指先で返信した。



『では明日、お願いいたします。無理を言ってすみません。何時にどちらへ伺えばよろしいですか?』



 日本を発つなんて……旅行かしら? 彼が死んで間もないのに? 海外へ行くのなら、もっと早くに返事をくれても……と思い、はっとする。


 神永シホにとって、ユカに会うことなど何の優先順位もない。むしろ、強引なお願いに時間を割く義理もない。それこそ何の理由もないからと断ってしまってもいい。



 二分もたたずに返信がくる。



『十三時に、ホテルロザモンドのロビーのカフェでいかがでしょう?』



 ユカの胸はますますざわめく。本当に、おかしい。告白した相手から返事を待つみたいな気分だ。全身がふわふわと不安に包まれる。



『承知しました。ではよろしくお願いいたします』





 その夜も夫はかなり遅い時間に帰宅した。夫が寝入った後も、ユカは眠ることができなかった。緊張している。今までに感じたことがないほどに。



 実際に会ったら、何を訊けばよいのだろうか。


 いや、どこからどう切り出すべきだろうか?


 どんな感じで話せばいい? 


 まともに話したこともないのに……


 ますます目がさえてくる。




 当時は勝手に敵視して失礼な態度を取っていた。でも彼女は、ユカに対して何の特別な感情も見せなかった。



 私って、かなり厚かましいのかな……



 意地悪をしていた相手にわざわざ会ってもらおうとする自分が少し恥ずかしいが、事実を知りたいという気持ちに負けてしまった。たとえどう思われようとかまわない。真実を知るためならば、どんな屈辱にだって耐えてみせるわ。




 一晩中悶々と考え巡った割には、驚くほどスムースに事は運んだ。



 午後一時五分前。


 指定されたホテルのロビーのカフェに行くと、神永シホはもうそこにいた。ホテルの冬枯れの中庭を、窓辺のソファでぼんやりと眺めている。


 会社にいた時とは雰囲気が違っている。会社ではいつも髪は後ろの低い位置でひとつにまとめていたし、もともと細い感じだったのに、さらに少しやせた気がする。


 胸まで届く髪を緩やかに巻き、白と黒のギンガムチェックのなよやかなシャツに黒のクロップドパンツ。茶のジョッキーブーツ、バッグは赤。明るいブルーグレーのウールのコートを椅子に掛けている。胸元には細い鎖にぶら下がった、小さな青い石のネックレス。


 ユカと同年代と言ってもわからないかもしれない。本当に若く見える。



「こんにちは、お久しぶりです」


 少し緊張したビジネスライクな口調で頭を下げると、神永シホはユカを認めて会釈した。


「お久しぶりです」


 彼女も会釈した。そして向かい側のソファ席をユカに促すと、なんともとらえがたい穏やかな表情でうっすらと微笑んだ。


 ウェイトレスが来たので、コーヒーを注文する。シホの前にはポットが一つと紅茶がカップに注がれて置いてある。




 コーヒーはすぐに運ばれてきた。ウェイトレスが離れていったのを確認し、ユカは落ち着いてゆっくりと話し始める。




「本日はお時間をいただきまして、どうもありがとうございます。突然にすみませんでした。でもその、先日……偶然に、桜井さんが亡くなったと人づてに聞いたものですから……その、どうしてもお聞きしたくて……」


 自分から呼び出しておいてどうかとも思うが、気まずさに歯切れが悪くなる。まだユカの腹は決まらない。どこから、何を、どう訊くべきか?


 神永シホは、どんな態度で応じてくるだろうか。一晩中考えた。昔したことを考えれば、罵倒されても黙って耐えようと思った。少なくとも、ユカがもしも彼女の立場ならば、昔ひどい仕打ちをした女の頼みなど、聞いてやる必要も義理もない。男を横取りした女になんて、親切心を起こす必要はない。



 彼女は、鎖骨の間のくぼみにちょこんとのっかっている、小さな青い石を右手の人差し指と親指でそっと触れた。そしてテーブルの上のカップに一度視線を落とし、それから外のイギリス風庭園に視線を移した。早春の庭は、まだ殺風景だった。


 「そうですね。早いなぁ。もうひと月ちょっと経ちますね」


 庭園の水の出ていない白い噴水からゆっくりと視線をユカに戻し、シホはやわらかく笑んだ。


 疲れ果て、頬が少しこけている。嵐をやり過ごした、穏やかな表情。彼女の瞳は少女のように澄んでいる。化粧はたぶん、ファンデーションと眉を描いている程度だ。神聖で美しい。このひと、こんなに美しい人だったかしら?


 初めて近くで見つめ合ってユカは驚いた。



「去年の会社の健康診断で引っかかったそうです。大きな病院に行ったら、すい臓ガンが見つかって。すい臓って、なかなか気づきづらいらしいです。その時、ステージ4だと言われたそうで。セカンドオピニョンどころかフィフスオピニョンくらいまで病院を回ったけれど、どこでも同じ結果でした。それで、不眠症になったって」


 それはちょうど……仕事で忙しいから当分会えないと、避けられていた時期かもしれない。神永シホは独り言のように淡々と語る。記憶をたどるように、黒目がちの瞳が時々くるりと動く。そして彼女はぼんやりと宙を見つめて苦笑する。


「それである夜、会社から帰ると部屋のドアの前にうずくまっていて。どうしたの? と声を掛けたら、動揺しながら震える声で言ったんです。俺を救ってください、って」

 ユカはただただ、かすかに頷くしかできない。苦しくて何も言葉が出てこない。


「尋常じゃない様子だったので、めずらしく仕事で何か失敗したのかと思って。とりあえず中に入れて話を聞こうとしたら、玄関で土下座したんです。真っ青な顔でぶるぶる震えながら、まっすぐに私を見上げて言ったんです」


 神永シホはかすかに息を吸い込み、鎖骨と鎖骨の間のくぼみの青い石に触れた。


「あなたの半年を、どうか俺に下さい、って」


「は……?」



「意味がわからないでしょう? はい? って聞き返したらスーツのジャケットの内ポケットから分厚い封筒を取り出して、私の半年をこれで売ってほしいって……それ、札束だったんです。ますますよくわからなくてぽかんとしていたら、末期ガンだと、どの医者も長くて半年の命だと言ったって……5枚くらい、診断書も見せられて」


「……」


 ユカは呆然とする。


 まるっきり初耳だ。自分は彼の恋人で、常に一番そばにいて、何でも知っていると自信を持っていた。けれど死を宣告された彼が一番に思い浮かべて縋り付いたのはユカではなく、神永シホだった。




「病院で死ぬのは嫌だ、一緒にいて最期を看取ってほしいって……泣きながら……」


 シホの瞳には悲しい記憶がにじんで、声が少し震えている。


「それで……神永さんは、承諾なさった……あなたを……一度は裏切った男なのに……」


 裏切らせたのは自分なのに、ユカはそれさえも忘れてやっとのことで声を絞り出した。


 シホは小さく頭を横に振って、申し訳なさそうに苦笑した。


「私が言ったことだったんです。あなたのもとへ、行きなさいって」


 驚きでユカの瞳孔が開く。


「え?」


「将来、海外赴任になってもあなたみたいな人がパートナーなら、心強いだろうからって。あなたとは同じ部署で働いたことはなかったけれど、あなたがどれだけ仕事ができる人なのかは、知っていたから」


「そ、んな……」


 奪ったと思っていた。


 勝ったと、思っていた。



「彼のことは、学生のころから知っていたんです。私の後輩の大友君、会ったでしょう? その後輩だったから。就職活動のOB訪問に来て意気投合したと言って、連れてきたんです、私たちの定期的な飲み会に。あのころから、同じ年頃の子たちといるよりも、私たちといるほうが多かったかもしれないですね」


 シホは楽しかった記憶をたどってやわらかく笑んだ。


「早くに両親を亡くしていたし、卒業前におじいさんもおばあさんも亡くなっていたし、兄弟もいなかったから……心細かったのでしょう」


 だからって……


「でも、私には何も……」




 シホは柔らかい笑みをうっすらと浮かべたまま、穏やかに言った。


「言ったとしても、あなたを困らせるだけでしょう。あなたは若いし、受け止めきれないと思ったみたいです。誰もが羨む相手と誰もが羨む結婚を望んでいるあなたには、自分の欲望に正直すぎて負担になるだけだろうって」


「……」


 彼女の表情には、憐れみも軽蔑もない。


 たしかに、その時のユカなら、いきなり余命半年と告げられたら混乱して逃げたかもしれない。いや、絶対にそうしていたと自分でも思う。



「もしもあと半年しか生きられない命ならば、もう自分の好き勝手に生きたいって、いろいろなしがらみを捨て、誰にも、何にも遠慮せずに、ただわがままに生きて終わりにしたいって。彼が差し出した封筒には、彼の全財産が入っていたんです。これをすべてあなたにあげるから、どうか最後のわがままを……一緒にいて、看取って、ほ、しいって、そう言っ、て……」


 また彼女の声が悲しみに詰まる。




 彼がユカに別れを告げた日よりも少し前に、彼女は会社を辞めた。そして彼の望むような物件を一緒に探し、引っ越しの準備を整え、自分の身の回りの片付けも始めていた。


 彼はユカに別れを告げた翌日から、彼女と二人で海辺の町に移り住んだようだった。その週末、二人は役所に婚姻届けを出した。大友と二宮がそれぞれ保証人として署名したという。


 海辺の町の小さな一軒家の借家で、四人でささやかなお祝いをした。結婚したのは配偶者ならば、治療方針に口出しすることも病状を詳しく聞くこともできるからだったと、シホは言った。



「それからの日々は、人生の中でも最も貴重な時間でした」


 シホはくっ、と上を向いてたまっていた涙を押し上げると、両方の口の端を上げて穏やかに笑った。

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