真実

第6話

どちらからどう聞いているのかは謎だが、大友はユカが二人の仲を引き裂いてソウスケを奪い取ったことは知っていたようだった。


 

 目を閉じたままぐるぐると回されたみたいに頭が混乱する。


「神永シホさん……あっ」


 あれは確か、彼がいなくなってすぐ。営業部に行ったときに、彼女が退職したことを聞いた。あの時の話によると、彼女は彼がいなくなる少し前に身内の・・・介護か看病で辞めたらしいと……


 ユカは息をのむ。驚きすぎて声も出ない。あれは……彼の・・、看病のためだった?




 大友は腕時計に目をやると腰を浮かし、スーツのボタンを留めた。


「あとは彼女にでも聞いてください。彼女があいつの最期を看取った、たったひとりのひとだから。彼女の仲のいい後輩に訊くと連絡はとれるでしょう。では私はもう失礼します」


「あ、ありがとうございました……」


 ユカは急いで立ち上がり、去り行く大友の背に深く頭を下げた。




 なぜ……?



 ユカと付き合っている間も、二人は続いていたということ? 私と一緒にいながら、あの女とも会っていたということなの?


 

 去ってゆく大友の背中にお辞儀をしてから、ユカはぐったりと椅子の背もたれに張り付いた。



 まずは……整理しなくては。




 彼はすべてを捨てて姿を消した。


 もう二度と会うことはないと言っていた。


 それは、末期ガンだったから。


 そして、誰も知らない海辺の町で、死んだ。


 でも、一人寂しくそうなったわけではなかった。


 神永シホが、彼を看取った。



 彼の妻として。




 ずっと痺れてマヒし続けている心の中のシミにような部分から、もやもやと黒い炎が燃え上がり、広がってじんわりと広がってくる。


 私が何も知らなかったことを、あの女は笑っていただろうか。捨てさせた、と勝ち誇っていたのに、実は捨てられたのは私のほうだったなんて。


「……」




 また、怒りが込み上げてきた。




 私は……何も知らなかった。何も、知らされてはいなかった。全身の血がざっと音を立てて引いたかと思った。とたんに指先が冷たくなった。




 負けた。そんな気がした。




 同僚の沢木のことについては仲がいいと聞いていたけれど、大友のことは一切聞いていなかった。


 両親が早くに亡くなったとか、祖父母に育てられてその二人を学生時代に失って天涯孤独になっていたことも、何もかも。


 ユカは彼について、彼の過去について何も知らなかった。そして、末期ガンだったことも。


 顔色が悪いとか苦しそうだったとか、まったく気が付かなかった。今日は忙しすぎて会えない、と言われたことならば何度かあったように思うけれど。



 彼がアパートを引き払い、車を売り、仕事を辞めて姿を消したときも、もしも彼に関心があってもっと彼のことについて知っていたならば、どこに行ったのかすぐでもに見当がついたはずだ。探せなかったのは、実は知っていたようで彼のことは何も知らなかったから。




 それだけ。


 私は、彼にとって何でもない、それだけの存在だった。




 自分のことばかり話していた。


 噂ばかり、意味のない話ばかりをしていた。


 理解は求めたけれど、理解しようとは、知ろうとはしていなかった。


 受け止めてほしいとは思って自分の感情をごり押しはしても、理解してあげようとはしていなかった。




 本当に、死んだの?


 まさか、実はまだあの女と暮らしているのではなくて?


 お墓がないなんて、変じゃない?


 なんか、ウソっぽいわ……




 ふわりと、足元をすくわれたような途方もない不安感が胸をつぶす。


 ユカは唇をかみしめた。



 確かめなくては。


 どこまでが本当のことなのか。


 確かめなくては、ならない。




 家に帰って、夕飯を作るどころの気分ではなかった。


 どうせ夫は外で飲んで、遅く帰ってくる。



 ユカは幽霊のように立ち上がり、ふらふらと建物の外へ出た。そして数年間通いなれた道をたどり、働いていた会社の前までやってきた。誰にも見つからないように知り合いの目を避けて、通りを挟んだ向かいのカフェに入り、窓辺の席でビルの出入り口を眺めじっと待った。




—―誰を?



 それは……




 十八時を少し過ぎたころ、人ごみに紛れて彼女・・が姿を現した。


 細く痩せた、中背のショートカットの華やかな顔立ちの若い女。




 二宮アオイ。




 メトロの入り口で、速足のアオイに追いついて息を切らしながらユカは声をかけた。


「二宮さん」


 二宮アオイはユカを振り返り、少し驚いてから無表情に戻り、冷たい視線をユカに向けた。


「なにか?」


 彼女のように他者との「和」などどうでもいいと思う女は、嫌いな相手には露骨に嫌悪感をあらわにする。「お久しぶり」と社交辞令を言うこともない。実にわかりやすいとユカは思う。



 

「神永さんの連絡先を教えてください」


 アオイははっと目を見開き、すぐに軽蔑に表情を浮かべた。


「は?」


「神永シホさんと、連絡を取りたいんです」


 アオイは意地の悪い表情のまま鼻で笑った。


「なに? なぜあなたが、彼女の連絡先を知りたいんでしょうか?」


「訊きたいことが、あるからです」


「だからって、あたしが教えると思うの?」





 予想していた反応に、ユカは頭を深く下げた。


「彼女に対する私の態度が悪かったことは認めます。彼女にとても失礼なことをしていたって、反省しているわ。どうしても、神永さんに会って、訊きたいことがあるの。だからどうかお願いします。彼女の連絡先を教えてください」


 アオイはユカの神妙な態度に少し面食らったが、それでもユカに対する猜疑は晴れなかった。彼女はまた鼻で笑う。


「何よ、今更何を知りたいっていうの?彼がいなくなってあなた、すぐに別の人と結婚したじゃない? しかも、自分が捨てたことにして話を広めていたし。華々しく惜しまれながら結婚退職した、その程度なのに、あの人たちの間に入って邪魔をして奪って、時間を無駄にさせておいて、その上何を訊こうっていうのよ。まぁ、もっとも、どうせ自分に関することが知りたいんでしょうけど」



 アオイのようなまっすぐな気性の女は、核心をゼリーで包んだような言い方はしない。ただ事実を、ストレートに容赦なく投げつけてくる。


 彼女の鼻の付け根には、不快感がシワ寄っている。


 ヨークシャーテリアが敵意をむき出しにしているようだ。威嚇自体は恐ろしくはないが、上品な見かけの愛玩動物が憎悪を向けてきているような感じだ。


 またユカがシホに失礼な言動を取ってさげすむのではないかと警戒している。




 メトロの出入り口は人でごった返すラッシュアワーの最中だったので、ほかに人たちの邪魔にならないようにと、アオイは嫌々ながらユカを近くのカフェに誘った。



 本当は、こんな女とは一秒でも一緒にいたくない。


 アオイの表情がそう語っていた。


 嫌悪感を隠すことなく見せつけながら、足を組み、腕も組んでアオイは少し斜めに座っている。


 もしもユカが自分の敬愛する神永シホに意地悪をするつもりなら、ひどいことを言ってやろうと思っているのだろう。




 壁際の奥の席。壁を背にしたアオイはきっぱりと低い声で言った。


「もう終わったことでしょう? 蒸し返すのはなぜ? あなたは望み通りの結婚をして、幸せなんでしょ? 彼女のことはもう、あなたの人生にはどうだっていいことにしておいてほしいんだけど?」


 ユカは小さくため息をついた。


「知らないままでは、終わりにできないから」


 アオイは苦笑した。憐憫が含まれた口調で意地悪気に言う。


「つまりは、自分自身が納得するために、知りたいってこと? そんなことなら、彼女を煩わせなくとも、あたしが答えてあげるわ。何をどう知りたいの? 横取りした男が姿を消して、彼女のところに戻って行ったことでプライドが傷ついた? それとも、彼がどうして病気のことをあなたに一言も言わなかったのかについて? あなたみたいな、自分のことが可愛すぎて周りのことが見えないような人には、知らなくていいことが、世の中にはたくさんあるのよ?」



 ゆかは先ほどの大友の言葉を思い出す。



「知らないほうがいいことも、世の中にはたくさんあるんですよ」



 示し合わせたかのように、まったく同じことを言われた。知らないほうがいいこと……?



 もしかしたら、その「知らないほうがいいこと」を知らないせいで、私は幸せになれないのかもしれない。ユカは漠然とそう感じた。そして緊張で狭まったのどから、必死で声を絞り出す。


「それが、知りたいの。なぜ彼は私には病気のことを黙っていたのか、なぜ私ではなく、神永さんのもとへ行ったのか」



 ユカの言葉に嘲笑しながらアオイは頷いた。


「ほら、やっぱりね。結局あなたは、自分が大好きなの。自分のためにだけ、真実をはっきりとさせておきたいだけなの。相変わらずね。私、私、私って、いっつも自分のことだけ。だったらいっそのこと、結婚前に会社中に言いふらしていたみたいに、自分の都合のいいように思っておけばいいじゃない? 本当のことなんて、自分大好きな人は知らないほうがいいと思うんだけど」



 胃が裏返るほど、ユカは驚いた。動揺で握りしめた自分の右てのひらに、爪が食い込み指先がうっ血して真っ赤になる。


「に、二宮さんは、そのことに関して、どこまで知っているの?」


 アオイは軽蔑の視線を向けて唇をゆがませる。


「あなたの知らないことはほとんど知ってるわ。でもあたしには関係のないことだから。ただあなたの自己チューな超ご都合主義の身勝手な考えで、また彼女にいわれのないひどい言動をとることは、絶対にさせたくない。それは絶対に、阻止するから。今後も彼女にはかかわってほしくないし、失礼なことはさせない」



 気持ちがいいくらいのむき出しの敵意に、ユカはどれだけ自分が神永シホに対して失礼で理不尽な態度を取ってきたのかを思い知らされた。


 それでも、大体、当人ではない二宮アオイにここまで言われる筋合いはないと、ユカは不満を口にする。


「私が何をしたっていうのよ。あなたにそこまで言われる筋合いはないと思うんだけど。彼女に手をあげたたわけでも、罵倒したわけでも、まして大勢の前で辱めたわけでもないのに」


 アオイはまた鼻で笑う。


「あなたは常に自分が中心にいないと気が済まない人だった。逆らわない子分たちを引き連れて、お姫様気取りで。逆に訊くけど、彼女があなたに何をしたっていうの? ただ気に入らないから、彼女のことが妬ましいから、失礼なことをたくさんしたでしょう? あんな優しい人を、さんざん辱めてバカにして」


 アオイは気が強い。そのうえ、言いたいことは何の遠慮もなしに口にする帰国子女だ。ユカのような女には、ちっとも脅威を感じない。ユカはこんな女が苦手だ。こういう女は正論を吐くからどうにもしづらい。



「あの人を奪った時、あなたは彼女に勝ったとでも思っていたんでしょう。まんまと、奪ってやった、とね。でも実際はどうだった? 彼は結局、彼女のもとに救いを求めてきた。あなたには不可解でならないでしょうね。どうして自分じゃなかったのかって、考えてもわからないんでしょう? でもね、あなた以外の人たちには、すごくよくわかるのよ。彼がなぜ、自分の死期が近いとわかったときに彼女にすがったのかは、ね」



 二宮アオイは大きな瞳でまっすぐにユカを見据えた。


 美女とは言えないが、知性の漂う気の強そうなかわいい顔立ち。今、彼女のユカを見据える瞳には、燃えるような怒りと氷のように凍てつく軽蔑が入り混じっている。


 自分の美しさを自負していて、それを引き立たせるために造作がおしい女たちを取り巻きにしているユカの周囲にはいないタイプ。育ちがよく、なにものにも媚びることなく自分を持っていて、凛とした孤高の美しさをもつ女。こういう女には、自分には思い通りにできないぶん、本能的な危機感を感じる。



 しかし今は、そんなパワーゲームに関心を持つ暇はなかった。



「もしもあたしだったら、一度自分のもとを去った男なんて、どんな事情があったとしても二度と受け入れようとは思わない。たとえもうすぐ死ぬって言われても、髪の毛一本ほども同情しないわ。でも彼女は違うのよ。あたしのや、あなたの価値観で理解しようとしても無理なの。だから、今更何を話そうとしても理解しようとしても、理解できないのだから無駄よ」


 アオイはユカへの仕返しとか憎しみから意地悪で言っているのではないのかもしれない。彼女の瞳には必死さが見て取れて、ユカは彼女が神永シホを必死で守ろうとしているのかもしれないと思う。



 しかし、だからと言って胸の中でずっと渦巻き、ざわめきたつユカの灰色の好奇心がそれで納得するわけではない。それがどうなるのか、神永シホに会って話をすれば、納得できるのではないかという考えは変わらない。


「二宮さん」


 ユカはできるだけ丁寧な口調でアオイに呼び掛けて、彼女を真摯に見つめた。


 帰国子女のアオイは、すこしも怯むことなくまっすぐにユカの目を見つめ返してくる。そして心持ち首を傾げ、ユカが何を言い出すのかをじっと待っている。


 ユカはすっと息を吸い込み、ゆっくりと慎重に言葉をつづけた。


「私は、彼女に意地悪するために会いたいわけじゃないの。問い詰めたいわけでもない。ただちょっと、話がしたいだけ。絶対に、失礼なことやひどいことを言って、彼女を不快にしないことを約束するわ。どうかお願いです、神永さんに会わせてください」


 深く、ゆっくりと丁寧に頭を下げた。



 ふう、というため息が聞こえる。


「だからね、話しても、何にもならないと思うわ。むしろ、知らなくてもいいことを知ったら、知らなかったほうがよかったって後悔することになるから」


「たとえそうだとしても、知らないよりは知ったほうがいいのよ。あなたが私をどんなに軽蔑していても構わないし、なんと言われても今までの行いをどうにかできるわけでもないし。もし知らなかったことを知って大きなショックを受けても、それは私の招いた結果だし、知らないでこれからも生きていくよりはるかにましだわ」


 アオイはまた、ため息をついた。


「それじゃあ、あたしはあなたが会いたがってると、それだけを彼女に伝える。それでもしも彼女が会いたくないと言って連絡をしなかったとしても、あたしには何の関係もないからね」


 ユカはひそかに安堵のため息をついた。


「いいわ、それでいいです。では、これを」


 ユカは自分の旧姓とスマホの番号をレシートの裏に書いてアオイに渡して、再び丁寧に頭を下げた。


「どうかよろしくお願いします。ご連絡、お待ちしていますとよろしくお伝えください」

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