衝撃

第5話

「あいつ、亡くなったんだって」




「えっ?」



 頭の中が、真っ白になる。今、なんて?


「あの……意味が」


「亡くなったらしいんだ」


「ど、どうして、ですか?」


 ぐらりと、足元が揺らぐ。


「うん、詳しくはよくわからないんだけどね。一週間くらい前に、上司から聞いたんだ。その上司は学生のころからあいつのことをよく知ってるみたいでね。彼は何か知ってるらしいけど、聞いても教えてくれなくて。もしも本当なら……墓参りに行きたいんだけどね」


 沢木は歩道に視線を落して、静かなため息をついた。




 どうかしてる。


 自分でもよくわからないけれど。


 絶対にご迷惑はおかけしませんから、と沢木に縋り付いて、事情を知っているらしいその上司の連絡先を聞き出した。




 本当に、どうかしている。


 今までの自分だったら、たとえ昔の彼氏が「亡くなった」と聞いても、そんなに動揺しなかったはずだ。ふうん、そうなの、程度で聞き流して終わりだったと思う。



 まいったなぁ、と困惑しながらも、沢木はその上司の名刺をユカに渡してくれた。大友という経営戦略課の課長で、三十代後半だという。



 翌日、ユカは大友に電話を掛けた。自分が何者なのかを簡単に説明して、ぜひ会って、彼の死について教えてほしいと懇願した。


 何度もやんわりと断ってきた大友だったが、ユカのあまりの粘り強さに困惑した。


「あなたには、知る必要のないことです」


 しかし、ユカの決心は揺るがなかった。


「たとえそうであっても、教えていただきたいのです」


「知らないほうがいいことも、世の中にはたくさんあるんですよ」


「知らなくてよいことでも、知らなければいけないこともあるんです」


 お願いいたします、どうか、大友さん。ユカは電話口で深くこうべを垂れた。


 電話の向こうの大友が、大きなあきらめのため息をついた。そして硬い口調で、静かに言った。


「では、お話ししましょう。期待はずれかもしれませんが」


「ありがとうございます。なんでも、なんでも結構です」




 ずっと、痺れたままマヒしているような心の中のある一部分、それが彼に関することだ。今までのユカの人生において、ユカから去って行った唯一の男。別れを告げて、何の痕跡も残さずにどこかへ去ってしまった男。



 知らなくては。


 先に進めない、知るまでは。


 どうして彼が、あんな去り方をして、そしてどうして亡くなったのかを。




「申し訳ありませんが、二、三十分程度しか時間が取れません。このあと、会議があるので」


 沢木を以前呼び出したのと同じカフェに来てもらった大友は、細身で品のある、感じの良い男だった。


 早めに来て待っていたユカは席を立ち頭を下げた。


「急なお願いを聞いていただき、お忙しいところ申し訳ありません」


 時間がないので前置きは無しに話にしましょう、と大友はユカに着席を促してスーツのジャケットの前ボタンをはずし、自分は彼女の向かい側の席に座った。




「それで、何をお知りになりたいんですか?」


 大友は本当に率直に切り出した。


「はい。ソウ……桜井さんが亡くなったというのは、本当ですか?」


「ええ。もうひと月くらいになるかな……」


 大友はガラス張りの外の通りにぼんやりと視線を投げた。


「あの……大友さんは、彼がどこにいたのか、ご存じだったんですか?」


「知っていました。私はあいつの上司であり、大学時代からの先輩でもあるんですよ。会社ですべての事情を知っているのは、私だけでしょうね」


 ユカはテーブルの上で組んだ両手をぎゅっと握りしめた。


「し、死因は、何だったんですか?」


 大友は通りを行き交う人々から視線をユカに戻した。ユカのことを、彼女の心の中を探るような、判ずるような視線。


 その目に一瞬、心の中を見透かされたような気がしてユカは目を逸らしてしまいたくなったが、ここで逸らしたらいけないと思い直した。そしてテーブルの上の握りしめた両手をさらに指先が真っ赤にうっ血するほどきつく握り締め、大友の目を負けじと見つめ返した。


 大友は目を細めた。そして静かにはっきりと言った。




「ガンです」




「え?」



「すい臓ガン。今年の春にわかったときは、ステージ4で。それで、急遽会社を辞めたんです」


「……」


「そのころにはもう、胃やら腸やら肺にも移転し始めていました。手遅れという状態で」


「そんな……」


 春ごろ? そういえば、疲れやすいって、顔色が悪かったかもしれない。仕事が忙しいせいだって……


「それで地方の海辺の町で、余生を送っていました」


「……」


「気の毒な男でしたね。早くに両親を事故で亡くし、父方の祖父母に育てられた。大学卒業までに祖父母を送り出して、いよいよ一人ぼっちになった。それなのに、本人までも、こんな早……く……にっ」


 大友の声が涙に詰まる。彼はまた斜め上向きに外の景色に視線を投げる。すん、と鼻をすする。




 ユカはあまりの衝撃に、言葉も出ずに冷め始めたコーヒーカップのフチをじっと見つめている。


 ガンですって? そんなことも、病院に行ったことも、検査のことも、何一つ聞いていなかった。すべてが初耳だ。


 それでも時間がもったいないので、何とか言葉を絞り出す。


「あ、海辺は、その、ご親戚か何か……?」


「いいえ。縁もゆかりもない。誰も知り合いがいなところでした。そのほうが気楽だと言って。海のそばで最期を迎えたいと、あいつが自分で見つけてきた貸別荘でした」

「そんな。たった一人で、最期を迎えたんですか? 誰も知らないところで?」


 ユカは眉をひそめた。


 大友は再びユカの目をまっすぐに見た。何を考えているのか、まったくわからない感情のない目だ。彼はゆっくりと首を横に振って静かに言った。


「一人では、なかったですよ。彼は、ある人に看取られながら静かに、心穏やかに逝ったんです」


「えっ?」


 ユカの瞳孔が大きくなる。大友はまた探るようにユカの目を覗き込む。


「――失礼ですが。ひとつだけお尋ねしたい。あなたはなぜ、こんなことを知りたがるんですか? 別れた男がどうなろうと、ご結婚されて幸せに暮らしていらっしゃるあなたには、さして重要なことではないでしょう?」


 大友は大企業の経営戦略課の課長だ。洞察力は並の人間の何十倍も鋭い。途端にユカは何もかも自信を無くし、自分がとてつもなく薄っぺらい人間になったように思えて恥ずかしくなった。


「わ、私は……最後に彼と会った日に、まさか別れを告げられるとは、夢にも思っていませんでした。それどころか、プロポーズされるんじゃないかと一人で有頂天になっていたんです。ところが、正反対だったので……ここ数か月、ずっと心に引っかかっていて、忘れられなかったんです。それが先日偶然に沢木さんに街中でお会いして、桜井さんの訃報を知って……その機会に、どうしても知りたいと思ったんです」


「……そうですか」


「それで、その、お墓を教えていただければ、一度お花を上げに……」


「墓は、ないんです」


「え?」


「遺言で。墓は作らないでほしいってことで」


「では、遺骨は? どこかのお寺ですか?」


「いや、たぶん、あの人が持ってるはず」


「あの人、とは?」


「彼の……夫人です」


「えっ?」


「奥さんですよ、ソウスケの」


「……?」


 おく、さん?


 ユカの思考が停止する。なに? ふじん? おくさん? いつ、そんなひとを?


「ああ、これは誤解させてもうしわけない」


 大友は苦笑する。


「あなたと付き合っていた時は、もちろん彼は独身でしたよ。あなたをだましていたわけじゃないですから、そこは彼の名誉のために断っておきます」


「え? では? いつ彼は……」


「会社を辞めて、海辺の家に移ってすぐに。もっとも、式を挙げたわけでも、ひとに知らせたわけでもなかったですが。彼らの希望で、ひっそりとね。他人で知っていたのは、私と、相手のかたの証人になったかただけかな。役所でね、届を出して、その海辺の家でささやかなお祝いを四人だけでしたんですよ」


「は……?」


 ユカにはわけがわからない。


 あの当時、ユカは二股をかけられていた、ということだろうか?


 あんなに仕事が忙しいと、彼は言っていたのに? 何度も、仕事のためにデートをキャンセルされたのに? 仕事だと言って、別の女と会っていて、その女にはすべてを伝えていて、そして私と別れた後に結婚したというの?




 混乱のあまり目が左右にせわしなく動くユカを見て、大友はまた苦笑して付け加える。


「あなたと付き合いながら、その人とも付き合っていたわけじゃないです。あいつは、そんな器用なことはできない男だった」


「で、は、一体……?」


「昔からの知り合いと結婚したというだけです。私も知っているひとで、もうずっと、学生時代からの知り合いだったんですよ」


「学生のころから……?」


「ええ。あなたも知ってるはずだ」


「は?」


「彼女のことを」


「ええ?」


「神永さんです」


「ええ?」


「神永シホさんですよ。もっとも、今はもう桜井シホさんですね。あなたと同じ会社だったでしょう? いや、それ以上に彼女のことはよくご存じだったはずだ」



 大友は責めるではなく、探るでもなく、軽蔑するでもなく、ただまっすぐにユカを見つめてそう告げた。

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