結婚
第4話
ユカがソウスケの代わりに選んだ男には、長年付き合っていた恋人がいたらしい。
四、五年の付き合いがある、その男の交友関係で知らない者はいない恋人。
ユカはその男に、相手と完全に手を切らなければ、あなたとの未来はまったく考えられないと告げた。その結果、男は恋人ときっぱりと別れてユカを取った。
彼はなんでもユカの言いなりだった。
行きたいところにはどこにでも連れて行ってくれるし、贈り物も気前よくたくさんしてくれる。ユカの美しさを賛美し、彼女の愛を得るためならば何でもすると繰り返し口にした。
会社の取引先の、輸入会社の二代目。派手な外車を数台乗り回し、流行に敏感ではやりのレストランや遊び場をよく知っている。そのぶん、仕事にかける熱意はあまりなさそうだ。ソウスケのように自らの実力とたゆまない努力でのし上がってゆくタイプとは違い、親の敷いたレールの上をちゃっかりと確実に進んで行くタイプ。
ソウスケがいなくなって五か月後、ユカはこの男と婚約にこぎつけた。
退職願を出し、後輩に引継ぎをしてユカは結婚準備のために会社を辞めた。
プロポーズは夜景を見下ろせるホテルの最上階の展望レストラン。
三・五カラットのFクラスのダイアモンドを婚約指輪にもらった。
男の両親に気に入られ、もちろん、ユカの両親も末っ子のユカの婚約をとても喜んでくれた。
結婚式場を二人で下見に行き、プランナーと打ち合わせを進め、ウェディングドレスも新婚旅行も新居も、着々と決定していった。
羨ましがらせ悔しがらせたい女たちには、嫌なやつもそうでないやつも思いつくだけ全員へ招待状を送りつけた。
婚約から二か月後。
今一番人気のあるチャペルで式を挙げ、男の交友関係から人気のある有名若手歌手を呼び一曲披露してもらい、一番高いホテルで豪華な披露宴を、予約の難しいレストランでおしゃれな二次会を開いた。
新婚旅行はメキシコのカンクン。八日間の旅行から戻り、夫の両親からプレゼントされた一等地に建つ新居のタワーマンションの上階の一室に帰った。
ユカは新居のリビングのソファに身を沈めてくすっと笑った。
思い切り傲慢な、勝ち誇った笑み。
やっぱり、ただのサラリーマンよりは羨まれるもの。
私は勝ったのよ。やり遂げたの。
ついに、自分の望むようにしたのよ。
最初の一か月は、わけがわからないままに過ぎていった。
掃除や洗濯はハウスキーパーを雇ったからいいとして、夫の両親への挨拶や親戚とのお茶会、お祝い返しやお礼状の送付、役所の手続きなど、やるべきことに追われた。
三ヶ月が経つ頃には、夫に対する愛情が深まるよりも、だんだんと憎しみが芽生え始めてきた。
突然夜に、会社の同僚や後輩を連れて帰ってくる。寿司やピザを出前で頼み、遅くまで酒盛りをする。
文句を言ったところ、付き合いだと言って飲み歩いて、毎晩帰りが遅い。
別に早く帰ってこなくてもいいから、今夜は外で食べてくるとか何時頃帰るとか、そういう連絡は入れてほしい。
食事はもっぱらデパ地下のゴージャスなお惣菜を出しているけれど、それをお皿にキレイ盛って出すと、あれが食べたい、これが食べたいとテーブルの上に乗っていないものを食べたがる。基本的に夫はマザコンなんだと思う。自分の母親が作る料理がどんなに手が込んでいてどんなにおいしいのか、デパ地下の総菜で夕食を食べながら延々と自慢する。
息子から食卓について話を聞いているのか、
休日になると動物園のクマのようにソファでごろごろして、何も言わなければ一日のほとんどはそこから動かない。だんだん隙を見せるようになってきた。
だらしない姿を見ると、本気で殺意が芽生えてきそうになる。見た目だけが取り柄だったのに。結婚前のおしゃれなお店に連れて行ってくれた時のような、気合の入った格好はしなくなった。外に食事にったり、飲みにつれて行ってくれることもなくなった。
結婚してからは毎日の家事の苦労をねぎらうでもなく、プレゼントも全くしてくれなくなった。
だらしない姿を平気で見せるようになった。小言を言えば結婚前は正座して謝ってきてご機嫌を取ろうと必死になっていたのに、今は面倒そうに嫌そうに顔をしかめ、別の部屋にすごすごと逃げてしまう。
「結婚式」はユカにとって人生最大の晴れ舞台だった。いつ、どこで、相手はどんな職業でどんな容姿で、どんな家柄か。その夫と並んでいているのを見てそれだけ多くの女たちが羨ましがるのか。自分はその場で、どれだけ美しく、輝けるのか。
しかし、「結婚式」の先には「結婚」がある。「結婚式」が一度きりのイベントであれば、そのあとにはずっと続く「結婚」が待っている。
こんなはずではなかった。これでは普通のサラリーマンを選んでも、大差なかったかもしれない。
いいえ、経済的にははるかに恵まれている。
夫は、夫になった男は、ただのつまらない平凡な男に変わりはないけれど、お金があるだけましだった。
愛など最初の数か月で冷めるものだと割り切っていたつもりだった。冷めていくよりも初めからないほうが期待しないし、絶望もないからいいと思っていた。しかも、無理やり結婚させられたわけではなく、自らの意思でしたのだ。
なんのために?
—―周りの女たちの、羨み、悔しがる顔が見たかったがために?
それだけのために?
流行のスーツに高価なハイヒールや腕時計。すてきなネックレスや指輪やイヤリングをつけながら、副社長の傍らで取引先を回る。華やかで目立つ職場で目まぐるしく働いていた日々は、今の淡々とした地味な毎日よりはるかにまし……いいえ、雲泥の差だった。
女たちからは嫉妬と羨望を、男たちからは好意や欲望を向けられた、あの充実した日々。
今は昼間は、広い家にひとり。なにもねぎらわず、褒めず、相変わらず極楽とんぼで飲み歩いて遊び歩いている、家ではだらしない夫がかろうじて一日の数時間だけ一緒にいる。
私が、この私が選んであげたのに。
半年が過ぎたころには、夫なんてもう早く死んでしまえばいいと思うようになっていた。
そしてユカはそのころになるとうすうす気づいてくる。
彼女は知らないうちに、夫とあの男を比べている。
あの男。
突然にユカを捨ててどこかへ消えてしまった。桜井ソウスケ。
夫が勝てるとすれば、財力くらいだ。しかも、親の財産。
悔しいが、本当にそれくらいだ。
だから無意識に比べるたびに、イライラしてくる。
私は……
私は、男たちにちやほやとされているうちに結婚しようと決めていた。
まだ若く美しい、もったいないといわれるうちに。
女としての魅力も価値も絶頂期に、結婚したかったのだ。
だから望みをかなえた。
多くの女たちに羨ましいと言わせることに成功した。
あの男は、私の人生唯一にして最大の汚点だ。
唯一、思い通りにならなかった男。
だからこそ、忘れられないのかもしれない。
私には落ち度なんて、なかったはず。
そう、悪いのは、あの男よ。
結婚して十か月がたったころ。
いろいろな習い事をして一週間の予定を埋め、暇を持た余して夫との生活にもうんざりし始めていたころ。
ユカは街中で偶然にも、沢木にばったり会った。
都市銀行の店舗前の歩道で、ユカは沢木と会釈しあう。
「ユカちゃん、お久しぶり。ご結婚されたって聞いたよ。おめでとうございます。すっかり若奥様って感じだね」
相変わらず人当たりの良い昔の彼氏の同僚に、ユカは笑顔で答える。
「ありがとうございます。沢木さんはお元気でしたか?」
「ええ、ボチボチやってますよ。あ、そういえばあいつの噂、聞いたんだけど……もう関係ないかな?」
「あいつって……」
「ソウスケだよ。桜井ソウスケ」
ユカの瞳孔がいくぶん大きくなった。
「噂って、どんな噂なんですか?」
「いやそれがね……」
沢木は一瞬だけ目をそらせ、躊躇を見せる。それからユカに向いて、一段声を潜めてゆっくり、静かに言った。
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