その女

第3話

上司から用事を言付かって営業部へ行くと、男性社員たちの視線は自然とユカに注がれる。


 男たちから見られることには抵抗はない。むしろ、見られることは当たり前だと思っている。その一方で、その場にいる女たちの空気がこわばる気配も感じる。



 営業部の女たちは全員、地味な制服に身を包んでいる。画一化され没個性的な彼女たちの中に、華やかな洗練されたスーツ姿の花形秘書が入ってくれば、その場の生態系は瞬時に混乱をきたしてしまう。カモの群れの中に、白鳥が降り立ったみたいな。


 彼女たちが制服を着るのは義務であり、ユカが華やかで美しく着飾るのもまた義務である。営業部の女たちは明らかにユカを歓迎してはいないが、男たちは歓迎している。

 ちくちくと刺さる妬みや嫌悪の視線をものともせず、ユカは姿勢を正し美しい所作を保ち平静を装う。



 嫌悪の視線の中でも、ユカはひときわ鋭い憎悪の新線を感じる。


 いつものことだが、本当にうっとうしい。レーザーメスのようなむき出しの激しい憎悪。その視線の中には、嫉妬も羨望もみじんも混じっていない。ただ単なる憎しみと軽蔑と、怒りだけが混じっている。




 またか、とユカは心の中でうんざりしてため息をつく。


 あの女、いつまでたってもああして、私のことを恨み続けるつもりかしら?


 彼女には、何の関係もないくせに。




 二宮アオイ。


 ユカより一つ下。社内でユカをみかけると、彼女はいつもそういう視線を向けてくるのだ。



 アオイのユカに対する憎悪は、半年前から始まった。


 それ以前は、お互いの存在さえ知らずにいた。



 憎悪の視線を受けることになったきっかけ。


 それは……



 ユカは営業部長の席の前のデスクを一瞥した。


 そしてそこに誰も座っていないことを確認して、安堵のため息をつく。机の主は、どこかに離席しているようだ。もっとも、席にいたとしても、その人物が彼女を睨んでくるとか、ユカが営業部に来てもその存在に反応するとか意識することとかも、一度だってないのだけれど。



 そう。


 アオイとは違って、ユカには何の関心も示さない女。


 その女は。



「おおぃ、誰か、神永さんどこに行ったか知ってるかぁ? 資料の場所がわからなくて」


 営業部長が声を張り上げる。ユカはその名前にぴくりと反応する。


 若い女子社員の一人がくすりと苦笑した。


「いやだ部長、神永さんは退職されたでしょう?」


 すると営業部長は右手で額をピタリと叩いて目をつぶって顔をしかめた。


「あー! そうか、そうだった! いや……彼女がいないなんて、まだ慣れないなぁ。まったく、ウチの部署にとって大きな痛手だよ」


 ユカはたまたま近くにいた顔見知りの男性社員にさりげなくこっそりと訊ねた。


「ねぇ、神永さん、退職なさったの?」


「ああ? うん、一週間くらい前だったかな。身内のかたが、ご病気で。看病か介護かをするらしく。ほんと、あの人がいなくなるって、ウチの部署にとってマジ大打撃なんだよね」




 へぇ、とユカは小さく頷いた。


 退職したのか。


 だからユカを睨んでくる二宮アオイの視線が、あんなにも鋭いのか。




 神永シホが、退職したから……




 ヒールの音を軽快に営業部を出ると、ユカはくすりと鼻で笑った。


 介護ですって? つくづく、運の悪い女。




 神永シホは入社二十年くらいの事務職だった。


 四十を超えても独身で、ふうわりとしていた。


 上昇志向も結婚退職願望もないようで、同期の男性社員が管理職に出世して同期の女性社員がはるか昔に結婚退職しても、事務職のままのんびりと構えていた。



 入社当時に彼女のことを知ったユカは、思い切りバカにしていた。


 うそでしょう? キャリアを目指すわけでもなく、毎日コピーとお茶くみと資料整理と。雑用だけで終わる一日を、四半世紀近く続けているなんて。



 シホは結婚していないせいか、生活感がなく年齢の割には若く見えた。


 若作りしているわけではないし服装が派手だったり流行の格好をしているわけではないけれど、黒目勝ちの大きな目に小さな顔で実年齢よりは十歳ほどは若く見えた。浮いた話はただの噂でも無くて、仕事ぶりはどんな単純作業でも迅速で丁寧だった。


 手抜きはせず、周りの評価はすこぶるよい。年増の女は口うるさく性格も難しいことが多いために若い女性社員には煙たがられるが、シホは信頼され、慕われていた。


 ユカは本能的にシホに対して敵意と反感を抱いた。理由なんてない。ただ、気に入らなかった。




 自分とは正反対の女。


 競争心も虚栄心もなく、いかにも地道に善良に生きている。誰にでも親切で、当たり障りない。そういう偽善的な女は、見ているとイライラしてきていじめたくなる。



 ユカはシホに敵意を向けて冷たく当たった。


 社内で見かけると明らかな憐れみと蔑みの視線を向けた。女として終わっていると人前で批評した。なぜそんなことをするのか? 


 明確な理由はないが、ただ、嫌いなのだ。嫌いなものは嫌い。ただそれだけだ。




「あんた、最悪だわ」


 ある日、社員食堂の列に並んでいるときに誰かが言った。聞きなれない女の声。「あんた」とは、ユカに向けられていたように思う。気のせいではない。たしかに、そう言った。


 ユカは周りを見回した。ユカと目が合う人物は見当たらない。


 しかし……




 今思えば、すぐ後ろに並んでいたのは、二宮アオイだった。あれは確かに彼女が、ユカに向かって言ったのだ。


 あの時はわからなかったけど……


 それ以来、彼女のさすような視線を感じるようになったのだ。




 なぜアオイがユカを睨むのか。


 ユカがシホを嫌うのには理由はなかったのだが、アオイがユカを嫌うのには正当な理由があった。



 アオイはシホを慕っていた。


 先輩としても人間としても、尊敬していたのだ。



 シホは男女関係なく、誰にでも好かれていた。


 彼女が後輩たちに無理や意地悪を言っているところは、誰も見たことがなかったし実際にされたことのある人も皆無だった。


 帰国子女のアオイは文化的なギャップからか、日本の社会や会社になじめずに、入社以来数々の失敗を繰り返してきた。そんな彼女を、シホは根気よく寛容に面倒を見続けた。新入社員の帰国子女と、入社二十年のベテラン社員。母と娘ほども年の違う彼女たちは、とても仲が良かったようだ。


 海外生活の長かったアオイは自立心が高く、同年代は精神的に幼く思えた。だからシホになついたのもそう不思議はない。噂では、アオイはシホの家に泊まりに行ったり、一緒に出掛けたりして、公私ともに仲良くしていたらしい。



 だからアオイがユカを憎むのは当然のことだった。


 ユカはさしたる理由もなくシホを馬鹿にしていたばかりか、シホの大切なものを奪ったのだから。




 アオイはシホをいじめるユカが大嫌いだった。自分の容姿を鼻にかけて、ひとを見下す意地の悪い女はアオイの最も嫌いなタイプの女だ。アオイには、ユカの本性がよくわかる。


 そういう女には、反撃しなければ気が済まない。なにもかもが思い通りにならないということを、教えてやらないと気が済まない。




 すぐ後ろから「あんた、最悪だわ」と言っておきながらそ知らぬふりを通すアオイは、はっきり言って手ごわい。


 ユカのような女には、絶対に服従しないタイプだ。ユカのように女のヒエラルキーの頂点にいるタイプにも、苦手な女は存在する。キレると何をするかわからない、自分の常識の範疇にはいない女。


 アオイは十五年間ボストンで暮らしていた。会社の取引先の銀行の頭取の娘で、いわばコネ入社だ。日本人として当然の常識や忖度そんたくの機微が全く理解できないため、言っても通じないことが多々ある。


 そういうことで上司も手を焼いていた。うまく自分の意見を表現できないときは英語で話し出す。人の和とか、自分を抑えてまで他者と合わせるとか、言わなくてもわかるでしょうとかに納得がいかず、上司にも平気で意見する。


 しかし、取引先の銀行の頭取の令嬢であるために、上司たちは腫れ物に触るようにしか扱えなかったのだ。


 そんな厄介な女は目障りなだけで、面倒だからユカも相手にはしたくなかった。




 しかしアオイはユカが大嫌いだった。めらめらとした憎悪をむき出しで向けてきた。


 尊敬するシホをさげすむ、そんなユカが憎かったからだった。




 しかし、アオイがいくら腹を立てても、シホは穏やかに笑って言った。


「いいのよ、気にしてないから。そのうち飽きると思うから、ほうっておきましょう」


 しかし、ユカのシホに対する攻撃は、その後さらにエスカレートすることになった。




 原因は、桜井ソウスケ。



 ユカのことを捨てた男。



 ユカはシホの存在が邪魔で仕方がなかった。


 それというのも、ユカが絶対にモノにすると決めていたソウスケが、ほかの誰でもない、あの神永シホを慕っていると気づいたからだった。



 あのオバサン、自分のトシを知らないのかしら?


 いったい、いくつ違うと思ってるのよ、ずうずうしい。




 桜井ソウスケがユカの会社の受付に現れるのは、たんに仕事のためだけだはなかった。


 シホをロビーに呼び出してうれし気に話しかけたり、時々一緒にランチにも出かけているようだった。


 それも、彼のほうが好意を持っているのは誰の目にも明らかだったし、彼もそれを隠そうという気はないらしかった。




「あれは桜井さんが、シホさんにいろいろなアドバイスをもらいに来ているのよ」と、女子社員たちに二人の関係を聞かれたアオイが断言したことにより、周りはそいいうものかと納得した。以前、営業の補佐をシホがした時に、たまたま他社の担当者がソウスケだった。


 一緒に仕事をしたことにより、シホを尊敬し、慕っているのだと。誰もそれ以上、変な勘繰りを入れることはなかった。ユカ以外には。



 ユカはあらゆる手を使い、ソウスケがシホに会えないように妨害を始めた。


 そして策を弄して間に割って入りあらゆる手を使って邪魔をして、ついにソウスケを奪い取ったのだ。



 しかし、シホは悲しむことも落ち込むこともなく、ソウスケがユカの恋人となった後も、普段通りのふんわりした雰囲気で変わった様子はまったく見せなかった。


 ユカには二人の仲がどのようなもので、どれほどの深さだったのかはよくわからなかった。もしかすると、彼の一方的な淡い好意で、シホはそれほどソウスケのことを思っていなかったのかもしれなかった。


 どんなものにせよ、ユカがすこしちょっかいを出しただけですぐに壊れるほどの程度だった、そういうことだ。


 ユカにとっては、どうでもいいことだった。


 同じ女としてみれば、シホに対して、若さも美しさも魅力も、負ける気はしなかった。


 現に、彼は若く美しい彼女になびいた。


 そしてシホからは離れていったのだ。




 とても簡単だった。


 そう、私が、あんなオバサンに負けるわけはないのだ。



 それ以来、社内でユカを見かけるたびに、シホではなくアオイの憎しみがますます強くなっていったのだった。



 どう思われようと、どうでもいいわ。


 憎まれようが、蔑まれようが、痛くもかゆくもない。


 ユカ自身の未来のためならば、二宮アオイに睨まれるくらいかまわない。




—―未来の幸せ。


 そう。


 ユカはふと笑った。


 幸せ?




 今となっては、ふりだしだ。


 しかしまだ、実現の可能性は高い。


 ただ、、夫となる男が変わるだけ。


 いなくなった男にいつまでもかまけている時間はない。


 何としても今年中に豪華な結婚式を挙げて、周りの女たちの羨望の的にならなくてはならない。


 あの子やあの子、あいつにも負けられない。


 あの女にも、ああ、去年勝ち誇ったように結婚退職した、あの先輩も招くのよ。彼女の式よりも、もっと格上の式を上げないといけないわ。




 愛なんてなくてもいい。


 どうせ恋愛結婚しても、相手への関心なんて、もって三年でしょう。


 夫は金を稼いできてくれればいい。


 経済的な心配など何もしなくていい結婚ができれば、それでいい。


 私が幸せに暮らせるならば、それで。

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