失踪
第2話
翌日、ユカは会社を休んだ。
レストランに置き去りにされた後、彼女はタクシーで帰宅した。
あまりの衝撃に寝付くこともできず、一晩中悶々とした。
何度電話してもメッセージを送っても、彼は答えてはくれなかった。
ラインのメッセージは、既読にさえならないまま、翌朝の十時過ぎにはIDが消えて電話も通じなくなった。
まさか、本当に?
いてもたってもいられずに、昼前に彼の住んでいたアパートに行ってみた。ちょうど不動産屋の社員がいて、彼の部屋が解約されたことを教えてくれた。
「引っ越しはもう一週間くらい前に終わってるみたいでしたよ。荷物はなにもありませんでした」と不動産屋が言った。
わけがわからない。
何が起こったの?
なぜ突然、こんなことになるの?
契約駐車場には、確かに彼の白いX5は無かった。
今までの人生において、こんなことは起こりえなかった。
より良い条件の相手が現れて彼女が男を捨てたことはあっても、捨てられたことなど一度もなかった。
いつだって、彼女には一方的な選択権が与えられていた。
今朝は、充実感と幸福感に包まれて目を覚ましていたはずだった。左手の薬指にはめられたプラチナ台のラウンドブリリアンカットの、FかVVSIレベルのダイアモンドを見せびらかして、職場の後輩たちに羨望のまなざしを向けられ、輪の中心で祝福されて微笑む自分を想像していた。
それなのに……
いくら考えても、どうして昨夜のようなことになったのかさっぱりわからない。
彼はいったい、どこに行ってしまったのだろうか。
夕方、彼の会社の同僚でユカもよく知っている沢木という男にメッセージを送り、その会社の近くのカフェに呼び出した。
沢木はまたすぐ会社に戻らなければならないので小一時間ほどなら、とユカの待つカフェにやってきた。
「ユカちゃん、久しぶり。なに? 訊きたいことって。あいつが急にやめたから、いま後処理が大変でさぁ」
いくぶん疲れた感じで沢木は苦笑しながら席に着いた。
「お久しぶりですね。彼、昨日で会社を辞めたって本当なんですか?」
ユカがお辞儀をして首を傾げると、沢木はおや、と意外そうな表情をした。
「本当だよ。一週間くらい前に、いきなり言い出して。責任感ないやつじゃないのにさ。引継ぎとかもあるし、みんなで説得しようとしたんだけどダメでさ。あり得ないよね。一身上の都合だってだけ言って。俺にも理由は教えてくれなかったな。直属の上司にだけはなんか本当の理由を言ったみたいで……余程のことなのかもな。すんなりと認められたよ。ユカちゃんも理由は知らないの?」
「ええ、わたしにもわからないんです」
「そっかぁ。なんか、いつも通り淡々としてたから、どんな理由なのかさっぱり見当もつかないけど。おかげでこっちは引継ぎがめっちゃ大変だよ。なにもかも捨てて、あいつ……何考えてるんだろうね」
「私も昨夜、いきなり知らされたんです。アパートもスマホも解約して、車も売っちゃったって。それで昨夜別れた後から連絡が取れないんです」
沢木は目を丸く見開いて「ありゃ」と言った。
「ううーん、それじゃぁ、本当だったんだな……」
「何がですか?」
「いや……あいつね、今あるものはすべて手放すつもりだって、言ってたんだよ。きみのことも入ってたか」
なんの連絡手段も残さずに去るなんて、失踪じゃないの?
何がしたいの? 輝かしい未来をすてたの? 何もかもを放り出して、何なの?
だんだん、怒りがまたこみあげてくる。昨夜のぼんやりとしたそれではなく、ふつふつと激しい怒り。
殺してやりたい。私の輝かしい人生設計を、台無しにするなんて。
上司の娘かどこかの社長令嬢とか、あるいは芸能人とかモデルの女とかでもできたのだろうか? そういう、ワガママな女にユカとは別れてと言われたとか?
でも、あの男の性格からして、ほかに女ができたからといって、何もかもをリセットするまで手の込んだことはしなと思う。彼にとっては女よりも仕事のほうが大切だと思うからだ。
しかし万が一、ユカ以外に誰かいるとすれば、彼ならばはっきりと事実を告げてくるに違いない。もっとも仕事が忙しすぎて、ほかに女など作っている暇はなかったはずだ。他の女の影があれば、どんな小さな兆候もユカが見逃すはずはない。
会社を辞めたとも言っていたわね……
本当に、いくら考えてもあまりにも突然すぎてわからない。
ユカはマンションに戻ってからもずっと考え込んでいた。
何かの悪い冗談にしか思えない。
結局、何の収穫もなかった。
仲の良かった同僚でさえ、何も聞いてないらしかった。もう、手詰まりだった。
駅からの帰り道、彼女は自嘲した。
「――バカらしい。何なのよ、あいつ」
私が何をしたっていうのよ?
突然消えるような男だったなんて、信じられない。
借金でもあったのかしら?
何か犯罪に手を染めたのかも?
いずれにせよ、言えないようなことには違いない。
バカじゃないの?
ほんっとにバカらしい。
あんな奴、死ねばいい。
望み通り、忘れてやろうじゃないの。
あんたよりも条件のいい男なんて、いくらでもいるわ。
いらいらしながらバッグからスマホを取り出し、ユカはある男にメッセージを送る。
『ひさしぶり~。元気? 今夜、ひま?』
二分もたたずに既読になり、「うれしい、きみのためなら暇じゃなくても時間は作る、会いたい」というメッセージが返ってくる。
ユカは鼻で笑う。
ふん、こんなものよ。私がちょっと誘えば、こうやって喜んですぐに飛びついてくる男なんてたくさんいるのよ。
翌日、会社では後輩が好奇心丸出しでユカを待ち構えていた。
「先ぱぁい、あまりの幸せに、昨日はお祝いに休んでお二人で甘々に過ごしちゃったとかですか?」
ユカは極力、平常心を装って、口元だけで涼しく微笑んだ。
「それがねぇ、おとといの夜は、彼に会いに行けなかったの」
ええぇ? と後輩は目を丸くした。その目には悪意がキラキラと光っていることに気づいたけれど気づいていないふりのまま、ユカは残念そうにため息をついて続ける。
「実はね、私がプロポーズされるかもしれないって言ったら、絶対に受けないでくれって言う人がいて。出かけようとしたらその人が外で待っていて、行かせないって言って車に乗せてさらわれちゃったのよ」
「ス、ストーカーですか?」
「いえ、三度ほど一緒に食事したことのある人で、ひとめぼれしたって口説いてきていた人よ。うちの取引先のとある会社の御曹司で、自分のほうがふさわしいから彼とは別れてくれって、ずっと言われてたの」
「うわぁ、なんですかそれ。ドラマみたい! それで、どうなったんですか?」
「うーん、結局そのひとと、海辺で一晩一緒に過ごしちゃった。その人のほうが条件いいし……その人と、付き合うことになったわ」
実際、昨日の夕方に呼びつけた男は、そういう素性だった。そして昨夜はその男のメルセデスのカブリオレで海辺のレストランに行って、そこで口説かれた。
真実をすべて述べたわけではないが、話の流れとしては、嘘はついていない。
まさか、プロポーズされると思って会いに行ったら捨てられたなんて、絶対に言えるわけがない。こういう時のために、思わせぶりな態度を示してスペアを持っておいてよかったと思う。
ユカにとって、プライドを保つことは死よりも大切なことだ。真実をすべて述べないのは、嘘をついていることにはならない。後輩たちに少しでも見下されたら、今まで築いてきたものがすべて無駄になる。
「すごーい。さすが先輩、御曹司に略奪されちゃったんですね。じゃあ、彼氏さんはどうなるんですかぁ?」
ユカはため息交じりにマスカラでぱっちりと上げた目元に陰りを落とす。
「そうなの。だからね……昨日、彼を探していたのよ。仕事を辞めて、住んでいるところも引き払って、スマホも解約して姿を消してしまったから」
「えええええ? マジですか?」
後輩は大げさに驚いて目をむいた。
「先輩に振られたショックで?」
「どうなのかな。連絡が取れないから、確かめようもなくて。彼と仲のいい同僚に訊いたけど、何も知らなかったわ」
「せ、先輩って……魔性だわ」
そう思わせておけばいい。彼は、ユカに捨てられたせいでいなくなったのだ。
どうせもう二度と会わないと言っていたから、面目を保つために利用させてもらっても構わないはずだわ。
彼が会社を辞めたことは、取引先の一つであるユカの勤める会社にもいずれ知れ渡るだろう。ユカはその時のために、自分の保身を第一に考えたのだ。
彼はユカを御曹司に奪われて、そのショックで失踪したということにすればいい。
それくらい当然だと思う。
私に恥をかかせたんだから。
この、私に。
昨日の午後。ユカの私物は本当に宅急便で送りつけられてきた。箱の中には、ユカが彼にプレゼントしたネクタイやタイピン、カフスなども入れられていた。何とも言えない胸の苦しさに叫びそうになる。すべてを否定された感じがした。カッとなって箱を蹴りつけた。
本当に、何様なの?
こんなことして……私が何をしたっていうのよ?
生まれて初めての屈辱だった。
自分から捨てることはあっても、捨てられることは彼女の人生においてありないはずだ。
幸い、単にユカがプロポーズを期待していたのに逆にふられたという事実だけではない。
それだけであったならば、ユカはここぞとばかりに彼女を嫌う周りの女たちに、捨てられた女として面白おかしく噂されるだろう。
しかし彼が失踪したということが、真実をすべて明るみにしないユカの話にかえっていつわりの真実味を脚色してくれている。
彼は御曹司と天秤にかけられて、ユカに捨てられたために失踪した。
それでいい。ユカは同情され、女としての価値が上がる。後輩たちに陰でバカにされることもない。
こうなったら……あの男よりもさらに条件のいい男を選んでその男のせいであの男を捨てたことにすればいい。
これでユカはバカにされるどころか、つくづく運のいい女だと妬まれることになる。羨まれ、妬まれる。
それこそが、ユカにとっては一番重要なことなのだ。
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