Diamond

しえる

その夜

第1話

「予感がするのよ。きっと、今夜だわ」




 昼休みの会社の女子トイレで、鏡の中の自分の姿にうっとりと見入りながら、ユカは笑みを浮かべて言った。


「ついに、ですかぁ? きゃあ!」


 隣の鏡の前でグロスを塗りなおしている後輩が、鏡越しに丸くした目をぱちぱちと瞬かせてユカを見た。




 薄めの唇の右端を上げて、嫣然とユカは微笑んだ。


 もともと造形に恵まれているうえに、若さと華やかさにゆるぎない自信が加わり、彼女はとても美しく見える。


 高慢に、美しく。


 

 大学を卒業して三年。


 四つ年上の先輩が半年前に結婚退職してからは、副社長の第二秘書として彼女も中堅になった。


 南国の濃いピンク色の花のように華やかな美貌のユカは、社内外でも知る人ぞ知る美女の一人だ。上司からは好条件の結婚話をたくさん持ちかけられるが、今はまだ仕事が楽しいので、などと濁してすべてやんわりと断っている。


 本当は、仕事がしたいから断っているのではない。


 彼女には、本命の恋人がいるのだ。




「ついに彼氏さんから……」


 後輩はいくぶん大げさにはしゃいでみせる。ユカを不機嫌にすればどんな目に遭わせられるか、彼女はよく心得ている。


 ユカ本人には後輩が打算であろうが従順であろうが、あまり気にすることではない。自分の損害になりさえしなければ、無難な引き立て役で攻撃対象とはみなさないのだ。




 周囲の女たちは、ユカのことが本当は嫌いだ。しかし、彼女の機嫌を損ねることを恐れていた。


 もしも逆鱗に触れれば、どんな目に遭うのかもよく見知っていた。女の世界には、幼稚園生には幼稚園生の、中学生には中学生の、職場には職場の、ママ友にはママ友の、老人には老人の、暗黙の細やかなルールとタブーと目には見えないが確実なヒエラルキーが存在している。


 たいていのそれらは、男からはよくわからない複雑怪奇なものなので、「くだらない」と彼らはひとことで済ませる。しかし女たち—―そこに組されることを不本意に思うものたちも含めて—―には、社会で生きていくうえには望むと望まざるとにかかわらず、完全に無視できないものでもある。




 容姿に優れ、あるいは財力や権力に恵まれ、それを自他ともに認め認められ、強気で発言力が強く、時に冷酷で残酷。


 そんな女たちが常にヒエラルキーの頂点を争うのだ。他に抜きんでた頂点の女を女王として君臨させておくのは、彼女に腹を見せて寝そべり服従を誓うとりまきたちばかりではない。


 そんなヒエラルキーなどどうでもいい、勝手に勝つだの負けるだの言っていればいいのよ、と冷めた目で見る女たちの無関心もそれを許していることになる。前者は一緒にいれば安全圏で害をこうむることはないと思っていて、後者は敵に回すと面倒だから、と思っている。


 べつに、頂点で悦に入っている女を恐れているわけではない。だがそういう女を相手にするのは、時間と労力の無駄なのだと悟っているのだ。




 自己中心的な女は、頂点に立ちたがる。


 そここそが、自分にはふさわしい位置だと思っている。


 そういう女は周囲への攻撃性が強い。自分に逆らうものはとことん攻撃する。


 彼女に目をつけられたら最後、嫌な目に遭わされることは必須なのだ。


 とりまきも部外者たちも、そのことは十分によくわかっていた。



「ずっと私が行きたがっていた店を予約してくれたみたい」


 油とり紙で軽く小鼻をおさえる指先のネイルは、桜色から薄いグレイにグラデになっているフチあたりに、二、三個の大小のラインストーンが散りばめられた、ユカにしては地味目なデザインだ。



「今夜話があるから、会おう」と言われ、昨日の会社帰りに行きつけのサロンに無理を言って予約を入れた。やはり、ダイヤをもらってはめるとすれば、ネイルはおとなしめのほうが絶対に映えると思ったからだ。



 後輩は「きゃぁぁ」と媚びた声を上げてみせる。


「いいなぁ。彼氏さん、商社のヒトですよね。時々ウチの会社にもいらっしゃる……背の高いイケメンさん!」


 丁寧にパウダーブラシで化粧直しをしながら、ユカは鏡の中の自分の美貌に微笑んだ。


「まぁね、どこぞの御曹司ってわけじゃないのが、残念だけど。こればかりは、ね」


「いいじゃないですかぁ、それくらい! めちゃお似合いですしぃ、彼氏さん、まだ三十そこそこで、すでに役職目前らしいですよね。将来安泰じゃないですかぁ」


 ユカはふっと笑んだ。




 後輩の手前、余裕の表情を保っているのだが、あの男を手に入れるのは大変だった、と思う。


 初めて彼を会社のロビーで見かけた時、彼女は得も言われぬ焦燥感に胸が締め付けられた。



 あの男を、私のものにするわ。



 ひとめぼれ、というか――バーゲンで第一印象で絶対に手に入れると目を付けた、超お買い得な高級な一点物――そんな感じに似ていた。



 世の中に、「一流の大学」として認識されている大学の学位を持ち、海外のこれまた有名な大学でMBAを取得。噂では、彼の会社の上司たちばかりではなく、取引先の会社の重役たちもぜひ我が娘の婿に、と彼を狙っているという。



 彼自身の価値はもとより、多くの人々が欲することでさらに大きな付加価値によって、ユカの闘志は火をつけられたのだった。



 あの男はいずれ、海外支社勤務になる。数年日本を離れたのち、帰国したらあとは上り詰めるだけだ。頭がよく、品性も申し分ない。洗練されていて何よりも、女たちばかりではなくあらゆる人間を引き付ける魅力にあふれている。自分の知性をひけらかすこともなければ、他人を卑下することもない。


 きれいな、女好きのする顔立ちに、均整の取れた長身痩躯。



 彼を手に入れたら、ほかの女たちは羨み、悔しがるに違いない。



 幼いころから、ユカは手に入れたいものは必ず手に入れてきた。


 手に入らないのなら、泣きまねしたりうそをついたり、計略を巡らせて他者を陥れたりしてでも手に入れてきた。


 他人が自分を、自分の持ち物をうらやむ顔を、高いところから見下ろすのが好きだ。自分が優位に立ち特別な待遇を受け、格別良いものをあてがわれたり、自分の美しさをもてはやされることが大好きだ。自分にはそうされる価値がある。そうされるにふさわしい女であること、それがユカにとって人生で重きを置くことだった。



 定時で会社を出ると、ユカは急いで自分のマンションに帰り、シャワーを浴びて着替え、メイクをし直した。


 自室の鏡の中の自分をまっすぐに見つめ、ゆっくりと頷いた。




 完璧。


 どこからどう見ても、私はかわいくて、美しいわ。


 女連れの男たちだって、物欲しげに振り返ってくる。




 そして今夜、恋人からもらうダイアモンドの指輪が美しい薬指に輝けば、明日からしばらくは世界は彼女のために回るようになるのだ。




 そのレストランに到着したのは、待ち合わせの十分後だった。


 しかし彼からは待ち合わせの三分前に、少し遅れそうだとメッセージが送られてきていた。



 大通りから少し外れたその店は、まるで地中海のどこかの島のレストランのようだ。白い石造りの外観で、白っぽい石のタイルが敷きつめられた床のエントランス。大きな素焼きのツボがあちこちに置かれていて、濃いピンクのブーゲンビリアの木がその中から白壁に纏いつくように伸びている。


 シェフはオーナーがイタリアの四つ星ホテルから引き抜いてきた、若く才能のある人だと雑誌に書いてあった。


 本人曰く流行に敏感なユカは、予約がなかなか取れなくて周りの誰もがまだ訪れたことがないこの店に来てみたいと思っていた。本場イタリア料理の、どの地方のどんな料理かがわかるわけではない。ただ、話題の人気店に行った、という事実さえ自慢できればいいのだ。



 レセプションで予約があることと彼の苗字を伝えると、店内席を通り越して、中庭の青いLEDでライトアップされたプールに面した屋外の席に通された。黒い長エプロンの給仕がテーブルの上のキャンドルに火をともす。



 完璧だわ。


 ユカは微笑んだ。


 ゆらめくブルーの水面に反射する青いライトは、プールサイドの席の白いワンピース姿のユカを幻想的に美しく見せていることだろう。



 今夜は、私のための夜。


 そう、この素敵な場所でプロポーズされて、指輪をはめてもらうの。なんて私にふさわしいシチュエーションかしら。明日は会社で後輩たちが、私の指にはめられたダイアモンドをうっとりと眺めてうらやましがるだろう。


 涼しい笑顔で質問攻めにされている自分を想像して、ユカの自尊心と虚栄心が大いにくすぐられる。



「遅れてごめん」



 仕事帰りに直接来たらしく、彼は仕事用のスーツ姿のまま現れた。


 二十五分も遅れてきたら、普段ならばユカは怒って先に返ってしまっているところだ。カバンをテラコッタのタイルの上に置いて向かい側に座ると、彼は唇の両端を軽く引き上げた。少し申し訳なさそうなその困ったうすい笑みに、ユカは自分も遅れてきたことは謝らずにため息をついて許しを口にする。


「いいわ。許してあげる。ワインを選んで?」


「わかった」


 近づいてきた給仕からワインリストを受け取り、彼はあまり迷わずに辛口の白のスパークリングワインをボトルで注文した。そしてすでに彼が予約してあったコース料理の前菜が運ばれてくる。




 メニューを見てもよくわからないユカにとって、痒い所に手が届くこの男のそういうところは重宝だと思う。


 大企業の副社長の第二秘書をしていれば英語ぐらいはどうにかなるが、イタリア語の料理名と英語の料理説明表記は読むのが面倒だし、読めたところでそれが食べたいものかどうかはわからない。しかし、彼が注文する料理は外れたことがない。


すべてにおいて、洗練された申し分のないセンスの良さ。だからこそ、どこぞの御曹司でなくともセレブリティでなくとも許せるのだ。



 乾杯、とグラスを軽く合わせる。


 きっと、デザートの中に仕込まれるとか、あるいは食事の後に切り出されるわねと、ユカは予想する。


 だからこそ、余裕をもってその日あったことやうわさ話について、いつものように話し続ける。彼はいつものように淡い笑みを時々浮かべながら、ああとかそうとか、へぇ、と短く相槌を打って聞いている。いつもそうだ。ユカが他愛ない話をして、彼は聞き役に徹する。ユカはそれが嫌いではない。


 俺はどれだけ仕事ができるとか、どんないい大学を出ている、こんな車に乗っているとか、自慢話を誇大して話しまくるバカな男は、ほんとうにバカで中身がなく実は自信がないのだとユカは思っている。学生時代から、そういう男に合コンで出会うたびにいくら家柄がよくてもお金持ちの息子でも、彼女は心の底から彼らを軽蔑していた。



 女がする話が取り留めなくまとまりもポイントもないからと、論理性や要点を求めて批判してくる男はウザい。


 あるいは、それはきみが悪いとか、矛盾している、考え方が間違っている、視野が狭いとか言ってくる男も嫌だ。指摘や説教なんてしてほしいわけないじゃない? 


 女はそんな反応は求めていない。ただ、自分のことを話したいだけ。それがわからない男は、一緒にいる価値もない。




 キャンドルの蜜蝋が溶けて、揺らめくほのおにかすかに甘い香りが漂っている。


 おかしいわ。


 デザートが運ばれてきてジェラートを慎重にスプーンですくってみても、そのあとのエスプレッソをおそるおそる飲み干しても、何も入っていない。



 このあと、たとえば夜景のきれいなところへでも行って、そこでくれるのかしら? ひざまずいたりとかして?



 ユカは心の中で考えをめぐらす。


 もう、スーツの内ポケットの中から小さな箱が出てきて、彼女に差し出されてもいい頃合いなのに……



「……よ」



 はっと、顔を上げる。


「えっ?」


 思わず聞き返す。彼が言った言葉を、聞き逃してしまった。


 彼はじっと彼女を見た。そして、なんの感情も浮かべないまま先ほど彼女が聞き逃したであろう言葉を繰り返した。




「今夜で終わりだよ」




 ユカはもう一度「え?」と聞き返す。


「なに、が?」


 正直、何の話をしているのかわからなかった。


 彼は蜜蝋のキャンドルの炎を見つめながら静かに言った。




「この店、ずっと来たいって言ってただろう? 最後にかなえてやれてよかったよ。これが俺がキミにしてあげられる、最後のプレゼントだから」


「は?」


 ユカは目を見開く。まだ。状況が理解できていない。



 なんのはなし?



「俺たち、今日が最後だ。うちに置いてあったきみの服とかいろいろなものは、全部今朝、宅急便で送っておいたから。明日にはつくんじゃないかな」


「な、に……」


「明日で俺のアパート、解約なんだ。ああ、スマホも、明日からは通じなくなるよ。もし何か俺のものがあれば、処分してくれて構わないから。もう何も必要ないから」

「あの……よくわからないんだけど?」


 ユカは状況が把握できず、適切な答えを返せずに困惑する。


 しかし目の前に座る男は、いつもと全く変わらない淡々とした口調で語る。


「アパートとスマホだけじゃない、BMも売り払ったし、会社も今日で辞めてきた。それで、きみにもさよならをしてすべてが終わる。これで肩の荷が下りる。すべて片付いて、ほっとしたよ」


「……」


 ユカの美しい顔が驚愕と衝撃で固まる。この男、何を言ってるの? 頭がおかしくなったの? それとも、私をからかって、試してるの?



 彼の表情からは、それらのどれも読み取ることはできない。ユカがあと三十秒くらい固まっていたら、ぷっと噴き出して「うそだよ」と笑いだし、小さな箱を差し出すように、彼女はせつに祈った。しかし、三十秒経ってもそんなことは起こらなかった。



「な、なんの冗談なのよ?」


 動揺を隠しきれず、しかし極力冷静を装って探るように訊く。しかし彼は口元をへの字に曲げて首を傾けて言った。


「なにも冗談は言ってない。今言ったことは、すべてただの事実だけど」


「は? アパート、解約? 車、売って、会社、辞めた? それでどうするのよ?」


「どうしようと、もう二度と会うことはないから、きみには関係ない。知る必要なんて、ないだろ?」


「だからっ!」


 ユカはテーブルを両こぶしで叩いた。一応周囲を気にして見回してみたけれど、幸いにも彼らの会話の聞こえる範囲には誰もいなかった。一息ついて、彼女は声を押さえて言った。


「まさか……話があるって……このこと? 私と別れたいって、そういう話だった?」



 彼は手慣れた様子でステンレスのワインクーラーからボトルを取り出し、スパークリングワインを自分のグラスに注ぎながら淡々と答える。


「いや、別に、別れたいって、きみの許可を得たいわけじゃないから。何がどうでもとにかく、今夜が最後なんだよ。きみがなにか悪いことをしたってわけじゃない。俺の、一身上の都合ってやつなだけ」


「い、一身上の都合って、一体何なのよ? わけわかんないんだけど、何を勝手に決めてるわけ?」


 ユカの中に、だんだんと怒りがこみあがってくる。


 彼はグラスの中身を一気にのどに流し込んだ。グラスをテーブルに置くと、ふっと脱力した笑みを浮かべた。


「わかってくれる必要はみじんもない。なぁ、俺は明日から住むところも仕事も持ち物も、何もかもなくなるんだ。ホームレスの無職の男なんて、きみにとってはもう完全にかかわりたくない用なし・・・だろう?」



 その笑顔。


 女を魅了する、男の色香。目の前の男は、本当に魅力的だ。しかし、言ってることはまともではない。怒りがこみ上げてはいるが、実際はどうすることが最善なのか、ユカにはさっぱりわからない。



「て……転職するってこと? どこに引っ越すの? まさか……どこかに、ヘッドハンティングされたとか?」


「いや、だから、完全にホームレスの職無しだけど。次の仕事なんてないし、転職も考えていない」


「どうして……どうして私に、何の相談もしてくれなかったの?」


「逆に、どうして相談する必要がある? 俺の人生だ。きみにあれこれ仕切られたくない」


「だからっ、何なのよ? ちゃんとわかるように説明してよ!」


「わかってくれる必要はないって。もう俺のことは今日限り忘れてくれれば、それでいいんだよ。きみはきみで、自分が望むように生きてくれればいいんだ。俺もこれからは、俺の好きなように生きることに決めたんだ」


 彼は白い布ナプキンをふぁさりとテーブルの上に置いて立ち上がった。そんな仕草さえも洗練されて見える。



「明日、朝からいろいろと処分で忙しいから、もう行くよ。さっき言ったけど、車は売ったからもう送ってやれない。でも大丈夫だよな? 電話すれば喜んで来てくれる男が何人もいるだろう? じゃあ」




 まるでいつも通りにカバンを手に取ると、彼は颯爽とテーブルから離れていった。


「……」


 置き去りにされたユカは、まるでキツネにつままれたかのようにその去り行く後姿をぽかんと見つめたまま、途方に暮れた。

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