異邦人

R62

第1話 ひったくり犯

 この街の住人は煙草が嫌いで、歌と花が好きで、花柄の衣装も好きだった。


 街は朝からクラクションが絶え間なく鳴り響いていた。スモッグで澱んだ空の隙間からまだらな太陽光が靄をぼんやり照らし、昼になると一変し肌を痛めつけるような光線に全身を打たれる。気温は冬でも二〇度を下回らず、夏は三〇度を超える。


 女と出会ったのは、ちょうど雨季から乾季に変わる直前の、いつも通り暑い日だった。

 



 山崩れのような月初の仕事を終えたあと、スコールがやむのを二〇分ほど待って、オフィスの半地下駐輪場で待っていた同僚の原付の後ろに足早に乗り込んだ。薄暗い半地下にさえ濡れた路面から雨と混じりあった草木の匂いが立ち込めていた。近くの居酒屋で軽く飲む予定だったが、そのまま走り出した原付を運転する者は同僚ではなく、まったく知らない男だった。後ろから時折見える顎には数年剃ってない髭を生やし、骨が見えるほど異様に痩せほそった腕、コブだらけの指でスイカ味のキャメルの煙草を燻らせながら、片手でグリップを握っている。途中で降りる術を失い、私を乗せた原付は緩急をつけながら、およそ時速三〇キロを維持し、混雑した街中を走り続けた。道端には露店がひろがり、花を売る人や乾物、果物を売る者さまざまで、漢方薬のような臭い、廃液の臭い、刺激の強い果物の臭いが変わるがわる鼻腔を刺激しとたん吐きそうになる。路上には低速よろよろと運転をする原付が縦横無尽にひしめき合い、車道をはみ出て路肩にも乗り上げ歩く隙間もない。その乗り手は老若男女問わないが、意外にも、背中を晒した露出の高い若い女が多い。日中は日差しを避けるため、黒い装束に身を包み、日が落ち始めると扇情的な衣装に変身する。大きなラウンダバウトの交差点は一日二百万台の交通量があるらしい。まったく乗り手の顔も確認しないなんて、おのれの迂闊さにはまこと恨めしさを覚えた。男の肩を何度も叩き肩を掴み降ろすよう促すが、男は原付をスイングさせ揺さぶり、私は体制を崩しそうになってしまい後ろのつっぱりを必死に掴んだ。男の肩を掴んだままでも良かったのかもしれないが、男のボロ切れには油汚れがべっとり付着しているのに加え、肩を掴んだままなどおまるに跨っているような不恰好さはスーツすがたの私を躊躇させた。かといって横腹を掴むわけにもいくまい。男の運転技巧はすばらしく、信号を華麗に避け、路肩をかっとばし、密集する路上では私の降りる足の踏み場もありはせず、逃げる手立てを考えてはみるが、降りたらきっと他の原付に轢き殺されるのであろう。実際この街は、一日一〇人が事故死する。


 家でまだ入稿間近の記事の続きを書こうと思っていたが、密集地帯を抜け出し、さらに速度を増し、商店街から田園風景、工場を横目に見ながらそのまま走り続けた。日はとうに沈み、点々の民家の光が線となって美しく輝いて見えた。この街の夜は長く、騒がしい。街の外れの十四区に着いたのは四五分後の事だった。と言っても正確に計っていたわけではない。運転手の言う時間と距離の試算を鵜呑みにしただけだった。


 十四区は商業地帯と工業地帯の中間地である。


 なぜ十四区で止まったのか。距離料金を稼ぎたいのであれば、ガソリンが続く限り地球の裏側にまで走り続けてしまえばいいのである。運転手の家がこの近くと言えばそれもまた合理的ではあるが、きっと運転手との根比べに私は勝利したにちがいない。


 運転手は私の白いワイシャツの煤を浅黒い手で払ったあと、丁寧に顎紐を外しヘルメットを抱え込むと、得意げににやにやした。乗車賃としてなけなしの金を投げるように差し出すと、口元をだらしなく緩めてまたにやにやした。


 大通りを挟んでピンク色でけばけばしたネオン街が広がっており、片側は作業服を来た多くの労働者が薄汚れた吹きさらしの食堂に出入りしていた。銀のプレートに乗せられた米をかっこんでいる彼らの足元には黄色く麺の混じった吐瀉物が撒き散らされている。店前で、店主とおぼしき男が、痩せさらばえた群がる野犬を棒で叩きつける度、犬はきゃんと鳴き、三回目からは足がガクつき息遣いだけとなり、やがて事切れていく。何匹かは痙攣し血を流している。


 少し腹が減ってはいたが店に入る気はせず、屋台で売り子が呼び込む、揚げじゃがいも、チキンウイング、モミジ、トサカ、イカのなかからイカをその場で挽いてもらい、チリソースをつけて齧りながら辺りを散策した。


 ネオン街のストリートの何軒かのバーはシャッターが閉じられていた。入り組んだ路地を二本入ったところの、怪しい文字が書かれたバーに、ふらりと立ち寄ることにした。


 彼女に初めて会ったのは、そのバーであった。



 扉をあけるとカランと鐘が鳴り、奥から若い女性がやってきた。お一人?


 あまり金は持っていないんだ。


 いいの。一杯だけでも。飲も?


 彼女は英語でそう言った。彼女の髪は肩までの長さで、髪色は半分桃色で半分黒色なのが目を惹いた。その境界線は寸分違わず構成されていた。丸みを帯びた顔に、大きな黒縁の丸メガネをかけたアーモンドの目の上の睫毛は僅かにくるんとし、幼く見えた。鼻は少し潰れ、暗い唇。私の一挙手一投足にいちいちおどけたり、びっくりしたり、口元を掌で押さえ、わざとらしい振る舞いを見せるその姿は子供らしく、私を飽きさせなかった。私たちは今流行っている漫画本の話で盛り上がった。古い格闘漫画だが、最近放映が始まり再燃しているらしい。


 あなたはどうしてこの店に来てくれたの。


 私の答えた経緯に彼女はきっと新手の詐欺ねと無邪気に笑い、彼に感謝しなきゃと言った。


 きみは英語が達者だね。


 ありがとう。わたしも飲んでいい?


 今日はお金がないんだ。


 今日は嫌な客がいて少し飲みたいの、ツケでもいい。


 彼女はグラスを両手で覆い持ち上げ、ビールの泡に口をつけた。七分の二程口に含んでゆっくり飲み込んだ。喉がびっくりしたように躍動しているのがわかった。


 自分はなんでここに来たのかわからない。私は煙草を吸いながら言った。この街ではメビウスではなく、未だにマイセンと言われている煙草だ。


 どうゆうこと?


 そもそもなんだ。なんでこの街に住んでいるのかも、よくわからないんだ。


 この街の女は十人いたら九人が煙草を咎める。それが客相手だとしてもである。女にとって経済発展による排気ガス量の増加に対する利害と個人の満足のための喫煙の利害は、両立しないものらしい。……だが、彼女はそれ以外の一人だった。


 そういうもんよ。彼女はビールに口をつけながら私を上目遣いで見やった。わたしはここに生まれてしまった、あなたは幸せだと思うよ。この街では肺癌か事故死しか選べないもの。死に方を選べるって幸せなんじゃないかな。彼女のウインクは私の胸を高揚させた。


 きみが不幸には見えないけどね、楽しそうだ。


 さっきの話、きみが知らない原付に誘拐されたっていう。あなたにとってはとんだ災難だろうけど、わたしは嬉しいな、あなたが来てくれて。


 きみは信じてるのか?


 そうね、ネタとしてはおもしろいかも。変な言い訳して来る人なんていないから。


 信じていないじゃないか。


 ううん。でもね、頼んでもないピザが家に届くことだって、あるでしょう?


 自分はピザってわけか。


 乗せられた荷物を貨物と呼び、自ら乗った荷物は旅客と呼ばれる。運搬者にとってはそのくらいの違いしかない。誘拐と窃盗だってそうだ、荷物に意思がなければ窃盗だと言われてもおかしくない。


 ひったくられたのよ。


 何を?


 あなたを。


 何から?


 なんだろう、世界?


 彼女はグラスで口元を隠しながら笑っていた。


 わたしは幸せだよ。家族もたくさんいるしすぐに会える。友達も。あなたはたぶん、すぐには会えないでしょう。


 二階から派手な音楽と拙い歌声が聴こえてくる。二階から上は個室のカラオケ部屋になっているのだろう。嫌気が差すほど聞いた曲だ。騒がしくて陽気な曲。


 嫌な客って?


 ヒミツ。と言ってデフォルメされたような動作、人差し指を縦にし、唇に押し当てた。


 彼女は私のグラスの残りを見て、もう一杯飲む? と訊いてきた。


 なんでビールの最後のひとくちはこんなにも不味いのだろう。残りすべてを灰皿に注ぎ、私は言った。きみも飲みなよ。



 

 あなたはどこに住んでるの、という台詞。誇張ではなく百回は聞いた質問だった。この街では住居は最大のステータスを表す。最初の十回より後はほとんど適当な場所を言った。だが、今回彼女は聞かなかった。それ以外の一人だった。


 彼女は元気で、明るくて、料理を作るときはきっと袖をぎりぎりまでまくって振るうような感じで、この街にもし運動会があるのだとしたら、徒競走でアンカーで一位になって全身でやったぁと表現するような類型だろう。客もおらず女の子二人で切り盛りするようなこのバーが牢屋のように思えた。


 外で待機していた行きの男の原付に乗り込み帰路についた。もしかしてこのバーと提携している新手の勧誘なのかもしれない。たしかに中心街のバー街の規制は強まり、郊外に流れ出ていると聞いたことがある。


 帰路、車とぶつかったのか、原付から投げ飛ばされた血みどろの人の塊を見た。野次馬は写真を撮っている。遠くでサイレンが鳴っているので救急車が呼ばれたのだろうが、音量から察するに通り二○本は離れ、道も狭く渋滞で通る隙間もない道路では、辿り着いた頃には血溜まりは池となり、およそ助からない。


 私は原付は運転しない。外から来たこの街の原付初心者は、必ず初日に事故を起こし、アザをつくる。



 

 もちろん、この街に生まれ、誇りを持っている者もいる。また、この街に希望をもって来る者もいる。私のような流れ者もまた、いる。

 



 街を走ったあと濡れたタオルで顔を拭くと、魚拓のように真っ黒になる。ベランダで外を眺めながらビール缶のタブを開けた。マンションは中心地の一区であり、部屋は三八階だった。プシュという軽快な音がしんとした高層マンション群に響き、少し罪悪感をおぼえる。部屋の電気はつけていない。必要以上に外から私の存在を際立たせてしまうからだ。そして必要以上に夜の景色を隈取りさせてくれる。筆を滑らしただけのような、商業地区と住宅地区を横断する川には、煌びやかな客船が灯りを放ちながら、ゆらりのろりと流れている。街明かりでぼんやり薄暗い空を切り裂くように、どこかのナイトクラブの光線がいくつも交差していた。この高さでもクラクションの音が聞こえてくるものだ。


 このくだらない景色を買うために毎月、この街の住人の平均月収以上の金がかかっているらしい。誰もが憧れ欲するこの景色にそんな価値があるとは思えなかった。


 テーブルの上にあるフライパンの上で焼いた冷凍ピザを摘む私の手の等速運動は、たんなる栄養補給を目的としている機械のようだった。脳裏には彼女のすがたがうかんでいた。胸の内に巧みに入りこんでくる無邪気な笑顔、営業用の高い声と本音を言っているときであろう低い声の落差、緩急をつけた話すリズム、すべてが心地よく思い起こされる。


 彼女の顔が私と同じ枕のとなりで、転んでいるのを妄想していた。あの桃色の髪が今にも手の届く距離で眠っている、微かな吐息が私を撫で、私は眠りにつく。



 

 私は景色を買ったのではなく、景色に買われていると考える。私は酒を飲まず酒に飲まされ、仕事を選ばず選ばれ、生きているのではなく息をしている。


 サイレンの音が通り過ぎていった。

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