第25話 杏子の年貢も納め時

 不意に現れた彼らを見つめ、雅月あづきは丸い瞳を見開いた。

 まるで見計らったかのような登場に、戸惑いを隠しきれなくなる。


翔和とわ!? それに、真緒まおくんまで……。どうしてここに」


 それを尋ねる状況でないと分かっていながら問いかけると、翔和はにこりと微笑んだ。すっかり気を失った破落戸ゴロツキを地面に放置した彼は、まっすぐにこちらへ向かってくる。

 近付いてきた彼からは飴でも舐めているのか、蜜柑の甘い香りがした。


「なんとなく胸騒ぎがしてね。イナちゃんとの買い物をこっそり見守っていたのさ」

「え……」

「そうしたら本当に破落戸のお出ましだもんなぁ。雅月の蹴り、格好良かったよ。怪我はないね?」


 雪と杏子あんこの悪意に触れ、冷たくなった雅月の頬に手を当てた翔和は、当たり前の顔で言うとまなじりを下げた。

 だが、女の子同士の買い物の様子を見守っていたなんて、一歩間違えれば変態ストーカ……いや、とにかく、照れる思いだ。

 もしかしたら、雅月が菊乃井きくのい百貨店で感じた視線は、彼のものだったのかもしれない。


「翔和、お嬢様との逢瀬はあとにしろ」


 一方、包み隠さずすべてを明かす翔和の様子を、真緒はやれやれと肩を落として聞いていた。ちょっと間違えれば変質者扱いされるだろうに、彼にそんな発想はないのだろう。

 だが、すぐに視線を外し、気を取り直したように目を伏せた彼は一転、恐ろしい形相の杏子を見据える。

 釣り目に凶悪な雰囲気を乗せた彼女は、じっと雅月を睨みつけていた。


「今は彼女を捕らえる方が先決だろう。聞いているのか?」

「ん? でももうすぐ警官隊が現れることだし、真緒が状況証拠を掴むまで、下手に手を出すなって言うせいで、ずっとどきどきしていたんだ。雅月の傍で触れていたい」

「……ご執心てのは大変だな。まぁいい、なら俺から罪状を読み上げる」


 今にも抱きしめたそうな顔でぎゅっと手を握る翔和に、真緒は諦めて周囲に目を走らせる。気付くと、路地の出入り口を塞ぐように詰襟の警官たちが配備され、杏子たちにわずかな動揺が浮かんだ。


獅子楼会ししろうかい社員及び関係者二十七名に逮捕状が出ている。主な罪状は阿片の密輸・販売、そして不当な拉致・監禁による人身売買。貿易と称して商品と共に阿片を輸入し、荷物と偽り、若い女性を国外に輸出するとは非常に由々しき事態だ。今回の件は帝都及び関係各県の警察が合同で捜査し、余罪を含めすべてを明らかにするだろう。大人しく縛に付け」


 語気を強めた厳しい口調で、真緒は逮捕状を読み上げる。

 もしかしなくても、真緒は翔和と共に、杏子や周囲のことを調べていたのだろうか。

 わずかな疑問を抱き首を傾げると、翔和は雅月を見つめたまま優しく笑った。


「西洋菓子博覧会の会場で事情を話した折、真緒に獅子楼会を調べるよう依頼していたんだ。妹と雇われ破落戸くらいなら、いくらでも返り討ちにできる自信はあったけれど、あの会場に出入りできたことを鑑みるに、組織が関わっている可能性が高い。なら真っ先に怪しむべきは獅子楼会だ。そして眞銅しんどう暦時れきじがあの会社に入ってから、利益上昇と共にわずかな不穏があると調べがついた。もっとも、証拠を集めるのはなかなか骨だったけどね」

「では、翔和が近頃自室に籠っていたのは……」

「そ、全部雅月を守るための情報集めさ。だけど、事実を知ったら気を遣わせると思って言えなかった。不安にさせていたことを謝るよ。ごめん」


 浮かべる笑みを深くし、やはり我慢できなくなったのか、ぎゅっと彼女を抱きしめながら、翔和は隠しごとの内容を正直に告げた。


 だけどまさか、不安を抱き、信じようと決め、気にしないようにしてきた隠しごとの内容が、自分を守るための情報収集だったなんて。警官隊含め、多くの人前で抱きしめられたこと然り、寒さなどどこかへ飛んでしまったかのように、雅月の身体が一気に熱くなる。

 でも、それ以上に彼の気持ちが嬉しくて、心がふわふわとときめいた。


「いいんです。むしろそこまでしていただいて、とても嬉しいです。本当にありがとうございます」

「うん。でもこれで妹の年貢も納め時。もう二度ときみに近付かせたりしないよ」


 止まらなくなった顔で今度は額に口づけ、翔和は甘く囁く。

 恥ずかしいのに嬉しくて、雅月はただ彼のことを受け入れていた。

 本当はそんな場合じゃないと分かっているのに、もう周りのことなんて目に入らなくて……。


「翔和、あとは家に帰ってからやれ。それとも火に油を注いで楽しんでるのか」


 警官たちに囲まれ、それでなおすっかり自分たちの世界に入る翔和に、流石にだめだと思ったのか、真緒は軽くその頭をはたいて制止した。

 途端癖のある黒髪がふわりと舞い、彼はようやく現実に戻って来たようだが、辺りを見回す目には不満が宿っていないこともない。

 だが、警官たちや維南、黒服の男までもが、自分たちのやり取りをしっかり見ている状況は恥じらうべきだろう。呆れを通り越して無の境地に辿り着きながら、真緒は努めて冷静に言う。


「奴らを拘束する。抵抗されてうっかり傷つけられないよう、お嬢様を守れ」

「ん? あぁ、分かった。あとは任せるよ」





 ――その言葉が真緒たちにとっては合図だった。

 近くにいた指揮官の号令と共に一斉に動き出した警官隊は、先程翔和たちに倒された破落戸を回収しつつ、黒服の男四名及び、杏子拘束のため、歩を進めてくる。

 それぞれ小型の刃物を手にした男たちは予想通り抵抗し、杏子を守りながら応戦。

 元々鍛えられているのか、場は一時的に騒然となった。


 だが、日々帝都の安寧を守るため、悪党どもを取り締まって来た警官たちは負けやしない。

 ひとり、またひとりと拘束され、遂には杏子に手が伸びる。


「いやだぁっ! なんで私が捕まらなきゃいけないのよ! 悪いのは全部お姉様よ! お姉様がさっさと死んでくれれば阿片なんて持ち出さなかったあっ!」

「大人しくしろ! お前はそれ以前に天宮あまみや樹希たつき氏に阿片を盛ったと供述していただろう! その時点で重罪だ」

「あれだって、お父様がお姉様ばかり贔屓するからいけないんじゃない! 私は悪くないわ、全部、全部悪いのはお姉様よ! 捕まえて極刑に処すならあっちなんだからあっ!」


 手にした刃物をぶんぶんと振り回し、金切り声で持論を展開しながら、杏子は何度も悪いのは姉だと繰り返した。

 何があっても、この状況に陥ってなお、彼女は自分の非を認めず、頑ななまでに抵抗する。


 最初は穏便に捕縛を試みていた警官たちも、姉に対する罵詈雑言をまき散らしながら喚く姿に嫌気がさしたのか、やがて応戦用の短刀を取り出すと、鞘を嵌めた状態で彼女の出鱈目な刃物を受け止め、そのまま地面に叩き落した。

 じんと手が痺れるような衝撃がして、杏子がわずかに怯む。

 途端両手を掴まれた彼女の拘束も、これで完了だ。


 尤も、それでなお彼女が抵抗することはやめなかったが、あとは白鸞はくらんにある獅子楼会本社及び眞銅議員邸の家宅捜索と、帝都倉庫街にある、獅子楼会名義の倉庫の捜索。そしてそこにいるはずの眞銅暦時の拘束と、諸々の処理を済ませることで事態は収束するだろう。


 警官たちが互いに目配せし、近くに留められた車へと、彼らを促していく。


「いやだぁっ! 私をどこに連れて行く気なのよ! なんで元凶のお姉様が翔和様に守られて、私が拘束されるの!? この無能警官たち!」

「いいから歩け。それ以上喚くなら黙らせるぞ」

「まあ、なんて乱暴! 翔和様あ! どうか助けてくださいまし! どう見ても私が被害者でしょう!?」


 引きずられるように車へと促され、腕を引っ張られる最中、杏子は恥知らずにも翔和へと助けを求め瞳を潤ませた。

 甘えたような視線に真緒は顔を顰め、翔和は微笑みながらも動かない。

 どこか圧を滲ませた彼は、きっぱりと告げた。


「きみは本当に、自分勝手で学ばない子だね。縁談騒動のとき言ったはずだ。雅月を傷つけたきみを許せると思う? と。許せるわけがない。きみとの縁はありえないよ」

「……!」

「いい加減その五月蠅い口を閉じるといい。僕は、たとえきみが雅月の妹だとしても、優しくなんてしないから」


 正直、翔和がここまできつい物言いをするのは滅多にないことだ。

 真緒ですら見たことのない笑顔に滲む苛立ちと怒りに、場の空気が凍りつく。

 だが、これでようやく大人しくなるかと思った矢先、今度は頭上から予期しない声が届いた。


「おやおや、姉君と決着をつけるから、身柄回収に来いと言われて来てみれば。これはどういう言う状況だ、杏子?」


 高い位置から届く声に全員が驚いて顔を上げると、路地を形成する石塀の上に、濃灰色のコートを着込んだ眞銅暦時が立っていた。

 まさか、警官隊の包囲網を抜けるため、塀の上を歩いて来たのだろうか。


「助けて、暦時! この無能警官、私たちを捕まえる気よ!」

「ふむ?」

「阿片のこと、獅子楼会の貿易! 調べたって言うのよ!」

「なるほど。それは間違いなく俺らにとって窮地だな」


 抵抗するように身をよじり、杏子は大きく叫ぶ。

 しかしその一方で、彼の答えは平静としていた。

 まるで既に諦めたような口調には覇気がなく、万が一を考えて銃を向け、二メートルほどの高さを持つ石塀から降りるよう、眞銅暦時を促す警官たちの言葉に反論する雰囲気はない。

 だが、警官の一部が石塀に上ろうと動き出した、ときだった。


「ならば、俺はすべてを擦り付けて逃げるとしよう。杏子、お前の一途に歪んだ様を見ているのは楽しかったぞ。資金提供のおかげで貿易路線も拡大し、俺の懐も潤った。お前にはもう、用はない」

「な……」


 不意に向けられた黒光りの銃口。

 誰もが臨戦態勢となる中、一瞬で放たれた弾は杏子をめがけ、まるでスローモーションのように現実味がなく飛んでいく。


 このままでは間違いなく、彼女は心の蔵を打ち抜かれるだろう。


 冷静にそんなことを考える周囲の横で、思わず飛び出してきたのは――。


「雅月!?」


 翔和の制止も聞かず飛び出した途端、嫌に静かな雪模様に、武骨な銃声だけが響き渡った。

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