第24話 この世界を思うままに

 風をはらんだ粉雪が、帝都の街をひらひらと舞う。

 ぐっと気温が下がった世界で、雅月あづきは白い吐息を詰まらせた。


 目の前に佇む杏子あんこは当たり前のように笑っているけれど、父に阿片を与えていただなんて、一体、どういうつもりなのだろう。

 彼女が発した言葉を上手く理解できず、小豆色の瞳が、恐怖と疑問に震えていた。


「これは事実よお姉様。お母様は愛していたお父様の死を大変嘆いていたようだったけれど、私に与えない父なんて私はいらなかった。だってあの人、天宮あまみや家の家督も財産も、すべてお姉様に与えるつもりだったのよ。殺したくもなるでしょう?」

「……!」

「ふふ、お姉様はご存じなかったのよね? 私も母もずっと苦しんでいたのよ。お父様の愛情はいつだって、お姉様と先妻の祈奈子きなこ様にしか向いていなかった。私の方がよっぽど悲劇のヒロインだわ」


 くすくすと嫌な笑いを浮かべ、杏子は大げさに語る。

 その口ぶりはまるで、父に非があるような言い方だが、雅月は先妻の娘であり長女だ。家を継ぐのはおおよそ長子であるこの国において、何も間違ってはいないし、次女である杏子は嫁に出るのが一般論と言えるだろう。


 だが、母から自分たちの事情を聞かされていた杏子の考えは違った。

 要は自らが欲するか否か。母子の基準はそこにしかなくて、世間の常識なんてものは彼女たちの前では無用の長物だったのだ。


 そう、それはずっと昔。

 雅月の両親と、杏子の母親を巡る過去の話にまで遡る――。





 そもそも雅月の両親である天宮樹希たつきと祈奈子は、幼いころからの相思相愛だったという。将来は結婚しようと早々に誓い合い、恋人として仲睦まじい時間を過ごしてきた。

 そんな二人の傍にいて横恋慕をしていたのが、近所に住んでいた杏子の母・久利子くりこだ。


 久利子はあらゆる手段を使って樹希の気を引こうとした。だが、祈奈子一筋の樹希は彼女の恋慕になど全くなびかず、久利子は友人であったはずの祈奈子に、醜い嫉妬を募らせていく。


 そして、思いが叶わぬまま二人が結婚し、一年が経ったころ。久利子の耳に飛び込んできたのは、出産間近で馬車が横転するという事故に遭い、犠牲となった祈奈子の死だ。

 樹希は失意の底に沈み、何も手が付けられない状況だという。


 一方、それを好機と捉えた久利子は、周到に近付き、周囲から再婚を言われていた樹希の後妻に収まった。これでようやく、彼は自分のものになる。

 祈奈子の馬車になんて、言葉に出さなければ事件にすらならない。

 邪魔者を消した久利子の表情は晴れやか。

 だが、事態はそう上手くは運ばなかった。


 なぜなら樹希は、祈奈子との間に生まれた愛娘・雅月にしか真に愛情を注がなかったのだ。

 決して虐げられているわけではないけれど、自分にも杏子にも、雅月に向けるような柔らかな笑みと愛情は向けられない。

 邪魔者はいなくなったのに、娘という障害がまた自分の幸せを遠ざける。


 そして家督も財産も、すべてを雅月に残す意向だという樹希の言葉を聞いた久利子は、自身の娘に言い聞かせたのだ。


『欲しいものがあるのなら、どんな手段を使っても手に入れるくらいの強かさが女の子にもないとね。杏子の好きなものは私がなんでも与えてあげるわ』


 自分を甘やかしてくれる母の言葉を、幼い杏子は当たり前と受け入れた。

 そして聞くのは雅月や祈奈子に対する恨み節ばかり。

 気付けば甘やかしすぎだと苦言を呈する父や、我が儘を注意してくる姉を疎むようになっていった。与えないのは杏子にとって罪にさえなった。


 そうして十三歳になったある日、杏子は偶然眞銅しんどう暦時れきじと出逢う。

 議員である父を隠れ蓑に阿片を密売しているという彼に目を付けた杏子は、資金提供の代わりに阿片の譲渡とチョコレートの輸入を要求。

 与えないのなら奪うまでとの教えの下、父に阿片を盛り、無理に金の場所を聞き出しては、すべてを貪り食った。

 さらには偽造の貸借証明書を使って姉を人に追わせ、杏子の心はようやく満たされる。


 これで自由にチョコレートを得る環境と、邪魔者の一掃が完了した。

 すべては自分に与えなかった罰なのだ。杏子に罪悪感なんてものはひとつもない。

 それからの三年間は、杏子にとって満ち足りた時間だったと言えるだろう。


 だが、三年経ったある日、杏子は、御代みしろ翔和とわという青年が、雅月の窮地を小切手一枚で救ったという話を聞く。

 御代家といえば伯爵位を持つ華族であり、一人息子は「帝都一の甘党」「甘党の怪物」なんて言われるほど、甘味にご執心なのだと暦時は話していた。


 姉を救ったこと、甘いものが好きだという翔和、二つのことに心を動かされた杏子は、彼がどんな人物なのかを知るため、桜庭おうば家の夜会に潜り込む。

 現時点で写真等の入手は叶わなかったけれど、甘味に彩られた円卓を見張っていれば、現れると踏んだのだ。


 そして予想通りと予想外なことに、翔和は雅月を連れて会場にやって来た。

 三年ぶりに見た姉はどこも変わっておらず、凛とした雰囲気で周囲の視線を引き付ける。

 一方、そんな彼女と一緒にいた翔和は、甘く蕩けてしまいそうなほど、柔和で美しい青年だった。身にまとう燕尾服が彼の魅力を引き立たせ、目が離せなくなる。


 途端、翔和のことが欲しいと思った。


 だけど相手は伯爵家の嫡男だ。獅子楼会ししろうかいという裏の力は使えない。

 そこで杏子は、久利子と養父である議員に願い、眞銅家として縁談を持ち込むことにした。

 桜庭家では急用でもあったのか、早々に逃げられてしまったけれど、容姿も甘味への愛情も、自分が姉に負けるわけはない。


 もちろん、外堀を埋めるために御代家……特に当主夫人である涼佳すずかとのやり取りは欠かさない。気に入られさえすれば、翔和を手に入れられる確率は高くなる。


 そう思っていたのに、翔和は決して靡かなかった。

 姉のことばかり気遣い、守り、愛情を向けている。

 焦った結果、涼佳まで自分の元を離れて行った。


 ――また邪魔をするのね、お姉様。


 月日を経て、姉が翔和に愛されているようだとの報告を受ける度、どす黒い感情が渦巻く。

 早く殺したい。いいや、殺す前に穢されて、心からの屈辱を味わえばいい。

 いつだって凛として、高潔を生きる姉にはそれがお似合いだ。


 それを拒むというのなら、跡形もなく消してやろう。

 獅子楼会の力があれば、事件をもみ消すことだってできるはず。


 だから。





「だからもう死んでくださらないかしら、お姉様。どうせあなたは屈辱に甘んじて生に縋るような人ではないでしょう? 本当は穢されるところも見たかったのだけれどもういいわ。さあ、早く死んで」


 遠い過去からの昔語りを終え、杏子は鋭い刃物を手に再度それを提示した。


 空を舞う雪は先程よりも粒を増し、静かな空間に彼女の声音が響き渡る。

 正直この状況で雅月が助かる確率はゼロだろう。前門には黒服を従えた自分たち、そして後門には先程雅月が蹴飛ばした破落戸ゴロツキがいる。逃げ場はない。


「……っ。私は屈しないわよ、杏子」


 だが、ここまで来れば流石に諦めると思った矢先、雅月は震え声で呟いた。

 その震えは寒さ以上に杏子に対する恐怖の表れだろう。しかしここで諦めたら、妹に振り回されない人生を、翔和と生きる未来を、手にすることはできない。


 立ち向かわなければ。


 雅月の中で、恐怖を堪えながらの勇気が顔を出す。

 清く正しく、そして誇り高く強かに、父が最期まで貫いた矜持を守りたい。


(……お父様が阿片を盛られていたなんて。最期にお会いしたとき、苦しそうに見えたのはそれが原因だったのね)


 そう思った途端、不意に父の笑顔が過り、雅月はぐっと唇を噛み締めた。



 ――父と最後に会ったのは、女学校に現れた黒服の男たちから逃げた後だった。

 何が起きたのかが分からず、雅月は辻車を拾って、すぐさま天宮家へ向かった。

 だけど、そこで目にしたものは、家財一式を持ち出され、解体される我が家……。

 門前に見つけた父は、どこか苦しげに前を見つめていた。


『お父様、これは一体、どういうことなのですか……?』


 震える声で問うと、父は小さく微笑んでごめんと言った。

 そして懐から縮緬ちりめん椿の髪留めを取り出した彼は、戸惑う娘にそれを手渡す。


『これしか守れなかったよ。お前の母様が大事にしていた髪留めだ』

『……!』

『雅月、お前はこのまま逃げなさい。私はとんだ悪魔を生みだしてしまったようだ。ただ、当主として最後まで責任を持つ義務がある。いいね。この先私に何があっても、天宮家の娘として心清く生きるんだよ』


 父の言葉を聞き、この惨状を作り出した妹の存在を悟った雅月は、別れを知り、涙ぐんだ。

 彼女はまだ今年で十五になる女の子だ。庇護者を失うには早いだろう。

 しかし、そうと分かって安易に弱音を吐こうとしない娘に、彼は誇らしい気持ちを抱きながら言い聞かせた。


『さぁ雅月、行きなさい。大丈夫、正しく生き続ければ、きっと良縁はやって来る。どんな悪意も悪事も、清らかな光には敵わない』

『お父様……』

『愛しい娘。幸せになるんだよ』


 本当はこれから先、彼女が幸せを掴むその日まで、一番傍で見守っていたかった。そんな願いを乗せ、自分によく似た小豆色の髪を撫でる。

 これが、雅月が持つ父との最後の思い出だ。


 そして、後に父が逝去したとの話を聞いたときは、本当に辛かった。


 だが、父の死因を知った今、この悪魔を止めなければと強く思う。

 これ以上誰かに迷惑をかけないためにも、落とし前は私が……。



「……なるほど、阿片か。これは立派な犯罪だね」

「ああ。証拠は揃えた上に物証まで出てきたんだ。言い逃れは不可能だろう」


 すると、打開策を見出そうとする雅月の耳に、ふと後ろから聞きなれた声が届いた。

 ここにいるはずのない声に驚いて目を向けると、後方にいた破落戸を華麗に退治する青年の姿が目に入る。


 ひとりは詰襟制服姿の警官・萩岡はぎおか真緒まお

 そして、濃紺の外套を羽織った彼は、共に未来を願う雅月の大切な甘党ひと・御代翔和だ――。

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