第23話 菊乃井百貨店へお出掛け

 帝都の中心街に建つ菊乃井きくのい百貨店は、地上五階建てからなる複数の部門を持つ施設だ。元はいち食料品店から始まったというここには、今や食品から雑貨まで、生活に関する多くの店が揃っている。

 煉瓦造りの洒落た出入り口からは、引っ切り無しにご婦人を始めとした人々の出入りがあり、その繁盛ぶりが窺えた。


「どのドレスも素晴らしかったですわね、雅月あづきさん!」

「ええ。どれも繊細な刺繍やレースが美しく、心ときめくものがありました」


 そんな百貨店の二階を連れ立って歩いていたのは、山吹色の着物に身を包んだ維南いなみと、紅桃色の着物に葡萄茶えびちゃ色の袴を組み合わせた雅月だ。

 彼女たちは先日維南が言っていたウェディングドレスの見本市と買い物に来たらしく、二人して紙袋を手にあれこれと話をしている。

 もっとも、最近は翔和とわに外出を極力制限されていたせいか、彼が傍にいない外というものに、雅月は少しばかり変な気分を感じていた。(もちろん今回は事前に許可を得ての外出である)


「雅月さんならどれもきっと似合いますわ。しかし羨ましい。私も早くヒロと結婚したいですわ。春まで何もなければ、雅月さんが以前仰っていたように非日常を演出、してしまいましょうか」

「その際はお手伝いしますよ、維南さん。お二人の縁が早急に結ばれるよう、お祈りしますわ」


 小間物やお菓子が入った紙袋を片手に柔らかな表情を見せ、雅月はあれこれ店を回る維南について、百貨店内を様々に巡っていった。

 どうやら買い物好きの維南は頻繁に来ているらしく、足取りは慣れたものだ。

 一方、こう言った場所には滅多に来た覚えのない雅月は、彼女について行くのが精一杯。一応万が一を考えて周囲の気配に気を配ってはいるようだが、あまりの人の多さに正直舌を巻いていた。


「……!」

「いかがなさいまして?」

「いいえ。何でもありませんわ。それより桜庭おうば様へのお土産は決まりましたか?」


(今、視線が……。いいえ、これだけ人がいるのですもの。気のせいよね。あの子だって下手に人を巻き込みたくはないでしょうし、維南さんが傍にいるときは平気なはず)


 外出する際、いつでも胸の奥を燻ぶる妹の存在。

 柱や物陰から自分を見ているのではないかと、雅月は時折不安な気持ちになることがあった。

 母親譲りの闇の如き黒い瞳は、鮮烈なまでに杏子の感情を反映させる。苛立ちも羨望も何もかも、あの子は決して隠さない。与えられるのがあたりまえと認識する彼女に、清く正しく、そして誇り高くを矜持とする天宮あまみや家の常識は通用しないのだ。


「これにしますわ」


 警戒しながらも、裕也ひろなりへのお土産として万年筆を買う維南に、雅月は内心の不安を隠して頷く。


「蒔絵で桜が描かれているのですね。桜庭様によく似合うと思います」

「ありがとうございます。今度新作を書き下ろすそうなので、少しでも役に立ちたくて。会計してまいりますわね」





 楽しくも一抹の不安を拭いきれない百貨店へのお出掛けは無事に幕を閉じ、二人は舗装された冬の小道を歩き出した。

 せっかくなのでお茶でもして帰りたいという維南は、彼女を大通りから一本隣の道へと誘導していく。この先に、お抹茶と羊羹の美味しい店があるのだという。


華鈴堂かりんどうの羊羹、私大好きなんです。味も色々あって、金時芋やお抹茶、南瓜なんかもありますの。翔和様へのお土産にいかがですか?」

「そうですね。翔和もとても喜ぶと思います。……!」


 だが、人気の少ない道を前に嫌な予感を募らせていたときだった。

 前方から歩いて来るのは、着流しに身を包んだ背の高い二人の男たち。

 一見怪しげな様子はなく、そこらの破落戸ゴロツキのように身なりが整っていないわけではない。だが、凄く嫌な予感がして、雅月はわざと維南の半歩前に出て男たちから彼女を隠す。


 どうかこの予感が杞憂で済みますように。そう願いながら足早に、雅月は歩いた。

 そして、軽い会話をしながら男たちが雅月の横を通り抜け……――。


「……!」


 ――た、瞬間。

 ブンと空気を切る音がして、雅月の頭があった場所を大きな拳が突き抜けた。

 とっさの判断でしゃがみ込んだ雅月は、低い態勢のまま男の足を蹴り、態勢を揺らがせる。

 一方、突然のことに気付いた維南は目を丸くして、声も出せない様子だ。


「いきなり拳で挨拶とは、いささか乱暴な殿方ですね。私に何か御用で?」


 しかし、そんな維南を庇うように片腕を横に広げた雅月は、臆した様子もなく問いかけた。

 彼らが妹の刺客だと、単純に早合点するわけにはいかないだろう。

 華族令嬢を狙う破落戸くらい、帝都にもいるものだ。自分はともかく、維南を傷モノにはしたくない。だからこそ問うと、男たちは笑って。


「俺たちの用事は、あんたが一番分かってんじゃねぇか? お嬢様。可哀想になぁ、妹に命を狙われるような込み入った家庭に生まれて」

「やっぱり杏子あんこの……」

「大人しく捕まってくれりゃあ、無駄に傷つけはしねぇ。あの嬢ちゃんにゃ、姉君をかわいがってくれって言われてるしなぁ」


 まるで品定めをするように、品のない視線で雅月をじろじろ見つめ、男たちは言う。

 妹の存在を隠さないあたり、今回で決着を付けようという腹なのだろう。きっとまた近くに杏子が来ているような気がして、雅月はつい、辺りに視線を向けた。


「……残念ですが、私は大人しく捕まるようなしおらしい淑女ではありませんの。このままことを強行して、怪我をなさるのはどちらかしら」

「ほう。面白い」


 分厚い冬の雲が覆う空の下。不意に空気が震える気配がして、次の瞬間、男がダッと地面を蹴った。武骨な拳を強く握り、雅月の腹部を狙うように、下から拳を繰り出してくる。

 だが雅月とてそれは想定内だ。

 かわいがってくれと言われて引き受けた以上、顔をいたぶるつもりはないのだろう。

 両親から受け継いだこの容姿に、感謝を覚える。


 とはいえ、相手が繰り出す拳の質量は、雅月の想像を超える。

 翔和が訓練で軽く触れるのとは違って、当たったら最後、ひとたまりもない。


「維南さんはその場から動かないでくださいね。大丈夫、私には心得がありますので」

「雅月さん……!」


 横に飛ぶ形で拳を交わし、怯えた様子の維南に声を掛ける。

 本当は逃げて欲しいところだが、あの子の刺客がこの人数だけとは思えない。今はまだ、自分の傍にいてもらった方が安全だ。


 雅月はもう一度襲い掛かる拳をかわす。そして、相手の背が見えたところで思い切り足を振りかざし、蹴り上げる。

 黒いブーツが持つ硬くて鋭い踵が、相手の脇腹に直撃した。


「いってぇ……っ!」

「やるじゃねぇの、お嬢様。かわいい顔してお転婆だこと」


 どさりと地面に転がり、思わず脇腹を抑えて倒れ込む男を、もう一人は一瞥した後で感心したように口笛を吹いた。表情は余裕そうに見えるけれど、内心動揺しているのは間違いない。

 その隙を突くように雅月は態勢を低くして脛を蹴ると、膝を折るように背後からもう一発、蹴りをお見舞いした。もちろん、この程度が致命傷になるとは思えないが、相手が立ち上がる前に、この場を離れなければ。


「行きましょう、維南さん。人目のある通りへ。ここは危ない」

「えっ、ええ……」


「あら嫌だ。相も変わらず乱暴なお姉様ねぇ」


「!」


 おもむろに維南の手を掴み、今来た道を戻ろうと、踵を返したときだった。

 不意に残酷なほど冷ややかな声がして、正面から黒服の男数名を連れた杏子が姿を現した。

 相変わらず、フリルやレースで飾った派手な深紅のドレスをまとう彼女は、嫌な笑みを浮かべている。その手には刃渡り十五センチほどの短刀が握られていた。


「杏子」

「まったく。お姉様が大人しくしないから、暦時れきじの手下がまた傷ついちゃったじゃない。一体いつまで抵抗するんですの? お姉様は邪魔なのよ。翔和様は私がもらう」

「……っ」

「そのためにもいい加減決着をつけたいのよ。大人しく死んでちょうだい」


 血の繋がりは半分とはいえ、杏子は雅月にとって間違いなく妹のはずだった。

 だが、自分を見つめる彼女の瞳に情なんてものは一切なく、「お姉様」という呼び方をしているものの、家族であるという認識は、恐らくしていないのだろう。

 翔和が決して杏子になびこうとしない現状と相まって、彼女の暗い怒りは頂点に達しているようだ。


「杏子こそ、いつまでこんなことを続けるつもり? 翔和が誰を選ぶのかは彼の心次第。私を殺したところで、翔和はあなたなんかに目を向けやしないわ」

「あら。お姉様は何か勘違いをしているのね。言ったでしょう、私に与えないことは罪なのよ。私が翔和様を欲している以上、もらうのは必然。それを邪魔するお姉様は障害なの。欲しいものはどんな手段を使ってでも奪う。それが母の教えよ」


 凍りつくほどの冷笑を浮かべ、懸命に恐怖を隠そうと抵抗する雅月に、杏子は当たり前の顔を見せた。

 彼女の母親も、半ば強引に天宮家の後妻になったというけれど、実の娘になんてものを教えているのだろう。

 どこまでも歪んだ思考を持つ杏子に、雅月の手が冷たくなる。


 不意に、分厚い雲から粉雪が舞った。


「ねぇお姉様。いつだって私に何にも与えてくれないお姉様? 最期くらい大人しく死んで、一度くらい役に立ってくださいな。痛みが嫌なら、阿片で感覚を鈍らせますこと? 上質なものを用意しておりますわよ」


 と、強張った表情で黙り込む雅月に、杏子は小さな瓶を取り出した。

 思わぬ薬物の登場に、雅月の表情が一層怯えたように変わる。


「なっ、そんな危険な物をどうやって……。帝国は阿片の輸入を全面的に禁止し、厳しく取り締まっているはずよ」

「ふふ、獅子楼会ししろうかいはどんなものでも輸入出しますの。このくらい造作もない。そして多量に取り込めばおかしくなることも分かっていますのよ」


 誘うように瓶を振り、くすくすと杏子は肩を震わせる。

 そして、何かを思い出したように雅月を見据えた彼女は、ひとつの事実を提示した。


「だってお父様は、私が阿片を与えたことで中毒を起こし、最後は死んでいったんですもの」

「え……っ」

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