第17話 乙姫一甘い場所にて

 大きな満月が、夜の世界を照らす。

 鈴虫の声が草原に響き、ススキが柔らかな風に揺れていた。


「お姉様と翔和とわ様が乙姫つばきに? まぁ……」


 そんな穏やかな光景が広がる草原近くの豪邸にて。頭を垂れる下男の言葉に、杏子あんこは楽しそうに呟いた。

 ここは白鸞はくらんにある眞銅しんどう議員の本邸、その離れ。和風の室内に西欧趣味な家具が並ぶ一室で、彼女は議員の息子である青年に甘ったるくもたれていた。

 ソファに座りながら腕を絡ませる杏子に、一方の彼は涼やかな表情を浮かべている。


「また何かを企む気か杏子。俺という男がありながら、随分御代みしろ家の坊ちゃんに執着するんだな」


 すると、黒縁眼鏡の奥で優しく笑いながら、青年――眞銅暦時れきじは彼女を見つめ、揶揄からかい混じりに問いかけた。そして優しく頬を撫で、そのまま深く口づけをしてくる。

 だが、当たり前のようにそれを受け入れた杏子は、大きく頷いて言った。


「うふふ、もちろんあなたも好きよ暦時。私の大好きなチョコレートをたくさん用意してくれる。でもどうせ結婚するのなら、とびきり上等な相手がいいの。お姉様には渡さない」

「ほぅ。坊ちゃんってより、姉君にご執心なのか? よっぽど恨んでるんだなぁ。。でもどうする気なんだ? 坊ちゃんは姉君に夢中なんだろう?」


 猫足のテーブルに置かれた数々のチョコレート。それを横目に暦時はなおも質問を重ねる。

 これらはすべて獅子楼会ししろうかい経由で輸入したものだが、その質に杏子は満足しているらしい。

 あやすように一口大のチョコレートを渡すと、彼女は嬉しそうに笑って、


「そんなもの、どこかで攫って、無理やりにでもくながいすればいいじゃない。既成事実さえ作ってしまえばこっちのものよ。お姉様はどうなったって構わないけれど」

「やれやれ。十六の女の発言とは思えないな。人は自由に使って構わないが、死者を出すのだけは面倒だからやめろよ」

「分かってる。でも、お姉様たちが乙姫にいるのなら、今は絶好の機会よね。ふふ……」


 濃厚な味わいのミルクチョコレートを口に含み、杏子は低く呟く。怪しげな視線を湛えた瞳には、雅月あづきへの憎しみと、翔和への歪んだ愛情が渦巻いているようだ……――。





「気持ちいいね、雅月」

「そ、そうですね……」


 そのころ。乙姫中心街の一等地に建つ老舗旅館・桐花きりばなでは、雅月と翔和が部屋の外に併設されて足湯に、のんびりと興じていた。

 満月の光が淡く照らす中、ぎこちなく翔和に寄り添う彼女は、頬を赤くしたまま揺れる水面を見つめている。


 ――ちなみに、なぜこんな状況になったかと言えば、夕食後に翔和が突然、「恋人らしいことをしたい」と言い出したことがきっかけだ。既にお風呂は済んだ後だったので足湯となったものの、この甘党、実は夕食時に出された清酒に、酔っているのではないだろうか?

 本当の恋人になりたいなどと宣言された後ということもあり、雅月の肩を抱く手に、彼女は緊張しっぱなしだ。


「美味しい甘味に、美味しいお酒、そしてお風呂に足湯に雅月との時間。僕にとっては幸せな初日だったよ。明日の甘味巡り、あと明後日の西洋菓子博覧会も楽しみだ」

「はい。でも、その……緊張、しますね」


 だが、上機嫌で笑う翔和の一方、梅の花を散らせた薄桃色の浴衣の袖をいじりながら、雅月は消え入るように呟いた。

 変に意識してはいけないと分かっているけれど、湯に浸かるため、膝まで足を覗かせた現状、そしてこの後、同じ部屋で就寝なのだと思うと、どうしてもどきどきしてしまう。

 それはたぶん、自分が最早ただのお供ではないと認識してしまったせいもあるけれど、どうして彼はこんなにも平気でいるのだろう。


「緊張。僕も少ししているかな」


 すると、月明かりでなお分かるほど顔を赤くしながら、時折水音を立てる雅月に、翔和は小さく白状した。

 彼の性格上、飄々と見えることは多いけれど、どうやら翔和は翔和なりに緊張をしているらしい。隣で目を見開く雅月に笑った彼は、優しく髪を撫でて言う。


「もちろん、これが良いどきどきなのは分かっているけれど、心臓が早鐘を打つ感じ。まだ慣れない。それだけ、雅月のことが好きなんだろうなぁ」

「……っ。す、睡眠に支障をきたしますので、それ以上は仰らないでくださいましね、翔和」

「ん? フフ、ごめんごめん。じゃあそろそろ部屋に戻ろうか。もう乙夜いつやも過ぎたし、ちょうど就寝時だよね」



 彼女の反応に笑みを深くし、ぱしゃりと水音を立てた翔和は、湯を出ると、丁寧に足を拭く彼女を連れ、月明かりが注ぐ室内へと戻って行った。

 そこには既に仲居により整えられた布団が並び、寝室の装いとなっている。

 薄暗い室内はどこか雰囲気を誘うものの、今ここで艶事が始まるわけではないだろう。仮にもここは旅館であり、翔和がいきなり理性を失くすとは思っていない。

 だが、同じくらい眠れる気はしなくって……。


「おいで、雅月。せっかく温まったのに湯冷めしちゃうよ」

「は、はい」

「それとも、お姫様抱っこで布団に誘う……みたいな、恋愛小説っぽいことをしてみるかい?」


 緊張をしていると言ったわりに躊躇いなく布団の上に転がりながら、翔和は布団の一歩手前でもじもじする彼女を手招く。

 揶揄い混じりの言葉に雅月は首を振ったけれど、いつまでもこうしているわけにはいかない。

 やがて、ごくりと息を呑み覚悟を決めた彼女は、目を瞑ったまま素早く自分の布団に潜り込んだ。彼が隣にいるなんて、これ以上意識したら最後。睡魔に襲われるがまま、夢の世界に入ってしまいたい。


「……ひゃっ」

「手を繋ぐくらいは、許してね」


 しかし、そう思った途端手を握って来る翔和に、雅月は心の中で悶絶した。

 風がそよぎ、鈴虫の音色を遠くに聞きながら、二人の夜は静かに更けていく……――。





「……この微妙な空気は何だ、翔和」


 翌朝。

 予定通り真緒まおと合流した二人は、彼が同僚に聞いたという乙姫一甘い甘味処を目指し、舗装された道を歩いていた。

 案内兼護衛を仕事と心得ているのか、詰襟の制服に身を包んだ真緒は、しきりに周囲を警戒している。

 だが、合流する以前からずっと、目すら合わせようとしない雅月と翔和に、彼はつい、気まずさを抑えきれずに呟いた。流れる空気は険悪というわけではないけれど、なんとなく、表現しがたいぬるさが漂っている。


「いや、なんでもない。朝から思いがけない事態に見舞われて、ちょっと気持ちが追いついていないだけ。それより、警察官おすすめのカフェーとやらはまだなのかい?」

「もうそこだ。カフェー・月下香げっかこう。俺も来るのは初めてだ」


 すると、暗に耐え難いと言っているような真緒の問いに、翔和は言葉少なに呟いた。

 普段手を握って街を歩くような彼らがここまで微妙な空気を醸しているのには、もちろん理由がある。


 話は朝に遡り――陽光と小鳥の囀りに目を覚ました彼らが遭遇したのは、どちらからともなく寄り添い、眠る自分たちだった。翔和は雅月を腕枕し、彼女は抱きしめられるように腕の中で眠っていた。

 もちろん、完全に無意識での出来事だ。

 だが、無意識だからと言って許容できるわけもなく、互いに驚いて離れようとした途端、今度はうっかり翔和の手が雅月の肌に触れてしまい、大混乱に。

 心の中でひとしきり叫んだ彼らは、得も言われる気恥しさを抱えたまま、真緒と合流していたのだ。





「きゃあっ、美丈夫と美人さんのご来店やわ~」

「……」


 そんな経緯もあり、払拭できない照れを抱えたまま店内に入った雅月と翔和、そして真緒の三人は、いきなり上がった黄色い声に目を瞬いた。

 原色を使った派手な着物に、愛らしい前掛けを付けた女給たちは、取って食われそうな勢いで彼らに近付いてくる。乙姫はその地域性ゆえ、人との距離感が近い者が多いと聞くけれど、それにしても凄まじい勢いだ。


「……ねぇ、真緒。「甘い」の意味を履き違えてない? 本当にここが警察官行きつけなの?」


 どやどやと押されるがまま席へ案内され、手厚い接待をゴリ押ししてくる女給たちを丁寧にお断りすること十数分。注文にありつくまでえらく時間を要した翔和は、向かいに座る彼に、肩を落として問いかけた。

 既に甘味不足なのか、持参したメープルシロップを飲み始めた翔和は、微妙に疲れた顔をしている。


「そうだな。今の俺にはすまないとしか言えないが、この店を推してきた連中に言っておく。お嬢様、このような品のない場所にお連れしてしまい、申し訳ございません。ご気分を害するようでしたら、すぐにでも店を発ちますので仰ってください」

「ありがとう、真緒くん。でも大丈夫よ。甘味巡りは翔和たっての希望だからね」

「なんと慈悲深い……」


 友人である翔和には武骨、そして雅月には恭しく、真緒はまなじりを下げて謝った。

 確かにここらは帝都よりも接待に力を入れており、際どい恋人ごっこをしてくる女給もいるのだと聞いたことがあった。

 だが、派手に飾った化粧顔で迫られるのは、それを目的としていない翔和たちにとって、ご遠慮願いたいものである。



「お待たせしましたぁ」


 そう思い、メープルシロップで間を取り繕う翔和の元に甘味が運ばれてきたのは、それからしばらくのことだった。

 桃色で飾りが施された丸皿には無花果を添えたシフォンケーキとモンブラン、さつまいもタルトと秋の味覚たちが乗っている。


「うん、甘味は美味しそうだ。やけにハート形なのが品位に欠けるけれど……。雅月の水菓子もハートだらけだね。柿、梨、葡萄」

「そうですね。かわいいですけれど、殿方には少々合わないかもしれませんね」

「確かに。雅月が持つとかわいいね。こっち向いて?」

「た、食べづらいのでおよしになってくださいませ……!」


 どうやら店に入るまで漂っていた気まずさは、かしましい女給たちに霧散させられたらしい。

 いつの間にか平常運転で微笑む翔和と雅月に、向かいにいた真緒は気付かれないようため息を吐く。


 別にえて指摘する気はないけれど、自分は一体、何を見せられているのだろう。

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