第16話 初めてのお泊り

 汽笛の音を横目に駅の歩廊へ降り立つと、帝都とはまた違う雰囲気が二人を出迎えた。

 活気と喧騒に満ちたここは、帝国西部の県・乙姫つばき中心街の駅舎である。

 少し大きめの旅行鞄を持ち、辺りを見回した翔和とわは、雅月あづきに手を伸ばすと、その手をしっかりと握りながら言った。


「乙姫は方言と地域性が相まって、帝都よりかしましく感じるね。まずは母が馴染みだという旅館に向かおう。万全を期すべく僕の友人の警官を、そこに呼んであるからさ」

「か、畏まりました。周到ですね、翔和」


 すると、さりげなく指を絡ませる翔和の手に、雅月は頬を赤らめたまま頷いた。

 移動の際に手を繋ごうとするのはいつものことだけれど、繋ぎ方のせいか、普段より親密度が高いような気がしてしまう。もちろん、嫌だとは思わないけれど、指ひとつひとつを包む彼の手に、どきどきは止まらなくて……。


「あの、翔和。その旅館までは近いのですか? 辻車などを探した方が……」


 思わず気を逸らそうと、問いかける。

 途端、にこりと笑い、駅舎の傍に建てられた周辺地図を前に立ち止まった翔和は、現在地を確認しながら頷いた。


「母の話では徒歩十分以内。地図を見ればすぐ着くそうだよ」

「……」

「だけど僕地図苦手だからなぁ。旅館桐花きりばな、さっぱりわからないや」


 そう言って、自信満々な笑顔とは裏腹に首を傾げた翔和は、しばらくの間、地図の前に張り付いた。

 彼が言う旅館は、駅舎を出て目の前にある通りを直進し、突き当りに見えた大通りを左折、二本目の路地を右折することで辿り着く簡単なものだった。だが、この甘党は、帝国大学にこそ行かなかったものの、一部の者しか進学できない五年制中学校、その後の高等学校まで出ているにも拘らず、地図には疎い方向音痴なのだ。

 もっとも、記憶力には自信があるので、一度訪れたことのある場所は平気なのだが、全く初めての場所は驚くほどに辿り着けないのだという。


「うーん、そもそも現在地がよく分からないな」


 番頭から事前にそれを聞き、意外さに驚いていた雅月だったが、本気で悩み始めた彼に、その話が事実だと悟ったらしい。

 翔和にも苦手があるのね、とは言えなかったけれど、意外な姿に小さく笑んだ雅月は、道筋を頭に入れると、彼の手を引いた。


「参りましょう、翔和。この通りを進めば、辿り着けるような気がしますので」





「無事に着いたね。凄いや、雅月」

「ありがとうございます。とても素敵な場所ですね」


 雅月が先導する形で到着した旅館桐花は、数百年の歴史を持つ、風情ある旅館だった。

 大門には暖簾と大きな提灯が掲げられ、石畳を進んで玄関に着くと、柔和な顔立ちをした女将が出迎える。

 涼佳すずかの知り合いだという女将は、丁寧な挨拶と共に二人を招き入れ、雅月と翔和は客が行き交う内部へ。木のぬくもりを感じる玄関広間は、古風ながらも洗練された雰囲気が漂っていた。


「流石母が贔屓にしている旅館だね。これから三泊、世話になるよ」

「はぃ~。どうぞごゆるりとお過ごしくださいませ~。これよりお部屋へご案内……」

「あーっ、翔和くーん!」


 すると、翔和の微笑みに終始穏やかな表情を見せ、女将が客室へ案内しようとしたそのとき。

 玄関が開く音と共に聞こえてきたのは、溌溂とした少女の声だった。

 何事かと思い二人してそちらを向くと、黒髪をおさげにした二十歳くらいの少女が両手を広げ、一目散に駆けてくる。一心にこちら目指す少女は、人目をはばかることなく翔和に抱きついた。


「えへへ、やっぱり翔和くんだ。久しぶり」


 太陽の如き明るい笑みで顔を上げ、少女は嬉しそうに笑う。

 その横で雅月は動揺してしまったが、すぐ横から少女の首根っこを掴む人物が現れた。

 詰襟の制服に身を包んだ人物は、どこか呆れた様子で肩を竦め、


「こら、芽依子めいこ。婦女子が人前で何をやっているんだ。翔和に迷惑をかけるな。すまない翔和。妹がついて行くと聞かなくて……」

「だって久々の翔和くんなんだもん。会えて嬉しい~」

真緒まお。久しぶりだね。メイちゃん嫁入りしたって聞いていたから驚いたよ」


 と、明らかに温度差がある男女の姿に戸惑う雅月の一方、気を取り直した翔和は、笑顔で二人に声掛けた。

 どうやらこの青年が、翔和が呼んだ友人の警察官らしい。ぶっきらぼうながらも優しげな雰囲気を持つ青年に目を遣った雅月は、微妙な面持ちで妹だという少女も見遣る。

 やはり知り合いだったとはいえ、いきなり翔和に抱きつかれたことに動揺しているのだろう。その瞳が小刻みに揺れていた。


「……お嬢様?」


 だが、決して口にせず気丈に振舞う雅月に、翔和が紹介を試みようとした途端。

 雅月の存在に気付いた青年は、不意にそう呟いた。

 すると、その呼び方に引っ掛かったのか、しばらく首を傾げていた雅月は、やがて何かに思い当たった顔で目を見開く。


「え。もしかして、真緒くんなの? 萩岡はぎおか酒店の?」

「はい。覚えておいででしたとは光栄です。それにしても、お嬢様が翔和と知り合いとは……」

「雅月は僕の恋人だよ。真緒こそ、彼女とどういう関係なのさ」


 驚きのまま身を乗り出し、まじまじと青年――萩岡真緒を見つめる雅月に、彼が礼儀正しく頭を下げたのも束の間。

 視線を攫うように手を伸ばした翔和は、彼女を抱き寄せながら、不機嫌そうに問いかけた。

 どうやら自分にすら未だ敬語をやめない雅月の親しげな姿を見て、悋気りんきしているようだ。


「恋人……そうか。別にどうというわけではなく、子供のころ、家の手伝いで天宮あまみや家に酒を届けに行った際、何度かお話させていただいただけだ」

「なるほど。幼馴染みってわけね。ふーん」

「でも、真緒くんが警察官になっていたなんて驚きだわ。翔和とは古い付き合いなの?」


 刈り上げた短髪をゴリゴリと掻き、正直に話す真緒と、不機嫌そうな翔和。そんな二人を交互に見遣った雅月は、どことなくぎこちない雰囲気を気にしながらも声掛けた。

 雅月の知る真緒は酒屋の三男坊で、文武に優れ、特待生で中学校に進学したということくらいだ。伯爵家の跡取りである翔和とはどこで知り合ったのだろう。


「真緒は僕の尋常小学校からの先輩だよ。二つ上で、中学校までは同じ学び舎にいたんだ。だけど真緒はそのあと警察官の試験を受けて……。あ、妹のメイちゃんは僕の同級生ね」

「やっと私の出番っ。にぃからお嬢様の話は聞いたことあります。翔和くんの恋人志願者だったけど、フラれちゃったな~これは」

「……」

「芽依子、変なことを言うな。すみません、お嬢様、お見苦しいところを。翔和からは話を聞いて、明日の甘味巡り、私が護衛をさせていただきますのでご安心ください」


 どちらかと言えば寡黙な真緒とは正反対の、快活な芽依子にたじろぐ気配が伝わったのか。翔和の説明を聞いた途端手を伸ばす妹を制し、真緒は本題を提示した。

 そもそも今回彼が呼ばれたのは、より安全に乙姫での甘味巡りを楽しむためだ。予想外のことに本題を忘れていた翔和は、ここが旅館の廊下であることも思い出しながら言った。


「あぁ、そうだ。そのために顔合わせとして来てもらったんだよね。でもまさか雅月の幼馴染みだったなんて……うん、でもそれも済んだし、僕たちは部屋に行こうか。真緒、一応明日よろしく」

「分かった」





 外泊旅行初日からざわめく心を何とか律し、雅月を連れた翔和は、離れにある一際豪奢な客室へと通された。

 外に露天風呂が付いたこの部屋は、主に華族が利用する上等なもので、室内に置かれた茶器や花瓶を始め、名工たちの作品で溢れている。

 だが、藺草いぐさの香りがする室内へと入った雅月は、ここでふと気になったように問いかけた。


「あの、翔和。もしかして、この一室で過ごすのでしょうか?」

「ん? うん。何か問題でもあったかな?」

「……」


 雅月の不安を知ってか知らずか。わざとらしく小首をかしげた翔和は、笑顔で彼女の傍に歩み寄った。

 その反応に雅月は顔を赤らめてしまったけれど、彼は何を考えているのだろう。

 雅月と翔和はひとつ屋根の下で暮らしていれど、寝室を共にすることはない。なのに初めてのお泊りで同じ部屋だなんて、一気に羞恥が沸き起こって来る。


「ねぇ、雅月。きみは僕のこと何だと思ってる?」

「え……?」


 すると、動揺と羞恥にかられ、襖に背を付けたまま微動だにしない雅月に、翔和はふとそれを確認した。真意を図りかねる雅月は首を傾げてしまったけれど、そんな彼女を見つめ、翔和はなおも真剣な顔で告げる。


「僕はね雅月、きみと口づけしたい」

「ふえっ!?」

「それだけじゃないよ。もっと恋人らしくなりたいし、もっと親密な関係になりたいと思うときだってある。でもきみは、まだ僕のお供って気持ちの方が強いんじゃないかな? この三ヶ月、僕の恋人って意識したこと、ある?」


 顔を赤くする雅月を間近に覗き込み、翔和は正直に言葉を紡ぐ。

 言葉ひとつを聞く度に雅月は身じろぎ、遂には視線を逸らしてしまった。


「そ、それは……」

「そんなきみに無理強いはできない。だからさ、はっきり言うよ。僕はきみと本当の恋人になりたい。そして口づけしたい。西洋菓子博覧会と同じくらい大きな目標さ」


 雅月をまっすぐに見つめ、彼は断固として言い切った。

 正直、翔和がこんなことを言ってくるなんて、本当に予想だにしなかった。

 なぜなら翔和は甘党の怪物。しかも結婚には興味がない、保証しないと断言していたから、恋人同士の甘いあれこれにも興味がないと思っていた。

 だけど翔和も、人並みにそう思うことがあるなんて……。


(翔和の恋人……翔和とおおおお付き合いしているってことよね!? 確かに私、翔和を私だけのものにしたいって言ったわ。でも、こ、恋人……!)


 そっと小豆色の髪に触れ、柔らかく咲笑う翔和に雅月は心の中で叫ぶ。

 おそらく彼女は、大好きな彼をこれ以上意識しては身が持たないと、無意識に恋人から目を逸らしてきたのだろう。

 しかし、宣言された以上、目を、逸らすことなんて……。


(あ、穴があったら埋まりたい……!)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る