第4話 寂しいとは言えなくて

 細い三日月が夜道を照らす静かな夜。

 人気のない廃倉庫の一角で、男は報告に目を瞬いた。


天宮あまみや雅月あづきの借金を、小切手一枚で肩代わり……!?」


 装飾の目立つ大きなソファに腰を下ろし、ドレス姿の女を傍に煙管キセルを吹かす男は、聞かされた報告に心底驚くと、手下を前にひとりごつ。

 天宮雅月と言えば、これまで見て来た女たちの中でも、とりわけ返済不可能なほどの借金を抱えていたはずだ。それこそ大人しく売られたとしても、一生遊郭から出られないほどの借金が。

 器量の良い元華族の娘の末路に笑んだのも束の間。その窮地を御代みしろ翔和とわの手助けでいとも容易く脱するなんて。


「ふぅん。御代家の跡取りが天宮雅月を気に入った、ってことかしら……?」


 すると、高慢そうな釣り目に派手な化粧、華美なレースが印象的な女は、男に寄り添ったまま口を開いた。気怠げなその口調とは裏腹に、手下を睨む黒い瞳には不満が宿り、雅月の現状を快く思っていないことが窺える。

 一方、そんな彼女の髪を優しく梳いた男は、まるで慰めるように言った。


「だが御代家の坊ちゃんと言えば、とんでもない甘党の怪物で、これまで女の話なんて影すらない変人だと聞いたぞ。ありえるか?」

「さぁ。でも、彼のおかげで天宮雅月が自由を手に入れたのは事実でしょう? うふふ、興味あるわね。今度私も、御代翔和に会いに行ってみようかしら……」


 不吉な笑みを浮かべ、女が呟く。

 小首をかしげた途端、がさらりと揺れて、彼女の周囲を彩った。

 悪意と思惑に満ちた密会は、まだ、続くようだ――。





「雅月! 今日は花澄かすみ通りの純喫茶に行こう! そこのワッフルが美味しいんだ」

「本当に毎日飽きませんね、翔和。もちろん付き添いますので、まずはお仕事、行ってらっしゃいませ」


 謎の密会からしばらく。

 不穏なやり取りなど知る由もない御代家では、朝食を終えた途端、純喫茶と言い出す翔和に、雅月が呆れ半分で頷いた。


 宣言通り、翌日から彼の甘味巡りに付き合わされている雅月は、翔和の異常な甘党ぶりに度々度肝を抜かれつつも、平和にお供を続けている。

 もっとも、雅月が思ったように、四六時中甘味を求めふらつくわけでもない翔和は、午前中は呉服屋の方に出て仕入れの確認をしたり、商品の配置を見直したりと忙しい。

 もちろん、その間も甘いものを口にしていることは言うまでもないが、思ったよりも仕事には真摯に取り組んでいるようだ。


「ありがとう。いつも通りお昼前には戻って来るよ」

「はい」


 道理でこれだけ純喫茶やカフェーを巡っていても、放蕩息子なんて言われないわけだわ……。などと内心感嘆していることはさておき、相変わらず無表情で頷く雅月に、翔和は少しだけ屈むと、優しく彼女の髪を撫でた。

 雅月を見つめる翔和の視線は穏やかな慈しみに満ち、彼が持つ端正な顔立ちも相まって、うっかりすると見惚れてしまうほど美しい。

 だが、日々される近しい距離感に、自分なりの解釈を見出していた雅月は、何とか無表情を装うとひとりごちた。


(やはり翔和には、歳の近い女の子の知り合いがいないのかしら。距離感が上手く掴めないせいでこんな……。嫌だとは思わないけれど、少し心臓に悪いのよね)


 出掛けるときもやたら手を繋ぎたがる翔和の行動や、幼い妹のように撫でられる頭。嫁入りが決まった彼の従妹は十五歳と聞いたけれど、女の子を扱う基準が、そのくらいの年齢感なのかもしれない。

 今年で齢十八となる雅月としては複雑だが、そう思うと変に動揺せずに済むのも確か。

 ひとしきり髪を撫でた後で仕事に向かう翔和を見送った雅月は、気持ちを切り替え、家事に邁進するのだった――。





(ふぅ、本当に広いお屋敷。廊下を掃除するだけでも一苦労だわ……)


 一人きりになった途端、数倍広く感じる屋敷を黙々と掃除する。

 桜を散らせた珊瑚色の着物に、西洋を思わせる白い前掛けをまとう雅月は、雑巾を片手に息を吐くと、空を見上げた。時折庭の桜花が風に舞う景色は美しく、小鳥の囀りが、穏やかな春を感じさせる。

 精霊木だという桜から舞う花びらは、心なしか淡い光を帯びているようだ。


(……楽しそうね)


 すると、呉服屋の方から聞こえてくる楽しげな笑い声に、気付いた雅月は心の中で呟いた。

 その途端、自分を律するようにかぶりを振り、深く、息を吐く。


 これまで彼女は、借金取りたちに見つからないよう、極力人と関わらずに生きてきた。

 生活のために仕事をすることはあっても、決して長くは留まらず、すぐに姿をくらませる。かび臭い長屋での生活や、日銭稼ぎをしていたころに比べれば、たった数時間のひとりきりなど、造作もないことのはずなのに。

 翔和と出逢い、日の当たる生活に戻り始めたせいか、遠くで聞こえる声と、傍に漂う無音が、久々に孤独を掻き立てた。


(いいえ。私はただ孤独や理不尽に泣くような、弱い女の子ではいたくないの。どんな状況だろうと、虚勢だろうと、女の子だって強くなければ……)


 だが、これまで散々言い聞かせてきたことを思い出すように、ぎゅっと手のひらを握りしめた雅月は、睨みがちに前を見据え、呟いた。

 普段から表立って感情を見せようとしないのは、弱さを見せまいと生きてきた、彼女なりの処世術。泣いたところでどうにもならないことは十分に思い知っていたし、弱さを見せれば、付け込もうとする人間も必ず現れる。


 尤も、翔和には今のところ裏表もなく、まるで雅月が対等であるかのように接してくれているけれど、まだ出逢ってひと月余り。

 彼の優しい手と言葉を、素直に信用することは、できなかった。



「おや、涙ぐんでどうしたの?」

「……!」


 すると、廊下に佇む雅月の元へ、しばらくして高山帽を持った翔和が現れた。気付くと時刻は昼前となり、呉服屋の方から歩いて来た彼は、すっかりお出掛け準備万端といった様子だ。


「何でもありません」


 その一方、まなじりの涙を見つけて手を伸ばす翔和に、雅月は慌てて顔を逸らすと、つい、突き放すように呟いた。

 先ほどの思案のせいか、彼に弱さを見せたくない、そんな感情が前に出てしまった。

 だが、驚いた顔で目を丸くする彼を見た雅月は、


「時間ですね。すぐに片付けますので、玄関にてお待ちくださいませ」

「雅月……?」


 取り繕うように言うと、持っていた雑巾と水入れを手に踵を返す。

 その間も翔和は視線だけで何かを訴えているものの、決して振り向かず、廊下を曲がり、身支度を整えた彼女は、何事もなかった顔で、玄関で待つ翔和に並んだ。

 頑なにいつも通りを装おうとする彼女に、翔和はえて何も言わなかったけれど、また半ば強引に繋がれた手に、少しだけ力が入っているような気がした……――。





「こちらご注文の、ワッフルの盛り合わせでございます!」


 目的地である純喫茶・花澄かすみは、御代家から徒歩十分ほどの通りにあった。

 精霊信仰にあついこの国では、精霊たちが草木や花に多く宿るという伝承から、地名や店名に植物の名を冠している場合が多い。

 この店もまた例外ではないようだが、人々は商売繁盛や土地の安寧を願い、植物の名に想いをかけるのだ。


 それはさておき。純喫茶へと着いた翔和は早速、ワッフルにバニラアイスと生クリーム、苺ソースをかけた、いかにも甘そうな甘味を注文する。

 木のぬくもりを感じる店内と、接待を伴わない和やかな雰囲気が特徴の純喫茶は、翔和のお気に入りのひとつだ。

 やがて、給仕が運ぶ四角い皿に目を輝かせた翔和は、雅月に頼んだ紅茶と水菓子が来るのを待ってから、フォークに手を掛ける。


「何回来ても、ここのワッフルは抜群に美味しいんだよね。雅月も遠慮せずに食べて。他に食べたいものがあったら、何でも注文していいからね」

「……ありがとうございます」


 すると、いつだって紅茶しか頼まない彼女を見かね、いつからか勝手に水菓子を添えるようになった翔和に、彼女は礼を告げると、そっとオレンジペコを口にした。

 柔らかい口当たりと心地よい香りに、沈んでいた心がほんの少し上を向き、表情が和らぐ。


「さて、じゃあ僕も仕上げに掛ろうかな~」


 と、そんな雅月を見つめていた翔和は、優しい笑みと共に、ウエストポーチからジャムの缶とメープルシロップのビンを取り出した。そしていそいそと蓋を開け、ひっくり返すほどの勢いでシロップとジャムの塊を乗せ始める。


 普通、店舗で出された甘味に対し、手を加える客なんて皆無だろう。

 だが、この帝都一の甘党は出されたものだけに飽き足らず、浸るほどにジャムやシロップをかけて食べるのが常。そればかりか、食事時以外の飲み物は、シロップを煮詰める前のメープルウォーターと徹底している。

 初めこそ、この舌が焼けるような甘みの塊に目を丸くしていた雅月だったが、ひと月もそれが続くと、身体は慣れてくるものだ。

 漂う甘い香りを前に、切子グラスに盛る水菓子へと視線を移した彼女は、さくらんぼを口にしながら、幸せそうな翔和を見守った。





「ねぇ、雅月」

「なんでしょう?」


 その帰り道。

 常人には考えられないような甘みの塊を平らげ、帰途に着く途中で、翔和はふと彼女の名を呟いた。そして、握る手にぎゅうと力を込めた彼は、まっすぐに雅月を見つめ、笑う。


「僕には遠慮しなくていいんだからね」

「……!」


 まるで、すべてを見透かしたように、翔和は前触れなく宣言した。

 その、慰めるでも言及するでもない言葉に、雅月の丸い瞳が、大きく見開かれる。


 きっと翔和は、薄く涙を浮かべた雅月を見て、彼女の孤独に気付いたのだろう。だけど、無理にでも強がろうとする雅月に、下手な慰めは逆効果。

 だからこそ、信頼してほしいとの願いを込めて言う翔和に、雅月はぎゅっと、繋がれていない方の手を握りしめる。不意を突く優しい言葉に、また、涙腺が緩みそうになった。


(どうしてこの人は、こんなにも優しく接してくれるのかしら……。私は、あなたにとって、ただ甘味に付き合う「お供」それだけでしょう……?)

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