第5話 月のない夜に
――僕には遠慮しなくていいんだからね。
不意を突く
純喫茶を後に
手を動かしている間は集中しているせいか、余計な思案も孤独も感じずに済むけれど、一度開きかけたこの感情を押し込めるのは、簡単なことではないらしい。そして、翔和に対し
(……いいえ。翔和はきっと、誰に対しても隔てなく優しさを持てる人なのよ。ご友人関係は分からないけれど、奉公人は皆、翔和を信頼しているようだし……。きっと、私が変に沈んでいたから、お気を遣わせてしまったのね)
「ねぇ雅月、明日はちょっと遠出して、
すると、茹でたアスパラガスを切りながら、また自分なりの結論を出そうとする雅月の元へ、不意に翔和が顔を出して言った。
ちょうど呉服屋の仕事にひと段落がついたのか、葡萄味の棒付きキャンディを舐める彼は、いつものスーツから、部屋着用の着流しに服装を変えている。
「茗花ですか? 私は構いませんが、お仕事の方はよろしいので?」
「まぁ、毎日仕事ばかりじゃつまらないからねぇ。人生には適度な甘味も休暇も大事。雅月だって、ずっと家のことばかりじゃ疲れちゃうでしょう?」
「いえ、私は……」
「奉公人たちにも週に二回は暇をやっているんだ。僕だって休みたいし、茗花には有名な
あくまで自分が休みたい体を装い、翔和は半ば押し切るように笑顔で雅月をまくし立てた。
このひと月、彼女は何度言っても休むことなく屋敷の掃除に精を出し、朝晩の食事の支度も、翔和の甘味巡りも、文句ひとつ言わずに動いている。
だが、行き過ぎた頑張りはときに疲れを
「……分かりました。私はあなたについて参りますので、それが翔和の望みであれば、どこへでも」
「ありがとう。じゃあ明日は汽車でお出掛けだね。楽しみだな」
「……」
そうして、隣県・茗花までのお出掛けに気を良くした翔和を見遣りながら、雅月は夕食を仕上げると、居間に向かって食事を運び出した。
翔和は名目上、自分が休みたいからと言っているけれど、この状況での提案は、否が応でも自分に気を遣っているのではないかと勘繰ってしまう。もちろん淑女として、相手の厚意を変に追及するような、はしたない真似をするつもりはないけれど、弱さの欠片を見せてしまったことに、雅月の中で不甲斐なさと後悔ばかりが募っていった――。
――その夜。
食事の片付けと長めのお風呂を経て、与えられた部屋へと戻った雅月は、折を見て近くの縁側に腰かけると、月のない空を見上げていた。
傍に灯した蝋燭の小さな明かりと共に、煌めく星空を見つめる彼女の頬には、幾筋かの涙が零れている。
(やはりダメね……。一人になった途端、寂しさと不甲斐なさに押しつぶされそうだわ。でも、仮にも元華族の娘が、そう簡単に泣いていいわけないのよ、雅月。早く、いつも通りの自分に戻りなさいな……)
だが、傷心を自覚しながらも必死に堪えようと
清く正しく、そして、誇り高く強かに。それは父が掲げていた、華族としての矜持。
子供のころ言い聞かされてきた父の言葉に、雅月はずっと囚われている。それが目標であり、鎖でもあると、分かってはいたけれど。
しかし、突然父を、家を失い、華やかな生活から地の底まで
一筋の涙が零れ、優しい春風が、彼女の頬を乾かしていく。
明日、翔和に会うまでには、心を持ち直さなくてはいけないのに……。
「慰めてあげようか?」
「……!」
すると、懸命に涙を堪えるべく空を見上げる彼女の背後から、不意に優しげな声が響いた。
時刻はとうに
驚いて振り返ると、鳶色の着流しを纏った翔和がいて、彼はしゃがんだ姿勢で間近に自分を見つめている。
困ったような微笑みは、新月にあっても美しくよく見えた。
「翔和……」
「やっぱり泣きたかったんだねぇ、雅月。昼間、いつもと様子が違っていたから、心に限界が来ているんじゃないかな、とは思っていたんだ。言ってくれればいつでも慰めたのに」
「……!」
さりげなく彼女の隣に腰かけ、瞳に浮かぶ涙を拭いながら、翔和は
こんな時間だというのに、彼からはキャラメルのような甘い香りがした。
「大丈夫だよ、雅月。ここにはきみを脅かす人も、怖い思いをさせる人もいない。安心して弱さを見せてごらんよ。きっと、心が楽になるからさ」
「……!」
包むように彼女を抱き、時折吹く風に
それはたぶん、雅月にとって簡単なことではないだろうけれど、せめてこちら側の誠意を見せなければ、彼女はこの先もずっと、強がりを続けるだろう。そしていつか、誰に寄りかかることもなく壊れてしまう。
だからそうなる前に、せめて自分にだけでも、心を開いてほしいと思った。
「翔和、あの……」
「まぁ僕も、偶然通りかかっただけにも拘らず、突然きみの借金を肩代わりして、従わせたような部分もあるからね。すぐには難しいのも分かっていた」
「……」
「でもね、そんなに頑張らなくたっていいんだ。我慢しなくたっていい。僕はきみと、心穏やかに過ごせたら、それだけで十分なんだ。本当はずっと、甘味巡りに文句ばかり言われてきたから、否定しないでいてくれるだけで、嬉しいんだ」
懸命に心を解きほぐそうと腕に力を籠め、翔和は自分の想いを口にした。
いつだって飄々と見える翔和も、理解されない甘味への執着に、心が折れそうなことはあった。ただ好きを突き詰めただけなのに、人と違う感性は、それだけで忌避の対象となる。
幸い翔和の両親は、一人息子を甘やかしている節があるので、雅月のように家族が敵に回ることはなかったけれど、文句と好奇の目は、身分もあってそれなりに付き纏う。
だけど雅月は、そんな翔和の嗜好を決して否定しなかった。
食事を取るよう進言したり、ジャムの直食いに驚かれることはあっても、彼女の視線から嫌なものは感じない。
「……人の感性はそれぞれですから。好きを否定する権利は、人にはないと思いますわ。でも、本当にそれだけで、あなたのお役に立てているのでしょうか……?」
風に吹かれていたせいか、心に沁みる彼の言葉とぬくもりに戸惑いながら、雅月はやがて、囁くように呟いた。
頑張らなくたっていい。その言葉に心は随分軽くなっていたけれど、反面、まだ信じきれない自分もいる。そのくらい、彼の出した額は大きかった。
「もちろんだよ。家のことをしてくれるのも嬉しいけれど、我慢するきみは見たくない。一人が寂しければ、一緒に店頭で働こうか?」
「それは……」
「ん?」
「私、申し訳ないほど、被服センスに乏しいので……。ご遠慮申し上げますわ」
「フフ、そっか。だからいつでも着物は、
半信半疑ながら、それでも少しずつ言葉を受け入れようとする雅月に、翔和は笑うと、彼女の頭に頬を乗せ、さらに強く抱きしめた。胸に埋まる雅月は、何度か目を瞬いているものの、拒む様子は見られない。
それに気付いた翔和は、しばらくして彼女を離すと、冗談のように笑って。
「拒まないんだね、雅月。このまま襲われちゃうかもしれないのに」
にこりと微笑み、
だが、恥じらうかと思いきや「その心配はしていませんわ」と前置きした雅月は、不思議顔を見せる翔和に、以前聞いた噂を口にした。
「なぜなら翔和はすべてを差し置き、ひたすら甘いものを求め続ける甘党の怪物。……そういう噂は、女学校時代に聞いておりました。だからここで暮らすことはもちろん、二人でお出掛けすることにも、抵抗はなかったのです」
涙を浮かべた瞳に冷静さを宿したまま、彼女は翔和相手だからこそ平気でいられる理由を簡潔に告げた。
つまり、
と、雅月が知る情報に苦笑を見せた翔和は、不意に挑戦的な眼差しを見せた。
そして、ほんの少したれ目がちの青黒い瞳に妖艶な光を乗せ、口を開く。
「なるほど。でも僕は、甘そうなものには何でも惹かれるんだ。それが甘味だけとは限らない」
「……!」
「例えば最初に言ったけれど、きみの名前は甘くて美味しそうだ。きっと、きみ自身も甘いんだろうな。だからさ、いつか僕が、きみを甘く溶かしてあげる。いつかきっとね。だからほら、もう泣き止んで。明日は茗花まで行くんだから。汽車に乗り遅れたらことでしょう」
真剣な顔で、口説くように、翔和は彼女を間近に見つめ、囁く。
直後に向けられた笑みを含め、愛しげな表情に、思わずどきりとしてしまった。
それはたぶん、慰めてくれた彼に、ほんの少し心を許しかけた結果なのだろうけれど、それにしても破壊力の高さは言い知れない。
涙の代わりに、頬が紅潮する気配を感じて、雅月はつい視線を逸らした。
きっと今夜は一睡もできない気がする。
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