第3話 妹とチョコレート
「妹……?」
甘いものを買うための借金。その言葉を聞いた途端、卓袱台に置かれたジャムやシロップを見遣る翔和の表情に、複雑な色が浮かぶ。
だが、それに気付かないフリをした雅月は、コクリと頷くと、その続きを語り出した。
「はい。私とは半分だけ血の繋がった、母親違いの妹ですが……。あの子は、
「……」
「そんな妹が最も欲したものはチョコレートでした。甘い甘い……でも私にとっては甘くない、チョコレート。それを買うために、あのような連中からお金さえ借りたりしなければ、私がこんなにも苦しむことは、なかったのに……」
小豆色の瞳をそっと伏せ、彼女は苦しげに俯く。
――雅月が追われる身となったのは、今から三年前のこと。
未だ国内製造など始まりもしないチョコレートは、庶民の手など届くはずもない高級品だ。欧州から個人で輸入しようとすれば、莫大な金がかかるだろう。
だが妹は何かの伝を使い、欧州産のチョコレートを手に入れていた。
もしかしたらあの子には、雅月も及び知らぬ裏があったのかもしれない。
「そうか……」
チョコレートの説明にひどく表情を曇らせ、雅月はすべてを吐露した。
きっと彼女にとって甘いものとは、この三年間を彷彿とさせる、苦々しいものなのだろう。それならば、甘いものが不得手と言った彼女の言葉も必然と思える。
それでも、翔和に付き合うと決めた雅月の気持ちに胸が痛んだ。
(……僕としては純粋に、文句を言わずにお供をしてくれる相手が、欲しかっただけなんだけどなぁ。いや、本当は……。でも、助けたって名目なら、従ってくれると思ったのも事実。悪いことをしてしまっただろうか)
間を取り繕うように紅茶を含む雅月の切ない表情を見つめ、翔和は心の中でひとりごつ。
これまでの甘味巡りでは、少し年下の従妹に同伴してもらいながら、また甘味なのかと日々文句を言われていた。
だからこそ彼女の嫁入りが決まり、新たにお供を探さねばと思ったとき、彼が求めた条件は「従順」だった。
もちろん、盲目的に従う従者や、媚び
だから借金取りに追われ、今にも身を投げそうな雅月を見たとき、彼女ならと直感した。そしてそれは、間違いではなかった、けれど……。
「チョコレートは甘くない、か……。帝都でもそんなことを言うのはきみだけかもしれないね。でも、事情は分かったよ。ごめん」
「……! 翔和が謝る必要は」
「いいや。だって雅月、本当は甘いものを見ているの辛いんでしょう? これまでの言動からして、今さらきみが身を引くとは思わないけれど、せめて謝らせてほしい」
雅月の事情と自身の心情、それらを心の中で整理した翔和は、持っていたフォークを皿に置くと、丁寧に謝罪した。
行き当たりばったりの申し出とはいえ、翔和は少なくともこの条件が、借金取りに追われるほどの苦にはならないだろうと思っていた。
だが彼女にとってはきっと……。
「……お気になさらないでください。私は決して、甘味を好んでいらっしゃる方が嫌いなわけではないのです。多くの場合、甘さは人に幸福を
「……!」
「だから私は、あなたの恩に報いると決めたのです。どうか顔を上げてくださいまし」
すると境遇のせいか、元からか、愛らしくも笑みさえ浮かべない表情に、ほんの少しの穏やかさを湛え、雅月はそう言い切った。
過去の話から、翔和は勝手に彼女の苦楽を決めつけてしまったけれど、その出来事が幸か不幸かを決めるのは自分自身だ。たとえ妹とこの三年間が彼女の苦だとしても、翔和とのこれからが苦だとは限らないし、苦にはさせたくない。
青みがかった黒い瞳を彼女に向け、心で決めた翔和は穏やかに咲笑った。
「……ありがとう。じゃあ最初の申し出通り、明日からは甘味を巡ろう。昼食が終わり次第家の中を案内するね」
心の中で本来の目的とは違う、何か別の決意が宿る気配を感じながら、昼食を終えた翔和は、言葉通り屋敷の中を案内していった。
御代家の別邸だというここは、古くからの書院造が印象的な平屋で、広大な敷地面積を持つ豪邸だ。家具・様式含め和で統一された室内は、翔和の一人暮らし故、若干のごちゃつきや埃が見られるものの、大いに目を伏せるほどではないだろう。
明日から早速掃除をしようと、渡り廊下を進みながら見当を付ける雅月の視界に、今度は美しい回遊式庭園が映った。
「綺麗な庭と桜でしょう。この木には精霊が宿っていると言われていてね。願い事をすると、精霊が力を貸してくれるんだそうだよ。
「……!」
「あ、せっかくだから、あとで草団子でも買ってきてお花見しようか。雅月も御手洗団子なら食べられる?」
すると、視界に映る池や鹿威し、そして満開の桜を見つめ、翔和はいいことを思いついた顔で提案した。
だが、さらりと話す精霊木に、雅月は驚きを隠せない。
翔和が言うように、この国では神仏に並び、精霊信仰が広く浸透している。
様々な自然に宿るという精霊は、時に人に加護を与え、子々孫々を見守るのだという。
だが、精霊が宿る木など、本来特別な場所にしかないものだ。
加護を受けた武人が天下統一の一翼を担った、などという御代家の逸話も、真実なのかもしれない。
「……食べ、られますけれど、翔和って、きちんとした食事はいつ取られているのです? 甘いものばかりでは身体を壊しますよ」
何気ない説明だったせいか、それ以上何かを問うわけにもいかず、
先程あんなにも甘いお昼を食べた後だというのに、おやつもまた甘いもの。帝都一の甘党の名は伊達じゃないと思いながらも、少々不安になってしまう。
「え? 僕としては常にちゃんとした食事のつもりだけれど……?」
「……」
しかし雅月の疑問に、翔和は心底不思議そうに呟いた。
どうやら彼にとって、甘みの塊のようなあれが「ちゃんと」の概念らしい。常人の感覚からはかけ離れたそれに、思わずため息を吐いた雅月は、余計なお世話を承知でつい口を挟んだ。
「お米やお魚、お野菜も食べないとダメですよ。今はよくても、いつか身体に影響が出て、甘味巡りができなくなったら困りますでしょう?」
「そ……」
「翔和が病気になれば、悲しむ方はたくさんいると思います。私の立場でこれを言うのは違う気もしますけれど、ご飯も食べてくださいね」
今までのやり取りを通し、多少の進言なら許されると思ったのか、雅月は真面目な顔でそう説いた。
妹のような自分本位な甘党なら、五月蠅いと一蹴されて終わりだろうが、翔和は人を気遣う心を持った甘党だ。御代家の跡取りという立場も含め、言わずにはいられなかった。
「なんだか奥さんみたいだねぇ、雅月」
「えっ」
「まぁ、きみの言うことは分からなくはないけれど、僕、お茶を淹れる以外で台所使ったことないんだよ。きみが作ってくれるって言うなら、ご飯食べてもいいかな?」
と、彼女の話にしばらく間を開けた翔和は、しみじみ呟いた後で提案した。
正直に言って、最後にしょっぱいものを食べたのは、おそらく半年以上前……実家に呼び出されたときの夕食くらいだろう。味も思い出せないようなご飯を食べたいとは思わないけれど、真面目な雅月の真面目な進言を、なんとなく無下にはできなかったようだ。
さりげなく手料理を所望していることはさておき、彼の思わぬ発言に目を丸くした雅月は、一瞬迷う素振りをしながらも頷いた。
「……分かりました。ではこの後、散策
ということで、屋敷の案内をされ終わった雅月は、覚えていた団子のことも引き受けると、店に呼び出された翔和と別れ、周囲を把握するように街を歩き出した。
帝都・
女学校時代に幾度か来たような、という曖昧な記憶を頼りに店を回り、お団子も買いつつ必要な食材をそろえた彼女は、やがて敷地の裏門から御代家へ戻った。
翔和はまだ呉服屋の方で仕事をしているようだが、このままでは手持無沙汰だ。柱時計の時間を確かめた雅月は、少し早い時間だと思いながらも夕食の準備にかかった。
「……うん。美味しい」
店の方に捉まっていた翔和が戻って来ると、時刻は
お団子は夜桜見物まで一旦保留とし、緑茶と共に食事を運ぶと、翔和は出されたお魚を食べて呟く。
今日の夕飯は魚の塩焼きと、人参の浅漬け、菜の花の和え物、豆腐、白米と健康的な布陣で甘めのものは一切ない。だが、文句の欠片もなく次々と口に運んだ彼は、お茶を啜って言った。
「雅月って、料理も上手なんだね。とっても美味しいよ。それに、しょっぱいものを食べると甘いものも一層恋しくなるし、ご飯も悪くないかもね」
にこりと満面の笑みで、向かいに座る雅月に告げる。
数時間前も思ったことだが、相手が御代翔和でなければ、褒め言葉にときめいたかもしれない。だが、一先ずは美味しくないと言われなかったことに胸を撫で下ろし、雅月は箸を置くと礼を告げた。
これが新しい日常の一日目。
明日からは甘味巡りのお供をしつつ、翔和への恩も返したい。
やるべきことを幾つか頭に浮かべながら、雅月は幸せそうな翔和を見遣った。
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