第8話 いちごいちえ
「いらっしゃいませ」
来店した老婦人に挨拶をした。
杖をついた老婦人がニコっと笑う。
「あら、今日は珪ちゃんがいるのねぇ」
「毎週水曜日と木曜日、土曜日に働かせていただいてます。
何をご注文されますか?」
「カプチーノでお願いできるかしら」
「かしこまりました」
注文を承ると、俺は厨房にいる店長に声をかけた。
「店長、カプチーノを一つ」
「了解。出来上がるまで待っててね」
店長はあらかじめ作っておいたエスプレッソをカップに注ぐと、牛乳を泡立つまで泡立てた。そして、温めた牛乳をカップに注いで泡を浮かせる。
出来上がったカプチーノを俺は老婦人の元へ運んだ。
「お待たせしました。
こちら当店自慢のカプチーノです」
「いつもありがとねぇ。
お陰で穏やかな夕方を過ごせるわぁ」
「本当に嬉しい限りです。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください」
俺は和かに微笑みかけると、厨房の定位置へ戻っていった。
「なんだ、あの下手くそな営業スマイルは。
詐欺師みたいな笑みかと思ったぞ」
「無愛想に接客するあろえさんよりはマシですよ」
少し
あまりの痛さに声が出そうになる。
「いらっしゃいませ〜」
俺を痛めつけながら、このドS美人は丁寧に挨拶をする。
もうパワハラで訴えようかな。
俺がバイトしている喫茶店『いちごいちえ』は須磨海浜公園駅から徒歩六分、国道二号沿いにある。
店内はレトロな雰囲気で地域の住民がよく利用する。
この喫茶店の影響で、俺は喫茶店の店長になりたいと決意した。
「あの、いい加減踏むのやめてもらえませんか」
俺は隣でコーヒー豆を
この人は
不良みたいな見た目をしていて、口調も男っぽい。
もちろん、頭はそんなに良くない。
「あ、すまん。すっかり忘れてた」
あろえさんは最後に強く踏んでから、ようやく解放してくれた。
「大学でもこういう風に暴力振るうんですか?」
「振るう訳ないだろ。
大学ではクールビューティーを演じてんだよ」
「なんか可愛いですね。
あろえさんが頑張ってクールビューティー演じてること」
「何笑ってんだよ。
珪君の眼球に熱々のエスプレッソ注いでやろうか?」
「冗談でもそんなこと言っちゃダメだよ、あろえちゃん。
それはエスプレッソに対する
店長に叱られて、「すんません」とあろえさんが落ち込んだ。
それを見て、少し愉快な気分になってしまった。
自業自得。
「高槻君、学校はどうだい?」
「特に何もないですね。
強いて言うならば、最近美術部員の絵を鑑賞するのにハマってます」
「おや、いい意味で高槻君らしくないね。
君は芸術的なものより、スポーツが好きだと思っていたよ」
「間違ってませんよ。
今でも、サッカーとか野球の方が好きです」
ただ、異世界行くために見えない絵を描いてる同級生がいたら、誰でも気になるよねってだけだ。
俺は芸術の『げ』の字もわかってない。
「私も絵、特に風景画が大好きでねぇ。
店の壁に飾ってしまってるくらいだ」
店内の壁には一枚の絵が飾られている。
夕暮れの空に高く
「あの絵いいですよね。
穏やかな気分になります」
「私は写真よりも絵の方が魅力的だと思う。
実際の風景とはまた違った良さがあって、描いた人が何を想像しながら筆を走らせたのか、想像するだけで楽しい」
店長は穏和な笑みを浮かべながら、丁寧にお湯を注いだ。
そして、出来上がったばかりのコーヒーを俺に渡した。
俺は礼をして、ゆっくりと味わう。
店長のコーヒーは心の隅々まで染み渡る。
これぞ、コーヒーの真髄だ。
「あの風景画はどこで買ったものなんですか?
もしかして、パリの市場とか?」
「この店の常連さんから頂いた貰い物だよ。
須磨の海を描いたので、よかったらどうぞって」
「その常連さんはセンスありますね。
須磨の海は兵庫県ナンバーワンですから」
俺の発言にあろえさんの耳がピクッと動いた。
あろえさんがチッチッチと舌を鳴らしながら、人差し指を左右に振る。
「須磨の海よりも洲本の海の方が格別だ。
ナンバーワン舐めんな」
「須磨の海は在原業平が認めてるんですよ。
知ってますか?在原業平」
「……あ、あれだろ?
馬鹿にすんな、それくらい……知ってる。
ほら、最近話題になってる……テレビにも出てるよな……」
誰と勘違いしてるんだ。
在原業平は平安時代の人ですけど。
最近テレビになんて出てましたっけ?
ディベート必勝法は自然と論点をズラすことだ。
今、あろえさんの頭の中には在原業平しかいないはずだ。
……勝ったな。
「本当に大学生ですか?
高校時代、古典の授業真面目に受けてたら知ってて当然ですよ」
「ちゃんと、大学生だし……。
高校生のとき、真面目に授業受けてたからな!」
「真面目に受けてない俺の方が知ってるの、だいぶピンチですよ」
完全に
明らかに甘ったるそうなコーヒーを、そのまま一気に飲み干す。
「あ〜〜、マジでムカつくな、お前は!」
「高槻君、煽るのもほどほどに。
たとえ、どんなにあろえちゃんが要領悪くてポンコツだとしても」
店長が皿を洗いながらフォローを入れるが、かえってあろえさんは凹んでしまった。
いや、むしろ店長が一番煽ってる。
ナチュラルに煽りを決めてしまってる。
チリンチリン。
ドアの呼び鈴が鳴ったので、俺はお客様を出迎えた。
「いらっしゃいま……せ」
言葉の端切れが悪くなってしまった。
理由はーーーー
「あ、硝子ちゃんいらっしゃい。
注文は何にする?」
「いつも通り、コルタードでお願いします」
そう注文すると、硝子はカウンター席に腰を下ろした。
店長が手招きして、常連さんと硝子を俺に紹介した。
「さっきの風景画は硝子ちゃんが描いたものだよ。
確か、高槻君と同じ高校だったよね?」
「はい。高槻君とは学校でたまに顔を合わせます」
俺は硝子の方に視線を向けた。
硝子も俺に視線を送る。
常連客だったことに驚きを隠せない。
いや、それよりも……
「バンクシーさん、須磨の海好きなのかよ」
コーヒーの香りと共に独り言を漏らした。
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