第5話 芸術家と鑑賞者

 目的地である県立美術館には、灘駅から真っ直ぐの道、ミュージアムロードを進んでいけば辿り着ける。

 そのため、特に迷わずに俺と硝子は県立美術館に三十分ぐらいで到着した。


「さすがにもう閉館してるか……」


 現時刻は午後六時二十分。

 美術館は午後六時には閉まるので、美術館の敷地内には人気がなかった。


 今から行うのは歴っとした犯罪なので、人がいても困るのだけど。


「俺、この美術館来るの人生初めてだな」

「残念だけど、今からじゃ何も見れないよ。

 私のグラフィティアートが完成するまで、ランドマークの美かえるでも見てたら?」


 硝子が指差した方を見ると、黄色と緑のしましまの奇妙なカエルのオブジェがあった。

 目が線になっていて、言い表せない愛くるしさがある。

 

 俺はスマートフォンで写真を撮った。

 LINEのアイコンにしてみよ。


 硝子は鞄の中からスプレー缶を数本出すと、人差し指を口の前に当てた。


「描くから静かにしてて」

「はーい」


 俺は軽い返事をすると、散歩に出かけることにした。

 間近で描いている姿を見るのもありだと思ったけど、せっかく臨海部に来ているのだから海を見ておきたかった。


 少し歩いてなぎさ公園に赴くと、園内を抜けてハーバーウォークに出る。

 そして、そのままハーバーウォークの堤防に身体を預けた。


「今日も海は広くて大きい」


 摩耶大橋を背景に神戸の海を眺める。


 夕方の海ということもあり、海面が輝いていた。

 白い宝石をばら撒いたみたいだ。


「……須磨の海の方が好きだな」


 堤防から見る街並みの海よりも、砂浜から見る雄大な海の方がやっぱり好きだ。

 溢れる感情も平等に洗い流してくれそうなほど、波は穏やかで潮風は心地よい。


 さすが、地元の海。


「あの有名な歌人、在原業平ありわらのなりひらはこの海岸で松風・村雨姉妹と出会い、別れたそうだよ。

 そんな説話があるから、私と珪君も出会えたのかもしれないね」


 一瞬、映像が頭の中に流れた。

 須磨の海で、綺麗な黒髪をなびかせながら女性は微笑んでいた。

 空色の澄んだ瞳も、優しい声も、漂う潮風の香りも…………全て鮮明に覚えてる。


 名前だって忘れてない。

 

「ちゃんと逢えなくなるところまで、在原業平と一緒にしなくてもよかったでしょ」


 俺はフッと懐かしむように笑った。






 美術館へ戻ると、硝子が『県立美術館』と彫られた上に、スプレー缶でグラフィティアートを描いていた。

 一心不乱にスプレーを噴射している。


「どこまで進んだんですか、バンクシーさん」

「後は海に映る夜空の星を描くだけ……どこ行ってたの?」

「海を見たくなったから、ハーバーウォークで眺めてた。

 須磨の海には遠く及ばなかったな」

「その須磨の海も、私が描く海には敵わない。

 上には上がいるんだよ」

「この海コンテストは兵庫の実在する海のみがエントリー可能なんだ。

 速やかにお引き取りを」


 兵庫県内で須磨の海に勝てる海があるなら、是非知りたい。

 その海で屁こいてやる。


 下らない会話をしている間にも、着々と美術館の壁は彩られていく。

 俺はそれを見学しながら、あることに気づいた。


「なぁ、碧海さん」

「何?」

「この絵、さっき学校で描いてなかった?」


 美術館の壁に描かれているのは、紺青の海に浸った夜の学校で海の上を少女が歩いている絵。

 海面が夜空の星を映してるのも、少女と学校の位置もほぼ同じ。

 美術室で描いた絵と一緒だ。


「高槻君、気づいたんだ」

「いくら俺が審美眼のない猿でも、それくらいは気づくぞ。

 どうして同じ絵描いてるんだ?」

「美術室で描いた絵は下書き。

 本番のために、少し練習しておこうと思って」

「とても丁寧で準備がいいな。

 それもこれも異世界に行くためか」

「そう。全ては異世界に行くため」


 硝子は恥ずかしげもなく言う。


 他の人が『異世界に行く』なんて聞いたら、内心で馬鹿にしたり、頭は大丈夫かとかそんな反応するんじゃないか。

 俺も『描いた絵が誰も見えない』なんて不思議な現象が起きなかったら、そう反応してたと思う。

 イカれた女子の中二病的妄想だ、って。


「どうして異世界なんかに行きたいんだ?」

「関係ない高槻君に答える必要ある?」

「ないな。俺の個人的な興味だよ」

「……言いたくない」


 煩わしそうに俺のことを見てきた。

 考えてみれば、余程事情がないと異世界に行こうとは思わないわな。

 聞き出すには、もう少し時間がかかりそうだ。


「美術部……」

「ん?」

「私はあの場所が嫌い」 

 

 無理矢理絞り出したような声を出す。

 硝子の顔は気持ち悪そうな顔をしていた。


 槇村先生が言っていた『あれから』と無関係じゃない気がする。


 俺は空気を読んで、これ以上訊かないことにした。


「碧海さんは自分の絵が人に見えないことは知ってる?」

「知ってる。

 校舎のグラフィティアートに誰も反応しないから」


 あの落書きはまだ消されていない。

 見えてるのは俺と描いた本人である硝子だけだから、当然といえば当然なのかもしれない。


「あのキャンバスの絵も俺にしか見えてない?」

「どうだろうね。

 自分の絵、あんまり他人に見せないから分からない」

「その割には、こうして俺には見せるんだな」


 俺の発言がウザかったのか、硝子が無言で俺にスプレーをかけてきた。

 瞬く間に、俺のシャツが赤く汚れる。


「何してんの!?」

「ごめん。ちょっとムカついたから」

「通行人に、あいつカニバリズムだ!って思われるだろ。

 俺は牛肉と豚肉と人肉は食べないのに」

「ヒンドゥー教とイスラム教掛け持ちしてる人初めて見た。

 うるさいから静かにして。人が来ちゃう」


 硝子がそう言った途端に、美術館から職員らしき人が出てきた。

 その職員と目が合ってしまう。


 あ、これ詰んだ。

 言い逃れできないぞ。


「何してるんですか、あなたたちは」


 五十代後半と思われる女性が、目を細めて質問した。

 明らかに俺たちを不審な人物と認識している。


 俺は全力で言い訳を考える。


「どうやら、今日美術館に来たときに家の鍵を落としてしまったみたいなんです。

 それで、まだ開いてるかなと思い、探しに戻った訳なんですけど……」

「この美術館は午後六時に閉館です。

 今は六時五十分なので、今日は諦めて、また明日探しに来て下さい」

「ありがとうございます。

 では、周辺をもう少し探してから帰ることにします」


 職員は俺と硝子の方を見た後、落書きの方に目をやった。

 だが、


「とにかく、早く帰るようにお願いします」


 職員は最後にそう言って、駐車場の方へ去っていった。


 職員の姿が見えなくなって、ようやく硝子が口を開いた。


「嘘上手なんだ」

「誠実な俺に嘘をかせたのは、碧海さんで三人目だ。

 せめて、ちょっとは申し訳なさそうな顔をしてほしい」

「……軽薄の間違いでしょ」


 硝子は呆れたように吐息をついた。

 二度と硝子の前で嘘を吐くのはやめよう。


「あの人も碧海さんが描いた絵見えてなかったな」

「見えてたらどうするつもりだった?」

「土下座して靴でも舐めようかと思ってた」

「この歳から底辺の道を辿るなんて……同情するよ」


 硝子は青いスプレーで細かいところを調整すると、スプレーを床に置いた。

 手をカメラの形にして、覗き込んでいる。


「うん、これで大丈夫……かな」

「女子高生バンクシーさんの二作品目の出来はどうですか?」

「私の目的を果たしてくれる絵にはできた。

 満足いく出来にはなった」


 完成したのは、美術室で描いた油絵とほぼ同じグラフィティアート。

 少し違うのは、油絵よりも学校が廃墟みたいになっていたこと。

 より幻想的な雰囲気になっている。


「オークションに出されたら、十円で落札されそう」

「うまい棒と同じ価値にしたのは、何か意図でもあるの?」

「久しぶりに明太子味が食べたいと思っただけ」

「カチカチのパンの時といい、本当に食いしん坊だね。

 もう一度スプレーおかわりしたい?」

「……遠慮させていただきます」


 既に右手には黒色のスプレー缶が握られている。

 やられたら、お歯黒どころの話じゃなくなる。


「……もう暗いし早く帰ろ」


 硝子が鞄を肩にかけて、先に歩き始めた。

 俺も後ろからついていく。


「異世界には行くって言ってたけど、いつ異世界に行くんだ?」

 だから、三つ描き終わったときに異世界に行く」

「なんかRPGみたいな方法だな。

 まぁ、俺は迷惑にならないよう応援しとく」


 天空の城へ入るには、聖なるオーブが必要なように、何かしらの方法があるのだと思う。

 そして、決まってこういった場所に行けるのは勇者だけだ。

 遊び人の俺には眺めることしかできなさそうだ。


「応援するだけじゃなくて、手伝って」


 硝子は振り返ると、真顔で俺を見つめてきた。

 その真剣な眼差しに目を釘付けにされる。


「本来描いた私にしか見えない絵が、高槻君には見えてる。

 どうしても、そのことに運命的な繋がりを感じてしまう」

「運命的な繋がりって……遠回しな愛の告白じゃないよな?」


 赤い糸で結ばれてるとか、女子はそういうのが大好物だ。

 もちろん、俺も嫌いじゃない。


 でも、それは物語だからこそよくて、現実で憧れるほど俺はお花畑にはなれない。


「この誘いに高槻君が来ないのであれば、手伝ってなんて提案はしない。

 もっと言うなら、今日美術室に来なかったら、こんなことにはならなかった。

 私たちは既に、芸術家とそれを鑑賞する人という関係性を持ったの。

 私と高槻君はもう無関係じゃない」

「それを言うなら、碧海さんが今日美術室で絵を描いていなかったら、こうはなってなかった。

 なんなら、あの日校舎に落書きしてなかったら無関係なままだった」


 これは運命でも偶然でもない。

 俺と硝子の選択によって作られた状況なだけ。

 こうなることは、あの日学校に課題を取りに行く選択をした瞬間に決まっていた。


 必然的な話だ。


「手伝ってと言うよりも、見届けての方が近いかもしれない。

 私の絵を見て目的を知った高槻君は、それをする権利がある」

「権利って言うからには、断ることもできるよな?」

「その通り。

 私の絵を無償で見れるのだから、断らないとは思うけど」


 硝子は自信たっぷりな表情をしている。

 まるで、俺が断らないと確信してるような感じだ。


 悔しいことに図星なのが、少し腹立つな。


「そう言って、本当はもし誰かに見られたときに、俺を盾にするのが目的でしょ?」

「バンクシーの共犯って滅多にできない体験だと思うけど」

「それはそうだな」


 先ほどまでは邪険に扱ってたのに、どういう風の吹き回しだって思う。

 でも、邪険に扱われても、俺は懲りずに会おうとするんじゃないか。


 不思議な引力に惹かれてる。


「異世界に行くまでよろしく……高槻君」


 硝子はブラウスの胸ポケットから油性ペンを取り出すと、俺の掌を取って素早く描いた。

 見てみると、美かえるの絵が描かれていた。


 奇妙な関係になった。

 芸術家と鑑賞者。

 今の、そして異世界に行くまでの関係の名称に相応しい。


 二人の間を涼しく風が通り過ぎていった。



 

 



 


 


 

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