第4話 夕陽の女子高生ゴッホ
翌日、授業が終わると俺は美術室へと足を運んでいた。
今日は美術部は部活がないのだが、同じクラスの美術部員によると、碧海硝子は毎日一人残って絵を描いているとのこと。
放課後の美術室には、大きいキャンバスを前に碧海硝子がいるだけだった。
ドアを開けて入っても、俺に気を止めることなく黙々と手を動かしている。
俺はそっと近くの椅子に座って、その様子を眺めることにした。
五分くらい硝子は無視して塗っていたが、やがて俺の存在を認めた。
「……関わらないでって言ったはずじゃなかったっけ」
「あのバンクシーがせっかく神戸にいるんだ。
会って損はないだろ」
「私に損があるから言ったんだけど。
それに、私はバンクシーよりもバスキアの方が好き」
「俺はどっちも同じくらいどうでもいいけどな。
何で、バスキアの方が好きなんだ?」
硝子は筆を紙パレットに置くと、俺の方に体を向けてきた。
「バスキアの人生は正に芸術家。
ヘロインの過剰摂取で死ぬところも含めて、芸術的な魂を感じることができる。
……素敵だと思わない?」
硝子は深海の瞳で俺を見つめてくる。
その瞳に魅入られて、俺は返す言葉に困ってしまった。
「バンクシーも好きだけどね。
でも、私のことをバンクシーと呼ぶなら、バスキアと呼んでくれた方が私は嬉しい」
「じゃあ、変わらずバンクシーで」
「……人の話聞いてた?」
「聞いたうえで、バンクシーにしたんだ。
女子高生バスキアよりも女子高生バンクシーの方が響きいいし」
「……もう好きにすればいいよ」
姿勢を元に戻すと、硝子は絵の続きを描き始めた。
キャンバスには紺青の海に浸った学校が描かれていて、その海の上を一人の少女が歩いている。
とても綺麗な色彩だけど、同時に寂しくも感じる。
この絵からは儚さと静止した時間の中で自由に生きる少女の繊細さがひしひしと伝わってきた。
胸が締め付けられる情景だ。
「噂には聞いていたけど、絵めちゃくちゃ上手いな」
「『絵が上手い』は芸術家にとって褒め言葉にはならないよ。
絵が上手いだけの人なんてこの世に数えきれるほどいる。
人間の本能的に感じさせるものや、作者の魂を込めたメッセージがないと芸術家にはなれない」
「碧海さんの作品には、それが全て注がれてるのか?」
「私は明確な目的を持って絵を描く。
絵はそれを果たすための方法の一つに過ぎないよ」
「目的のない絵なんてあるのか?」
俺の問いに硝子はフッと鼻で笑うと、蔑むような笑みを浮かべた。
「誰かに強制させられた自分の意思がない絵とかね。
コンクールの作品なんてたいていがそういった駄作。
無味無臭のカチカチのパンのような物だよ」
「俺だったらそのパンにたっぷりイチゴジャムを塗りたくるけどな。
そうしたら、多少は美味しくなるだろ」
「鑑賞する人の想像力次第で、どんな駄作も
ただ、それって鑑賞する人の想像力に依存してるから、結局名作にはなれない」
「俺には少し難しい話だな。
ところで、お腹空いてきたんだけど、これって碧海さんのせいでいい?」
「無味無臭のカチカチのパンで、よく食欲そそらせられるね。
油絵具ならおかわり無料で提供できるけど……食べる?」
そう言って、俺に油絵具を渡してくる。
まさか、マジで食えると思ってるのかな。
「いや、いらないです」
「あ、そう?
イチゴジャムの代わりになるかと思ったけど、いらないか」
赤色の油絵具を取り返すと、他の色と混ぜて丁寧に塗り始めた。
窓から赤とオレンジが混ざった夕陽が硝子を照らす。
ガラス細工のように繊細で綺麗な硝子がキャンバスを描いていると、どの作品よりも絵になる気がする。
題名は、『夕陽の女子高生ゴッホ』だな。
硝子は筆で塗るのを止めると、片付けを始めた。
「完成したんだ」
「うん、完成した。
これなら、この絵は目的を果たせるはず」
「この絵の目的は何だ?
もしかして、異世界に行くとかじゃないよな?」
「この絵じゃ異世界には行けない。
この絵は私が行く異世界の姿だよ」
碧海硝子の行く異世界では、学校は海に浸水し夜空を校舎に反映させている。
なら、この少女は碧海硝子自身の姿か。
「碧海さんの考える異世界は、どこか幻想的だな」
「幻想じゃなくて、実際にある世界。
誰も行くことができないだけで、ちゃんと存在している世界」
片付けが終わると、硝子は鍵を持って美術室を出た。
「早く出て」
「遅く出るから待って」
椅子を元の位置に戻して、急いで美術室を出た。
おそらく、あのままボケっとしてたら、普通に施錠して俺を閉じ込めるつもりだったと思う。
危うく、
硝子は美術室を施錠すると、鍵を返しに職員室へと向かう。
俺もしれっとそれに同行した。
職員室には教師が数人いるだけで、閑散としていた。
大半の教師が部活動に顔を出しているのだろう。
「槇村先生、鍵です」
硝子は鍵を美術教師の槇村先生に返した。
槇村先生は穏やかな様子で、「ありがとねぇ」と礼をした。
「創作活動に熱心ね、碧海さんは」
「描きたいときに描くのが私ですから」
「ほんと、褒めているのに素直じゃないわねぇ。
でも、あれから立ち直ってくれてよかったわ」
「……そうですね。
じゃあ、私はこれで」
さよならと槇村先生は和かに手を振った。
俺たちもさよならと返して、職員室を退室した。
「なぁ、あれからって何?」
「さぁ、何だろう。
私にも皆目見当がつかない」
嘘だ。
あのときの碧海の顔は、嫌なことを思い出すかのような苦い表情をしていた。
感情の変化が乏しいだけに、すぐにわかった。
追求したかったけど、俺はそれができなかった。
硝子が有無を言わせない冷めた目で制止してきたから。
「高槻君、この後暇?」
昇降口を出ると、硝子が訊ねてきた。
俺は特に考えなしに答える。
「彼女とのデートがあって忙しい」
「なら、いい」
な訳ないでしょって突っ込まないのか。
普通に選択ミスったな、これは。
俺は慌てて訂正した。
「高槻家ジョークだ。
俺に彼女はいません」
「それが高槻家のジョークなら、全員石膏像になった方がウケると思う」
「それ、ウケるの前に全員死ぬよな?
あと、石膏像よりも美術館の前で一家全員でムンクの叫びのポーズやらせた方が遥かに有意義だと思う」
「……めんどくさ」
自分で言ったことを想像してみて分かったけど、これはただの頭のおかしな宗教だ。
ムンクさんを教祖とするムンク教が誕生してしまう。
なしだな。
「で、俺が暇だったら何するんだ?」
隣で歩いている硝子は唇の両端をわずかに上げると、目を細めた。
「今から美術館にグラフィティアートを描きにいく。
特別に、間近で見せる。来る?」
女子高生バンクシーの二作目。
今度は自分の学校ではなく、美術館。
バレたら、本当に逮捕されるかもな。
だけど、誰も見えない絵の謎が分かるかもしれない。
見えてしまったら、全力で謝って……逃げよう。
俺はバンクシーに返事をした。
「喜んで」
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