第3話 バスキアの方が好き
「バンクシー?」
授業が終わり、放課後。
俺は校舎の四階の隅の方にある『創作物科学考察部』、ーーー通称『考察部』の部室に来ていた。
部室はこぢんまりとした部屋で、ホワイトボードと長机に椅子、パソコンが一台置いてあるだけ。
「もしかして、バンクシー知らないのか?」
「知ってるに決まってるだろ。
審美眼のないお前がその単語を出したことに驚いたんだ」
考察部の部長である
「そのバンクシーが神戸に現れたんだよ」
「俺は毎朝ニュースを見てるが、そんなニュースどこにもなかったぞ」
「当たり前だ。
知ってるのは俺ぐらいの極秘情報だからな」
燐はわざとらしくため息をつくと、切れ長の瞳を閉じた。
「部活のない日にわざわざ部室へ来たってことは、その神戸のバンクシーに関して聞きたいことでもあるってこと?」
「大正解。
俺も一応正式な部員だし、そろそろ自分から考察テーマを持ち込もうかと思って」
『考察部』はその名の通り、創作物でよく目にする手から炎が出るとか空を飛ぶとかの現象を科学的に考察する部活だ。
科学部と間違えられることが多いが、一切関係はありません。
「珪は週二回の部活をサボったことは一度もないが、真面目に考察したことも一度もない。
そんな珪が考察テーマを持ち込むなんて……裏がありそう」
「俺は常に表しかない誠実ジェントルマンだ。
裏なんてあるわけがない」
「世界中のジェントルマンの前で切腹しろ」
燐はマグカップを棚から取ると、淹れたコーヒーを注いで俺に渡してくれた。
俺はありがたく受け取って、一口飲んだ。
うん、俺が目指すべき味はこれだな。
「そもそも、バンクシーがどういう人物なのか知ってるのか?」
「街の壁とかに落書きする人だろ?」
「落書きって言ってる時点で、やっぱり審美眼のない猿だな」
机の上にある最後のポッキーを取ろうとしたけど、俺に譲ってくれた。
猿に優しい男だ。
「バンクシーはグラフィティアートやストリートアートが特徴的な素性不明のアーティストだ」
「そのグラフィティアートとストリートアートって何だ?」
昨日、碧海さんもグラフィティアートって言ったが、何なのかよく分かっていない。
「スプレーやペンなどを用いて、公共の場に描かれた絵や文字のことで、芸術作品として認められた物がグラフィティアートと呼ばれる。
ストリートアートもほとんど同じだけど、基本的に文字よりも絵であることが多い。
有名なのは、バンクシーとかバスキアだな」
「バンクシーは分かるけど、バスキアって誰だ?」
「ヘロインの過剰摂取によって二十七歳で亡くなってしまったアメリカのアーティストだ。
バンクシーよりも前の時代の人だな」
スマートフォンを操作すると、燐はバスキアの絵を見せてきた。
いくつか、見たことがある作品がある。
「Tシャツの絵柄で見たことあるやつばっかだな」
「バスキアは日本でも人気だからな。
俺もバンクシーよりもバスキアの方が好きだ」
碧海硝子も同じことを言っていた。
ただ、碧海硝子が好きな理由は少し違う気がする。
「グラフィティアートやストリートアートはメッセージ性がある作品が多い。
社会的な問題や政治的なメッセージなど。
だから、芸術的価値が非常に高い」
「なるほどな。
でも、これって普通に犯罪だよな?」
「もちろん犯罪だ。
バンクシーだから捕まんないだけで、珪がやったら一発レッド。
すぐさま刑務所送りだ」
「落書きするのは姉貴の顔だけにしとくよ」
コーヒーを味わいながら、俺は考える。
あの碧海硝子の絵も何かメッセージがあるのか、異世界に行くために描いたって本人は言っていたけど。
それなら皮肉なことにあの絵が見えていないせいで、メッセージを込めようにも誰にも伝わらない。
絵が見えている俺以外は。
「今のところ科学というよりも近代美術の話だけど、神戸のバンクシーについて聞きたいことって何だ?」
「実はそのバンクシーが描いた絵、俺にしか見えないんだよ」
燐はマグカップを口に運ぼうとして、テーブルの上に置いた。
顔に理解不能と書かれている。
「ごめん。全く理解ができない」
「だから、神戸のバンクシーが描いた絵、俺にしか見えてないんだよ。
どういう理屈なのか科学的に説明して欲しくて」
燐はバッと勢いよく椅子にもたれかかった。
俺はその燐に追い討ちをかける。
「付け足すと、そのバンクシーが言うには異世界に行くために絵を描いたらしくて。
これについても、燐の意見が聞きたい」
「…………マジで意味分からん」
眉間をつまむと燐はぐりぐりし始めた。
燐が考え事をするときの癖だ。
「俺の意見を述べるにも、情報が少なすぎる。
珪、どんな不思議な体験をしたか詳細を教えてほしい。
それから改めて考える」
「分かった」
さて。
どこから話すべきなのか。
碧海硝子のことも話した方がいい気がする。
考察部だけの秘密にすれば問題ないだろう。
「絶対に他の人には言うなよ」
「分かったから、早く話して」
「実はな……」
俺は昨日見た不思議なことを全て話した。
神戸のバンクシーが碧海硝子なことも、描いた絵が見えないことも、異世界に行くために絵を描いてることも全て。
聞き終えた燐はコーヒーを飲むと、マグカップの縁を指で
「それで神戸のバンクシーか……」
「燐も校舎の落書き見えなかったか?」
「多分見えてないな。
見えていたらすぐに気づくと思うし」
コーヒーのおかわりをして、燐はミルクを注ぐ。
俺も便乗してミルクをたっぷりと注いだ。
「にわかには信じ難いが、それが事実ならかなり興味深い話だ」
「枚方先生なら原因解明もお茶の子さいさいですか?」
「珪にしか見えない絵、絵を描くことで異世界に行ける……。
今はまだ何も考えが浮かんでこない。
しばらく考えてみて、何か閃いたら珪に教えるよ」
「頼りにしてますよ、部長」
燐は考察部部長なだけあり、理系科目は全て学年トップの点数を取っている。
理系に特化した燐なら、本当にいい考えが出てくると思う。
「それはそうと、珪」
「ん?」
「碧海硝子が校舎にグラフィティアートを描いたことは間違いないな?」
「間違いない。まごう事なき事実だ」
燐は少し黙り込んで、口を開いた。
「不思議な現象の解明は俺が考えるからいいとして、碧海硝子が異世界に行く理由とかに心当たりはあるのか?」
「あるわけ無いだろ。
俺と碧海さんは昨日初めて話したんだから」
そうだよな……と再び燐は黙り込む。
「アニメやラノベで確立されている異世界転生ものは、基本的にこっちから望んで異世界へ行くことはなく、行かせられたのような受動的なケースが多い。
異世界と違って現実は魔法とか超能力はないからな、自分から異世界に行くことなんて不可能な話だ」
「まぁ、そうだな」
だからと燐は続けた。
「校舎に落書きをするなんて、ぶっ飛んだ方法を実際に行った碧海硝子の『異世界に行く』という発言が冗談ではないように思えるんだ」
振り返ってみても、昨日の碧海硝子の様子からは冗談めいたものは全く感じなかった。
本気で異世界に行こうとしている様子に見えた。
「具体的な行動をしてる以上、何かしら根拠があるんだろう」
「その根拠を考えるのが、燐の役割でしょ」
「その通り」
燐はパソコンを立ち上げると、カタカタとキーボードを打った。
俺は隣から画面を覗き込む。
「何してるんだ?」
「記録を残してるんだよ。
忘れても、すぐ思い返せるように」
記録を記入し終えると、燐はコーヒーを飲み干して、空になった俺のマグカップと一緒に洗ってくれた。そして、綺麗に拭いて棚に戻す。
「俺はそろそろ帰るけど、珪はまだ残ってくか?」
「俺は残業代が出ない限り、働かない主義だ。
一緒に帰るよ」
燐と共に部室の鍵を閉めて、校舎を後にする。
昇降口を出たタイミングで、例の落書きに視線を向けた。
「やっぱり見えないな。
珪には見えてるんだろ?」
「ばっちし見えてるよ。
鏡に映った少女の物憂げな表情まで」
「珪、落書きを撮ってみて」
言われるがままにスマホのカメラのピントを落書きに合わせて、写真を撮った。
その写真を燐に見せる。
「写真ならどうかと思ったけど、校舎の壁しか見えないな」
「俺には落書きの絵がしっかり見えてるんだけどな」
俺と珪は歩き始めた。
グラウンドではサッカー部の気合が入った様子で5VS5のミニゲームをしていた。
ちょうど、銀羽がボールを持っていて、目の前のディフェンダーをドリブルで抜くと、ゴールの右隅にシュートを決めた。
「別に考察部抜けて、サッカー部入ってもいいんだぞ」
「俺は中学で本気のサッカーはやめたんだ。
そのことを特に後悔してないな」
「ならいいけど、万が一やりたくなったらいつでも俺に言ってくれ」
そのまま学校を出て、灘駅に向かって真っ直ぐ歩き続ける。
「じゃ、また明日」
「あぁ」
方面が違うので改札口で燐と別れた。
駅のホームにあるベンチに腰を下ろした。
「異世界に行く……ね」
バスキアはヘロインの過剰摂取で亡くなった。
幻覚とかそういうのが見えてたんじゃないだろうか。
「バスキアの方が好きな理由って、自分と重ね合わせたからか……?」
碧海硝子について、俺は何も知らなかった。
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