第2話 裸の絵
「珪、起きなよー」
姉の
布団の中で気のせいだなと結論づけて、俺は全力で二度寝を遂行する。
「起きろって言ってんでしょ!」
途端にカンカンと金属が打ち鳴らされたような音が響く。
あまりのうるささに耐えきれず、俺は体を起こした。
セミロングの茶髪を後ろで一つに結んだ姉が立っていた。
これでも、本人曰く大学でモテるらしいが、おそらく猿の観察と勘違いした変人が集まってるだけだと思う。
「うるさいから、やめて」
「起きないアンタが100パー悪いね」
「知らないぞ。
騒音で苦情きて、お爺ちゃんに怒られても」
「そしたら、全部珪の仕業ってことにしとくから」
茶目っ気たっぷりに、テヘッと舌を出す。
ペコちゃんの足元にも及ばない可愛さだ。
「とにかく、早く起きて。
家族で珪しか料理できないんだから」
「いつまで、弟の料理に頼ってるんだよ。
そんなんだと、結婚どころか一生彼氏できないぞ」
その瞬間、素早く
あまりの痛さに悶絶する。
「言うこと聞かない男はこうするだけだから。
いいから、早く料理作ってね♡」
「……かしこまりました」
霞炭は満足そうに笑うと、部屋から出て行った。
相変わらず腹が痛すぎて、ずっとうめいてる。
「お腹に優しい朝食にしよ……」
本当に痛い。
朝食を作り終えて、俺は霞炭とお爺ちゃんとご飯を食べた。
ささっと食べ終えて食器を洗うと、自分の学校に行く支度を整えた。
「もう行くの?」
リビングで本を読みながら、霞炭が質問した。
俺は作った弁当を鞄に入れて時刻を見た。
「いうて、もう七時二十分だけどな。
これ以上ちんたらしてると遅刻する」
「起こした私に感謝しなよ〜」
「それは毎日してるから大丈夫。
姉貴こそ、まだ行かないのか?」
霞炭ははぁ〜っと深いため息をついた。
「通ってる大阪の大学まで、片道一時間半。
一限目は諦めて、二限目から授業受けるようにしてるの。
だから、ゆっくりしてて全然オーケー」
「大学生は自由なんだな。
俺は不自由高校生なんで、学校に行ってきます」
いってらっしゃいと霞炭に見送られて、俺は家を出た。
住んでいるマンションから出て、最寄りの駅である須磨海浜公園駅にすぐ辿り着く。
貝殻の外観をした駅に入り、Suicaで改札口を抜けた。
しばらく待って、大阪方面の電車に俺は乗車した。
七時台ということもあってか、車内は学生と会社へ向かうサラリーマンが多かった。
俺は邪魔にならないように自分のスペースを確保すると、スマートフォンで好きなサッカーチームの試合を観た。
「しかし、昨日のあれは何だっだんだろうな」
高校に突如現れたバンクシー。
落書きをする理由は異世界へ行くためで、その落書きの絵は先生には見えていなかった。
そしてバンクシーの正体は碧海硝子という同学年の女子。
「はっきり言って、ガチで意味わからん」
関わるなと言われたけど、つい考えてしまう。
準謎解き冒険バラエティーと称してもよさそう。
「今日もあの落書きが残ってるなら、間違いなく話題になってるだろ。
話題になってなかったら……俺以外全員色盲だな」
こればかりは学校に行ってみないと分からない。
俺は推しのサッカーチームが勝って、少し嬉しかった。
電車は鷹取、新長田、兵庫、神戸、元町、三ノ宮と過ぎて、灘駅に到着した。
降車し、階段を上がって改札口を抜け、北口を出た。
いつもと同じ、住宅街やマンションが建ち並ぶ景色が見える。
色浜高校に行くとき、一番つらいのはここから緩やかだが長い坂があること。
朝にこの坂は結構いい運動になる。
俺が線路下の信号で止まっていると、さりげなく隣に並んできた人物がいた。
「元気か、珪」
「ぼちぼちだな。
そういう
隣にいる人物は
銀羽とは小学校からの幼馴染で同じ須磨海浜公園駅から乗車している。
乗っていたことに気づかなかった。
「珪の好きなリヴァプール勝ってたな」
「知ってるよ。
今日電車の中で試合のハイライトを見た」
「珍しいじゃんか。
珪がリアルタイムで見ないなんて」
「古典の課題探して、終わらせるのに時間がかかったからな。
何度、光源氏をぶん殴ろうかと思ったことか」
「それはご愁傷様で」
ちなみに古典の課題であるワークはベッドの下にあった。
エロ本みたいに古典のワークは息を潜めていたのだ。
長い坂を上りながら、俺はあることを銀羽に訊いた。
「なぁ、銀羽」
「どうした?」
「バンクシーって知ってる?」
「知ってるぞ。
街の壁や道路とかに落書きする芸術家だろ?」
「そう、それ」
さすがの銀羽も知っていたようだ。
多分知らないと思っていた俺は馬鹿だ。
「何だ、珪。
将来芸術家にでもなりたいのか?」
「俺の将来の夢は喫茶店の店長になることだ。
小六のときから少しも変わってない」
「なら、どうしてそんなこと訊いたんだ?」
銀羽が眉間の
別にそんなやましい理由じゃないけどな。
「いや、神戸にバンクシーが現れたから」
「それは、神戸がもっと魅力的な街になるなぁ」
「間違いないな」
銀羽は気づいてるのだろうか。
バンクシーは比喩的な表現で、そのバンクシーの正体が女子高生なことを。
後者は多分、大丈夫だと思うけど。
「じゃあ、碧海硝子は知ってるか?」
「24HRの儚い雰囲気の女子じゃなかったけ。
好きなのか?」
「すぐに好意に結べつけるのは安直すぎるでしょ」
「俺はいいと思うけどな。
出会えるか分からない初恋の人を思い続けるよりは」
「初恋の人と結ばれる確率って5%くらいらしいぞ。
俺はその5%に入るつもりだ」
「美しい純愛だな。
俺はどんな相手でも応援するわ」
慰められるように、ポンと肩を叩かれる。
まるで俺が失恋するかのような振る舞いはやめてほしい。
俺の場合、本当に失恋するから。
「やっぱり、碧海さんって有名か」
「美術部で唯一県立美術館に絵を飾られたからな。
県の有名なコンクールで何度か賞受賞してるし」
「描いた絵見たことある?」
「そういえば、見たことないな。
いつもつまらなさそうに、壇上で賞状受け取ってるのは何度も見たけど」
俺も昨日までそうだった。
美術の方面の天才ってことは知ってたけど、絵なんて見たことはなかった。
それもデッサンではなく、グラフィックアートというもの。
「美術に関しては、俺さっぱりだからなぁ。
サッカーなら自信あるけど」
「銀羽、絵下手くそだったよな。
……今のサッカー部強いか?」
「そこそこだな。
県大会ベスト8いければ良い方だろう」
王子公園を右に長い坂を進んで、ようやく色浜高校が見えてきた。
大勢の生徒の流れに沿って、校門を通り抜ける。
「…………」
昨日碧海が落書きした絵は消されずに残っていた。
だが、生徒は派手な落書きに気づかずに昇降口へ吸い込まれてく。
立ち止まって絵を眺めるものなど、一人もいない。
本当に俺以外誰も見えていないのか。
「珪、急に立ち止まってどうした?」
「芸術的な落書きだなぁと思っただけだ」
「落書き?落書きなんてどこにあるんだ?」
銀羽は辺りをキョロキョロして、俺に怪訝な目を向けてきた。
「何か薬物でも手を出したのか?」
「俺は常に脳内麻薬が溢れてるから大丈夫だ」
銀羽にも見えていない。
この様子じゃ俺以外の人には見えていないってことになる。
「裸の王様ならぬ裸の絵だな」
俺は構わずに昇降口で上靴に履き替えた。
俺にだけ見える絵なんて、世にも不思議な物があるとはな。
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