終-上
洸吉はその日、頬にできた傷の経過を見せに病院へ訪れていた。目尻から口元にかけて伸びる痛々しい傷口を消毒し、跡が残らぬよう薬を塗布する。非力な声が漏れ出るほど薬は沁みるが、施してくれた女性は笑顔を貼り付けたまま。
「随分と綺麗に髪の毛伸びたね……なんか良いトリートメントでも使ってんの?」
「いや、適当にあるヤツだけです。お母さんの髪質に似ちゃったらしくて」
「あら、そう。遺伝なのか、羨ましい。私なんて何しても枝毛ばっかり」
絆創膏とガーゼの張り替えが終わり、待合室へと洸吉は戻る。
数分前よりも人は増えていて、その半数以上が老人。壁に取り付けられたテレビに視線を向け、覚えの悪いその頭に調味料配分と煮付け時間を入れていた。よくある旅の料理番組が終わり、真面目なニュースへと切り替わる。
洸吉は唯一空いていた真ん中の席へ座り、携帯をいじり始めた。トップニュースとして上がったのは、党の代表が上松に厳重注意をしたと言う件。彼は真っ向から辞任は否定しているものの、ようやく公の活動は全て控えると回答を出す。
携帯を見つめる洸吉にも、ニュースの音声だけは耳に入っていた。
いつの時代も良い国作りを理由に、名や声を挙げて世間を騒がせる人らはいる。しかし誰しもが思い通りに事運べるわけではない。人の価値観や理想に一定の基準は無く、ある程度の自由と規則が約束されていれば、良い国と言えるのだろうと漠然と思えた。
が、------そういった思考もまた誰かを縛り窮屈にさせていると、洸吉は世間を少しずつ理解していく。複雑だからこそ奔放に生きられたら、何て事を軸に置きながら。
死んだ母親がそんな願いを残していた。
上松に一時的な出席停止命令が下された次の日、市議の会議室では掠れた笑い声が響いていた。六つの席が用意され、うち五つの席に座る老人議員ら。
その中でも最も権力を有している名高い長身の市議、神崎は上松を「馬鹿者」と呼び、過去の発言をつまみながら笑いのネタに消化していた。
「一人で世の中を変えられたのか? あの馬鹿者は。若いもんに振り回されて恥ずかしくないんかね? 俺なら死にたくなるけどな」と言い放ち、周りは一斉に声を荒げて笑い始める。
「ましてやこんな小さな街でだ、夢を見過ぎなんだよ。あの馬鹿者にどっかの母親が相談を持ちかけてきたらしいが、そいつも十分馬鹿野郎だ」神崎の横席にて大袈裟に笑い続ける小柄な老人市議は「本当ですよ」と偏った意見に賛同をする。
「時期にあの馬鹿も復帰してくる。どうせまた穴を見つけて、入りこんでくるだろが、次の選挙後にはもういない」と神崎は不気味な笑みを見せつけつつ、「異端児とか革命児とか、平凡な暮らしを求める市民には一番イラねぇ存在だからよ。どうして生まれちまうんだろうな」
彼らに街の未来の舵を任せた市民が悪いのか。そんな疑問を変わらず持ち続けながら街のために動いていれば、上松は多少なりとも現状を打破できたかもしれない。
神崎らは数年先も安泰の席に座り続け、残る数席に入ってくる若手を悉く潰していく。そうした統制の裏事情を何も知らず、市民は多少の不自由さを感じつつも静かに暮らす。
この国はどこの街も人も互いを縛り合い、結果似たり寄ったり。自由を求めて死んでいった若者の事さえも、すんなりと頷いてしまうほどに。
[十二月下旬]
季節が本格的な真冬を迎えて数週間。人は素肌を分厚い布で覆い隠し、氷の息吹から逃げるよう建物の中へと急ぐ。ニュースは嬉しそうに今期最底の気温を伝え、意識までもを寒波に晒す。間に挟まれている報道は若者関連か、汚職をした者の無様な頭頂部を映す数台のカメラ。
一斉に下げられたその頭を見たとして、湧いた怒りを落ち着かせる人がいるのだから驚く。
メディアから政治家の上松の姿はパッタリと消え、憤りを捨てきれない大人らは今も活動を続けている。
まるで操り人形のよう、言葉を繰り返しながら昼夜問わず声を張り上げて。
夜街はクリスマスムードに覆われ、今日がその真っ最中。建物から揃って出てきた親子の手には派手やかに包装された箱があり、目一杯に口角を上げて喜んでいる。
痩せ細った枝葉には電飾を巻きつけ、朧げな光を葉に見立て道沿に並んで立つ。手を繋いで歩くカップルは、野暮ったい台詞を隠し持って過ごしている。
本来の仕事をしない翳りある電灯が一本、ぼーっと聳え立つ夜の公園。周りの遊具は砂を被り、飲み残された缶が散らばる閑散な空間。辺りは一応住宅街ではあるが、聞いて誰もが想像する夕飯の匂いが漏れる家庭はどこにも無い。
周りには今朝降り続いた雪は茶色い土を含み、靴裏の模様がいくつも刻まれている。
洸吉は一人で公園に来ていて、静かにベンチに座っていた。
駅前はクリスマスムードで盛り上がりを見せていたが、考え事をするには不向きな騒がしさ。コートのポケットから取り出したのは、コンビニに売られている骨付きのチキン。吐き出す息は有害さを感じさせるほど白く、吹き抜ける風も揃って冷たい。
亜椛から中身の無いメールが来ていたが、特に返す気にもならず放置したまま。
手紙を読んで思い出した記憶の中に、一つだけクリスマスの日があった。相変わらず母親と二人で過ごしていたが、目の前にはプレゼントが置かれている。小学生だった洸吉の両手を横に並べたくらいの大きさの箱で、すぐに包装を剥がし始めた。
中から出てきたのは当時人気だった携帯ゲーム機。並ばないと手に入らないと言われていた物だと今は記憶している。こんな微笑ましい思い出も忘れてしまっていた。
もし夢で出会った優しい母親だとして、もし輪廻とやらがあって、もう一度この人生を望むかと聞かれたら迷わず首を縦に振るだろう。洸吉はたった今、初めて死んだ母親に会いたいと思った。そんな理想を寒空の下でぼーっと浮かべながら、携帯電話をポケットから取り出す。
時刻は夜七時過ぎ、何処かの家庭では温かな料理を囲んでいる頃合い。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます