3-⑤
洸吉の部屋の床には、大量の文字が黒いインクで殴り書きされていた。父親は視線を至る場所へと移し、息をする間も無く部屋の中を散策し始める。床には紙類が散らばり、先へ進むには踏むしかない。
今夜は風が吹き荒れていて、開いた窓の隙間からは強風が差し込んでいる。その影響で散らばっていた。
床に落ちていた丸められた新聞紙を手に取り、皺が寄った紙面を開いていく。
だが載っている記事は海洋問題や外交と言ったもので、部屋の落書きと関連があるとは思えなかった。
新聞を四つ折りに戻した瞬間、金属のような、重量のある塊が落ちる。落ちてきたのは銀色のリング。何も知らない父親はそれを窓枠に置き、そのまま床に書かれた文字を読み始めた。散らばった紙類を一気に捌けると、書かれた文字の全貌がようやく顔を出す。
二メートルほどの横幅と数行からなる言葉。
【人に好かれようとして、人に気に入られようとして、人に思われようとして、
地に足だけでなく頭や手のひらをつけて、欲する自分を表現する。
ただ、今の僕には世界を逆さに見ることくらいが精一杯。
それでダメなら世界を真正面に見直し、睨みつけて立ち去る。
数年後の明日にはどれだけの物を、地につければいいだろうか。】
これを洸吉が考えたのだろうか、いつ頃書いた者なのだろうか。脳内で読み上げ終えた父親は明かりを消し、ドアを閉めて一度リビングへ戻った。
考えのうちの大半を覆っていたのは、最近の話題の中心にもなっている事件。勿論、彼もニュースやSNS等でいくつかの〝詩〟も目にした事があった。それらを含めても少しばかり、類を感じざる得ない言葉使いと言い回しに思える。
シャツをカゴの中へと脱ぎ捨て、パーカーを羽織るとそのままキッチンへと向かった。冷蔵庫から取り出したのは半分の玉ねぎとパックに入った豚肉、そして昨日の余り物を寄せ集めた大皿。洸吉の分も構わずに作れる量を用意し、無心を繕って包丁を下ろす。
自分の息子が自死をするなど、考えた事などない。それは誰しも、親ならば当たり前のこと。ただ一度だけ、母親との喧嘩で洸吉が自ら命を絶とうとする瞬間を目にしたことはある。生きていた頃だから、もう五年以上前だがあの時は嫌な汗が体中に流れた。
妻がいた頃の追慕をしながらもフライパンの柄を器用に振るい、曲面上を食材らは混ざり合っていく。焼き音が耳周りにしつこく鳴り響く頃、外から強風に混ざるサイレンの様な音がうっすらと聞こえてきた。
徐々に威勢がなくなる焼き音を覆い被せるよう、救急車を思わせるサイレンが大きく、そして住んでいるマンションの辺りで停まった。赤い光は見えやしないが妙に気になり、火を止めベランダから真下を見下ろす。
そしてエントランスの入り口付近にできた人だかりが、すぐに彼の目に止まる。
「こんな夜中に大変だな」
どこからか聞こえてきた------「洸吉」と名を叫ぶ声。風が騒がしい冬夜。
そんな肌寒さが構える宙を通り過ぎていく、馴染みある名。
意識が脳に語りかける頃に彼は家を出ていて、外階段をぐるぐると駆け下りていく。冬にしては薄着ではあったが、寒さよりも身体中を覆っていったのは恐怖。息を切らしながら一階へと駆け下り、勢いよくエントランスを抜ける。
そしてゆっくり、視線を真正面へと向けた。嫌味にもすぐ側にある電灯は〝洸吉〟を含む辺り一面、頬から流れ出る血液を照らしている。意識はあるのか、彼は指先を動かしながら駆けつけた隊員に何かを伝えていた。欠けた月はそんな光景をぼーっと眺めているよう、ちょうど真上に掛かる。
数人の肉壁をかぎ分け洸吉の元へ辿り着いた頃、辺りの雑音など気にもせずに声を耳元へぶつけた。「お母さんは許してくれたのか------何があった------」
洸吉は掠れ声ながらに返し、月が雲に隠れると同時に静かに目を閉じていく。それから数十分後には分厚い雨雲が覆い尽くし、地面に付着した血をサラサラと流していく。雪へ変わるだろうと言う予報は当たらず、その日はただの冷たい雨。
それから先の記憶が父親には無かった。
必死になって声を出したことは薄っすらとあるものの、気がつくと病室の丸椅子に座っていた。
部屋中は薄暗く、何故かパーカーのフードをすっぽりと頭に被せたまま寝ていたよう。腕時計が示すのは明朝、窓前にある白濁のカーテンがぼやけて光る。
テレビ台を枕に、硬い壁に寄りかかって薄着で寝ていたせいか、各関節が窮屈そうに動き始める。彼はゆっくりと立ち上がり、ベッドにいる洸吉の頬につけられた綿を撫でた。特殊な器具がついているわけでも無く、肩や肘に血が少し滲むくらいの傷。
ただそれは、目に見えている部分の話。
それから一時間ほどで洸吉は普通に目を覚まし、特に何処かを痛む様子もなく昨夜の状況を語る。無理に聞いたわけではない、自発的に父親へ話した。
マンションの四階。洸吉はベランダの柵を乗り越え、脚力を大いに使って飛び降りた。
どんな体勢で、何を思って、走馬灯は本当にあるのか。そんな項目を埋めるがために、昨晩は飛んだのだと。まるで死んでいった若者と大差ない言葉を次々に話している。そして全てを聞いた父親は涙を流す、上半身だけを起こした洸吉を抱きしめながら。
「元より、昨日は死ぬつもりはなかった。あんな細々と、静かには」
洸吉の体は気がつけば大きく、そして優しく温かかった。伸びた髪は母親によく似ていて、光や手触りによく好かれている。両腕を回す父親は言葉を出そうにも嗚咽で詰まり、その度にベッドの骨組みがギシギシと揺れる。
「今日は雪じゃ無かったのか。水管が凍ると思って水を出してきたのに。お母さんがそう教えてくれたんだよ。そうすれば凍らないって」と抑揚のない話し方で彼は続ける。
「お父さんに心配かけたことは悪いと思ってる……」
父親はそれ以降も何も返さず、必死に抱きしめ続ける。洸吉がどんな思いで二十年を生きてきたかを知っているからこそ、今更になって真面目になってくれなどと言えるはずも無い。何も与えてこなかった父親としての自分に、今は一つも。
こうなってしまった世間が悪いのか、残されていくと自然に共存を求めてしまう本能が悪いのか。部屋の床に書かれていた言葉はどんな未来をもって成していくのか。抱きしめている間はずっと、長年無視していた親心に話しかけるばかり。
理解ができないわけではなく、理解してしまったら死を肯定する事へと繋がるのが怖かった。政府が出した〝標〟を簡単ではあるが目は通していて、ある程度の向き合い方と寄り添い方の知識は得たものの、想像と現実はまるで違っていた。
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