3-④
数時間ぶりに家に戻った洸吉を待っていたのは出社前の父親。心配そうに見つめるその目も、今は信用ならないと告げて自分の部屋へと戻った。
クローゼットを開けて大きめの段ボール箱を取り出し、硬く止められたテープをなんとか引き剥がして中身を出していく。まだ封が開けられていない紙箱と白濁色の袋。
洸吉は前屈みになって中を覗き、一冊の萎びたノートを手に取った。
数年前に母親への不満を書いていたノート、後悔における全ての元凶。
表紙の端をゆっくりとつまみ、ページを開くと幼なげな字で日記調になって書かれていた。最初のうちは日々の振り返りや学校生活などが記されていたが、ページの半分を過ぎれば使う言葉も穢らわしいものへと変わっていった。そして、あるページは黒い油性ペンでぐちゃぐちゃにかき消されていて、異様な心理状態だったと推測ができる。
窓外の光を紙に透かし、上書きされる前をゆっくりと口に出す。
「ひとに好かれ……ようとして、人に気に入られ……よ------」とか細い声で読み終わり、続けてページを捲る。何を思って書いていたかは思い出せない事も多いが、必死に難しい言葉を用いて書こうとしていた事は覚えている。
ノートの後半は全て、理不尽に怒る母親へ宛てた暴言ばかり。ページを捲るその手を止めようと必死に力んでみるが、記憶部は貪欲で全てを思い出すまで止まらない。
結局、ノートを全て読み終わるまでに一時間が過ぎ、そっと段ボールの中へと戻した。
他に取り出した物もいくつかあり、一つずつ封を開けていく。
三十センチほどの大きさの紙袋から出てきたのは、誰もが知る有名ブランドのロゴが入った手提げバッグ。白濁色の大きな袋から出てきたのは新品のスーツ。
他にも値打ちがある時計やカメラが箱の中からは出てきた。床に置かれたそれらを洸吉はぼーっと見つめ、次第に眠気が体を包んでいく。壁に寄りかかり、ようやく洸吉は力尽きた。
その日を境に洸吉は部屋から出る事は無くなり、亜椛や蓮司からのメールも返さなくなった。父親が理由を聞けば、彼は「やる事があるから」の一点張り。
ご飯の時間になれば不意にリビングに現れ、あっさりと平らげると部屋へと戻っていく。特に物騒な物音も声もない為父親はあまり干渉しなかったが、そんな生活が二週間ほど続いた。
すると心配をする亜椛が度々、家の前に訪れるようになる。
父親が会社へ向かったある日、珍しく洸吉はのそっと部屋から出てきた。
肩を掠れるほど伸び切った後ろ髪を指先で振り下ろし、歯ブラシを無造作に動かす。
冬場という理由で風呂も数日は入っていない、髭もそのまま放置を続けている。洗面鏡に映った容姿はあまりにも汚れていて、否定の意を込めて洸吉は鏡面に拳をぶつけた。
そして必然的にリビングへ響く物音。虚しさと言う、生き甲斐からは真逆のものをどのように埋めていくのか。
そんな格好つけた擬問を脳内に浮かべ、答えに縋るように洸吉は携帯を開いた。
画面に映っているのは〝詩〟が載せられているSNSのアカウント。
こんな時でも死んだ三人の言葉は煙のように脳頭へと昇り、やがて全身を巡る。自分が生きていて良い理由は、何日探し続けても見つかる事はなかった。病弱な母親の心身までも追い詰めていた卑劣なこの自分が。
政治家ご愛用の〝記憶にない〟、脳内は最もパーソナルな空間でいて〝忘れた〟と口に出せばそれ以上は追及されない。だがそこに罪悪感は残り続ける。
ただ、本当に一定期間忘れていたとしたら------そんな思考のサイクル繰り返し、やがて洸吉は壊れていった。怒りが向くのは世間でも皺を見せつける大人でも無い。のうのうと二十年を生きた、自分に。
洸吉は手紙を日記が書かれたノートに挟み、ことあるごとに読み直しては何かをノートに書き残す。前までは父親が買ってきた食材で料理はしていたが、最近は味の無いパンをそのまま口に入れている。腹が鳴っても眠れば気にはならない事を最近学んだ。
話はそれから数日後、父親は窓外が黒く静まる頃に帰宅をした。玄関の鍵は珍しく閉められていて、洸吉が親しんで履く靴の踵が揃えられている。脱いだ革靴をしまおうとした瞬間、どこからか水が流れでる音が耳に入ってきた。
父親は危なげにふらつくその足でキッチンへと向かい、すぐに蛇口を閉める。キュッと喉を締める音。それ以降に家の中からふっと音がなくなったが、怖さにも似た寒気がして振り返るが景色には何の変化も無い。
冬夜だと言うのにベランダ前の窓は少し開いていて、冷たい風が通り抜ける。
キッチンから洸吉の名を呼ぶが、数秒待つも返っては来なかった。脱いだコートとジャケットを椅子の背に掛け、ネクタイを左右に解きながら廊下を進んでいく。足音をわざと大きくたて、何度も名前を呼んでみるが物音一つしない。置かれている空き箱を足先でずらし、ゆっくりと洸吉の部屋のドアを開いていく。
奥の窓が半分開いていて、眩しいほどに部屋の明かりがついていた。「いるのか? 返事がなかったから」と呟きながらゆっくりと中を覗く。その瞬間、彼は声を張り上げ、心音が身体中にビキビキと響き渡る感覚が襲う。「------なんだよ」
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