3-③
いつから寝ていたのか。そんな事を考える間も無く、近くにあったプラスチック製のバインダーを本郷の頭の上で振りかぶり、高らかな音を立てぶつける。
ハッと目覚める本郷だったが、目の前に立っていたのは大粒の涙を流す洸吉。
「お前もそこらの奴と変わんねえよ、クソ汚ねえ顔しやがって……」
本郷は痛む頭を押さえたまま否定の意味を込め、首を急いで横に振り続ける。「違う、本当に違う! 夜勤がずっと続いていて……違うんだ!」
「もういいです。どうせ何を話していたかなんて、何も覚えていないんでしょう?」
「本当にごめん……あれだよな? お母さんへ向けた言葉をどっかにあげ……」
本郷は何度も謝り続けるが、洸吉は横を通り過ぎて奥の部屋から出ていった。
そして店を出て、ゆっくりと肩を落としながら帰路につく。
外景色には朝日が登り始め、遠くに見える薄い雲はオレンジ色を含んでいる。肌寒さは多少感じるが、体を震わせるほどでもない。
怒りと悲しみで十分に体は温まっていて、洸吉は意味もなく遠回りして家に帰ることを選んだ。始発前の駅が遠くに見えると、赤信号を無視して真っ直ぐに進む。
目を細めてみると、数メートル先に人が倒れているのが分かった。何かを抱えるようにして蹲っているが、冬夜を暖材なしで過ごすのは過酷を極める。
洸吉は早足で駆け寄り、横たわる肩を揺らす。「なぁ大丈夫か? おっさん」
その老人男性は呻き声を漏らしながらも目を開ける事はせず、一升瓶を抱えたまま地面に横たわる。酒気混ざる澱んだ空気が辺りには広がっていて、数分後に老人は目を開けてぶつぶつと何かを呟き始めた。
まだ酔いが覚めていないのだろうと、特に予定も無い洸吉は少し離れた場所で目を向ける。そして老人は真後ろに立っていた洸吉を見つけ、「若いもんか?」と声を掛けた。目元は完全に開いてはおらず、頭痛がするのか頭を抱えながら。
「一昨日、二十歳になったばかり。早く家に帰りなよ」
じっと睨む老人は再び地面に倒れ、盛大に咳き込む。
「こんなところで寝る馬鹿は珍しいよ、早く家に帰りなよ」
「……お前らみてぇな死にたがりがいるせいで、国は馬鹿になってるんだよ」
「何言ってんだ酔ってんのか」と返す洸吉は真下に視線を向け、呆れながら腕を組む。
「ポロポロ死んでいくじゃねぇか。流行りか病気か知らねぇけど、今の若いもんは何もかもが弱ぇんだよ」
「そういう事を今言うのは不謹慎だぞ、老害もいいところだな」
「あぁ? 舐めてんのかクソガキ、女みてぇに髪伸ばしやがって」
「そう言う言葉も使ったらダメ、おっさんが若い頃に必死に作ってきた世界だとな」
口はよく動くが、老人は一向に体を起こそうとはせずに話を続ける。歩道の真ん中ではあるが、辺りには人らしき影もなく閑散を極める。
「ぶっ殺してやろうかぁ? クソガキ」
「死ぬのはおっさんだろ、こんなところで寝てるんだからよ」
洸吉は軽蔑した目を向けながらゆっくりと近づき、蹲る老人を思い切り蹴り上げる。
その瞬間の気分は晴れやかで、取り巻く寒さや悩みが一瞬で吹き飛ぶ感覚があった。
抱えていた一升瓶は勢いよく回転し、ガードレールにぶつかって静止した。だが、老人は痛がる事もなく四つん這いで一升瓶を追いかける。傷がない事、中身が漏れ出していない事を確認すると、ようやく脇腹を抑え苦い顔を始めた。
「何、機敏に動いてんだよ……馬鹿みたいに瓶なんか追いかけてよ」
洸吉は続けて起き上がった上半身を蹴り、次は背中から倒れ込む老人を見下ろす。
「あんまり思っている事、考えている事を口に出すな。傷つく人は必ずいるから」
そんな台詞をよく吐けたものだと、洸吉は母親を頭に浮かべながら放つ。
ただ、老人の腕から一升瓶が離れることは無く、常に抱きしめたまま。洸吉は妙な感情に襲われ、彼をじっと睨みつける。「なんで蹴られた体より先に、その酒瓶の傷とかを確認し始めたんだ?」
「何よりも大事なもんだしよ。クソガキには到底、理解できる事じゃねぇよ」と自己陶酔な事を言う老人はゆっくりと壁に寄り掛かり、酒を片手で持ち上げて飲み始めた。
「それがおっさんにとって、一番大事なもんって事か? 自分の命よりもか?」
「その時々の一瞬で大事なもんは変わる。お前には分かんねえだろ」
理解が滞る洸吉は、次第に頭に血が上り声を張り上げる。
「何一つ理解できねぇよ! 何言ってのかも、大人は何を考えてんのかも!」
薄雲の切れ間から覗く朝光は辺りを照らし始め、酒瓶に屈折して通り抜ける。
「素直な面もあるじゃねえか、クソガキ。何もお前の歳で理解できるもんじゃねぇから、ゆっくり理解していけ。理解できる生き方をしろ」と諭す老人はいきなり笑い始め、酒瓶を垂直に喉奥へと流し込んでいく。
洸吉の頭の中は生前の母親の姿がいくつも浮かび上がり、優しい表情ばかりを見せる。
「------じゃあ親にとっての子供は、その酒みたいなもんなのか?」
「だからそれをこれから理解していけって言ってんだよ。なんでも聞くな、俺はお前の親でも先生でもねぇんだしよ」
老人は酒を最後に一口飲むと目をゆっくりと閉じていき、一升瓶を抱いたまま再び眠りについた。防寒とは程遠い薄手のジャケット、革のブーツと網目が解けたセーター、そんな姿を目に焼き付けた洸吉は振り返って二度目の家路に着く。
無駄な遠回りでは無かったが、気分はあまり良くはない。それでも洸吉は何かを見つけたように前だけを向き、携帯のメモアプリに何かを残す。
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