3-②

 それから手紙を封筒へと戻し、洸吉はそのままベッドに倒れた。ぐるぐると駆け回る年数や日付と、車窓から見たような一瞬で過ぎる景色が多くの声色と共に頭の中にはあった。誰かが「洸吉」や別の名前で呼ぶ声、頭を撫でようと向かってくる母親の手。


 窓外は非力な音を立てながら横風が吹き、すぐ側の窓ガラスが振動している。


 静かな場所など、その瞬間の洸吉にはどこにも無かった。


 目を閉じても意識自体が遠のく感覚はなく、常に日記を読んでしまった母親の姿を想像していた。そこには一つも笑顔は無く、咳き込む姿や涙する姿が幾度となく映る。

 

 

 時刻は夜三時を過ぎ、気が付けばベッドに入って七時間が経過していた。


 父親はだいぶ前に帰宅していたが、何かを感じ取ったのか呼ぶ声もなく、微かに何かを炒めている音だけが聞こえた。氷点下を行き来するほどの外気温でさえ、ずっとベッドに入っていた洸吉の体温は上がったままで少し汗ばむほど。魘されている感覚に近いのだろうか、一瞬でも落ち着く時間は無かった。


 洸吉はベッドから起き上がり、何かを否定するかのように首を何度も横に振る。


 部屋の明かりをつけて窓外を眺めると、唯一光るコンビニの看板が目についた。かなり遠くにあるが、夜ご飯を食べていない体は本能的に食を求めている。


 グレーのコートを羽織り、長い髪の毛をフードの中へ仕舞って家出ていった。

 

 夜風はすぐに首元から汗を冷やし始め、数秒もすれば腕を組んで寒さを凌ぐ。数分後にはバイト先でもあるコンビニに着き、店内へ入ると床掃除をする本郷が出迎えた。


 すぐに洸吉だと気が付き、拭く手を止めて駆け寄ってくる。「夜中の三時だよ? こんな時間に起きて何してんのよ」


 「なんかお腹すいちゃって……」


 何かを思い出したような表情と仕草の本郷は、レジ奥へと向かい帰ってきた時に手にあったのは廃棄の惣菜パンとおにぎり。「買わなくても、いくらでもあるから持てってよ。何なら欲しいの買ってあげるし」と言って彼は洸吉にそれらを手渡す。


 「なんで本郷さんってそんなに優しいんすか? 怖いくらいなんですけど」


 「全然、飲み物とかもあるからね」本郷が指を刺すレジ奥にはカゴに入った多くの廃棄物。賞味期限も数時間前に切れたものばかりで、その場で食べる分には心配はない。


 店内には本郷と洸吉だけ、あとは時間にそぐわず店内放送だけが響き渡る。


 「……なんかあったような顔してたからさ、それにこんな時間だし」


 乾燥が襲う冬場だろうと本郷の顔はテカテカに脂ぎっていて、出会った頃よりもさらにふくよかな印象を持つ。だが、彼は変わらず優しい。


 「ちょっとあったんすけど、まぁ、これからどうしようかなって」


 「今日が月初だろ? ってことはやめる場合は無断にしないと、正規でやめる場合はあと一ヶ月勤務する事になっちゃうからな」


 洸吉の表情からどんなものを感じ取ったのだろうか。無類の綺麗好きの本郷は掃除を再開し、奥の棚前を拭き始める。


 その場で言われた事を少しずつ理解している洸吉だったが、バイトを辞める気だった事は間違いない。見抜かれたのではなく、表情からでも滲み出ていたのだろうか。

 「でも無断って……普通はしちゃいけない事っすよね? しかも近所に住んでるし」


 パンの袋を開け、洸吉は大口で齧り付く。


 「出会った頃にな、この子はすぐに飛ぶだろうって思ってたのよ。でも気がつけば四ヶ月は続けてたろ? 初めてのバイトでしかも接客、それはすげえ事だよ」と反対側の棚で作業する本郷は率直に洸吉を褒めた。声は妙に落ち着いていて、彼から姿は見えないが優しい顔をしているんだろうと想像がつく。


 「あの亜椛ちゃん、前にこんな話をしてきたの。『大人が嫌いだった洸吉が、こうして普通に話している事がびっくりです。本郷さん、裏でお金でも渡しているんですか?』ってさ」


 亜椛の家からこの店までは歩いて十分ほど。その間に数店舗のコンビニがあるが、わざわざ店に来ていた事は知っている。それでも洸吉が不在の時にも利用していた事は初めて知った。


 「そんな事言ってたんですね、でも本郷さんだから話せたっていう理由もあります」


 「それ聞いてすごい嬉しくなちゃってさ、俺。まだ出会って半年も無いけど、生きてて良かったとか思ったくらいに」


 反対側から本郷は顔を覗かせ、何かを思い出すように俯きながら立ち尽くす洸吉に目を向ける。さっき渡したパンとおにぎりは全て完食していた。


 「……洸吉君がどうして大人嫌いになったかはよく知らないけど、案外良いやつもいるって事を教えられて良かった。それだけでもここで働いた意味はあるよ」


 洸吉はフードを更に深く被り、前髪で目元を隠しながらゆっくりと頷く。「俺、誰かにすごいって言われたの初めてです。それがまさか……最初がほ、本郷さんとは」


 「なんだよ、汗っかきのおっさんじゃ嫌だったのかよ!」


 「違いますっ。そういう意味じゃなくて」


 戯けた声で返す本郷は目元を擦る洸吉に近づき、ポケットから炭酸飲料を取り出す。


 「そんな事分かってる。もうすぐ休憩時間だし、客も来ねえから奥で座って話そうぜ」


 残された手紙を読んでから、洸吉は過去の自分を貶す事ばかりを考えていた。幼なげながらも負の感情は全て漏れ出していて、病気と戦う母親をさらに苦しめていた事。そして何より、今まで忘れていた数々の記憶。それに伴う後悔の先延ばし。


 洸吉は母親と手紙の件を全て話し、本郷の目の前で初めて涙を流した。

 


 ただ、洸吉の目の前が涙で曇っていた。



 本郷がどんな表情で聞いているか、頷いているかすらも見ずに淡々と話し続け、ようやく一息ついて顔を上げると------



 本郷は首を直角に曲げ、すでに寝息を溢しながら目を瞑っていた。と同時に裏切りれた事による退廃的な音が洸吉の頭の中で響く。

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