2-⑤
初めて明かした家族の話を聞いた亜椛は「私は嫌いになれない」と一言感想を述べた。確かに優しいだけではない、人間的な部分もあったと思うが洸吉が嫌う理由はこの話の別に存在する。
話が如何に長々と続いていたかを、透明なカップ中の溶けた氷が証明していた。そんな事情に構う事なく洸吉は話を再開する。
それから一年ほど経ち、洸吉は順当に十四歳を迎えた。大方の家事はこなせるようになり、母親が寝込んでいる時は代わって引き受けたりもする。ベッドで読んだ本の知識を話す以外の会話はあまりないが、多くの事を話さなければ口喧嘩も自然に減っていく。
この頃から数日おきではあるが、日記をつけ始めた。
そして父親が家に帰ってくる周期は三ヶ月に一度に落ち着き、洸吉と会っても何ら特別なことはせずに数日間を過ごすだけ。部活で多くの時間を有していた洸吉にとって、帰宅からベッドへ入るまでの時間内で多くの家事をこなす。
廃れていった母親の親心を遠くに感じつつ、見つけ次第に部屋中を掃除しないと積もる汚れには追い付けない。
夕飯を食べ終え、洸吉はソファの下やテレビ台を細やかに掃除し始めた。だが突然、夜中にも限らず母親は声を荒げ始める。
急だった為に何と発音したのかはうまく聞き取れず、洸吉は下手に出て聞き返した。「いきなり何? 何か言った?」
「それってお母さんへの当てつけ? そんな嫌な顔して掃除してさ……」屈んだ姿勢で拭き掃除をしていた洸吉の前に立ち、母親は睨みつける。
「当てつけって何? 汚かったから掃除しただけ、部活で疲れてんだよ」
睨み合っている暇も理由も無い。不意に開いてしまう怒りや不満の吐口だろうと母親を無視し、洸吉は片腕を伸ばして埃を集める。相手の表情は、自分の表情を映す鏡とついこの前の夕飯時に教えてくれたばかり。嫌な顔に見えていたのなら、彼女も同様。
「今日もそこを掃除したばかり、いつもしないくせに今日に限って……」
「いつもできないから、時間がある時にやってんだよ。めちゃめちゃ埃あるぞ」洸吉は顔を上げ、黒ずんだタオルを見せつける。
「じゃあどうして嫌な顔をしてやってたの? 馬鹿にしてるみたいに」
なんて答えれば静まってくれるのか。感情の起伏は時間が経てば下っていくが、待っている暇があるなら他を掃除したい。
「嫌な顔していないし、じゃあ逆に掃除してない場所とかってある?」
洸吉は両肩を落とし、仕方がなく弱々しい声で引き下がる。
「まだ子どものくせに、よくそんな呆れた顔して話せるね」怒る対象がずらされていくのは普段と変わりない。何を思って終始睨みつけているのか、洸吉にもわかるはずも無い。
「部屋を綺麗に保ちたいって思ってるだけ、一人で掃除するよりも効率いいでしょ」
「効率? 何賢くあろうとしてんの。体が動かないなりにお母さんだってやってんの。それをいつも嫌な顔してやっているでしょ?」
「ただ部活で疲れているだけ。掃除しているとかは見ればわかるし、何がそんなに怒らなきゃいけない事なの」
理不尽に怒り続ける母親は何も返さず、執拗に足音を立ててリビングから出ていく。その場に残ったのは、深く大きなため息と両肩に降りかかる疲れ。
その日は掃除をやめてすぐに自分の部屋へと戻った。〝普通〟とは何をもって引かれる基準であるのか、今は少しでも自らを卑下して見ていたいと思うばかり。
勉強をしようと机に向かったが、その日の日記には誰にも話せない苦悩をひたすら言葉へと変えて書き続けた。まるで溜まった鬱憤を少しでも軽く、吐き出すかのように。
そんな母親でも、生活においての買い物だけは忘れずに行う。特に気にせず生活していたが、ある時の帰りが遅かった。既に携帯を所持していた洸吉はメールにて、一体遅くまでどこへ行ったのかを聞いた日がある。
毎回車で向かっているが、考えられるのは事故や体調不良等の運転困難。忙しなくメールの返信を待っている間に母親は帰宅をし、そのままの足でソファへと倒れ込んだ。
見たところ、荷物には生活用品や食材らしきものは無い。
「ずっと買い物行ってたんじゃないの?」母親は「ごめん」と一言だけ呟き、ゆっくりと起き上がる。そんな様子をじっと見つめる洸吉は急いでグラスに水を注ぎ近くに置いた。
「大丈夫? 買い物行ってただけじゃないの?」
「色々寄りたいところがって……そういやお父さんはまだ帰ってきてないのね」
〝帰ってくる〟そんな情報すらたった今初めて聞いた洸吉。作った夕飯も二人分。
「何にも連絡ないけど、この前帰ってきたばっかりじゃん」
母親は何も答える事なくソファから立ち上がり、トイレへと向かう途中に家のドアが開いた。そそくさと家に帰ってきた父親の手にはビニール袋。見るからにその中に生活用品が入っている膨らみ方。「今日、帰ってくる日だったのね」
「突然決まってな、二週間くらいはいると思うから」脱いだジャケットを腕に挟み、父親は乱雑に革靴を脱ぐと何かを母親と話し、リビングへと入ってきた。母親の体調が良くないことを知っていたようで、特に会っても驚きはしていない。
口角を不自然に持ち上げ、テレビを見れば大袈裟に笑う。ほんの少しの教養を得ている当時の洸吉から見ても、この状況は可笑しくも不思議であった。何かを自分に隠しているという先見と、やけに気丈に振る舞う父親。口には出さなかったが、どこか家族内の雰囲気に引っかかる。
結局、その日の母親は夕食を取らずに寝てしまい、リビングには父親と洸吉だけが残った。散々似通った質問は受け、当たり障りの無い答えを返す。父親は気を遣ってか母親の体調面に触れようとはせず、夜十時を過ぎたあたりで洸吉が自ら話題を会話に置いた。
そして父親が語り出したのは、多数派とも取れるありきたりなもの。
「毎日頑張ってくれてるから、たまには体調も崩す事もあるだろう?」
無知故に質問の真意から外れてしまったとも取れるが、父親はずっと笑顔を顔面に張り付けたまま。親だろうといい、生理的に不気味だと感じてしまう。
「今日明日はゆっくり寝てあげれば、ちょっとは良くなるよ」
「じゃあどうしてずっと、お父さんは笑ってるの? 何か良いことがあって笑ってるのか、笑顔で過ごさなきゃいけない理由があるのか」父親は少し後ろに引き下がった。見ない間に成長した息子の心身、真剣な表情。
「家の中が暗くならない為にだよ、せっかく久しぶりに帰ってきたのに」
「別に普段から家の中は明るくないよ、だから無理しなくてもいいし」
洸吉は伝えたい事を出し切り、部屋から出て行こうとした瞬間に父親は低い声で「いつか分かってくれたらいい」と言葉を残す。
そんな後味の悪い記憶もある------
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