2-④
学校から直帰した十歳の洸吉は、ランドセルも置かずに奥の部屋へと早足で向かう。体が通れるくらいまで扉を開け、忍び足で中に入りゆっくりと閉めた。通販の空き箱が積み重ねられている隙間に片腕を伸ばし、掴んだのは携帯ゲーム機。音を立てずにランドセルを寝かせ、可愛げなため息の後は壁に寄りかかってゲームを始めた。
平日の夕方頃は誰も家におらず、数時間のゲームが約束されている。母親は買い物という理由で週に二度、家を開けているが鍵の音がするのは夜七時を過ぎた頃。
洸吉は幾度も体勢を変えてはゲーム機の画面を見つめ、次第に窓外は徐々に翳りを含んでいく。二時間も経てば腹がなり、三時間も経てば眠気が襲う。ゲーム機を空き箱の下に戻したのは始めて三時間後。扉を開け、ランドセルの中身を取り出してテーブルの上へと広げた。
いつもなら聞こえる鍵の音もせず、たまにある置き手紙も見当たらない。洸吉は不思議に思って各部屋を回るも、特に変わった事はなかった。ソファの横に置かれている固定電話を手に取り、父親へと電話を掛けるも機械音が繰り返されるだけ。微かに寂しさは覚えるも、いざ騒がしい母親が帰ってきたらまた一人が恋しくなるだろうと彼は思った。
冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、夜風が吹くベランダに出ていく。描く理想の一人時間を試してみようと思い立ったが、置かれた椅子は硬く座り心地が悪い。
下の方から自転車を止めた音が聞こえ、洸吉は背伸びをしたまま駐輪場に視線を向けると母親の姿があった。洸吉は四階から母親を甲高い声で呼ぶ。
すると母親は血相を変えて真下のエントランスへ走って行った。すぐに望んでいた鍵の音が聞こえて洸吉に駆け寄った瞬間、思い切り頬に平手打ちをする。自転車の向かい風で冷えたのか、頬に残ったのは痛みよりも冷ややかな感触。
「なんで約束を守れないの? ベランダに出てもいいって言ってないでしょ」
言葉より先に手を出されては、何を言われても意識が向かない。洸吉は目尻に涙を浮かべながらも、母親をじっと見つめる。
「何その顔……言いたいことでもあるの?」言いたい事、聞きたい事はいくらでもあった。それでもこの母親に対しては誰であろうと、口を慎めと教えておきたい。洸吉は必死に首を横へ振り、膨れる涙を堪える。
「すぐ泣く、いつまでも馬鹿みたいに泣いて。だったら大人しくしてなよ」
がっしりと肩を掴んでいた手を離し、母親は洸吉を部屋の中へ戻るように促す。
壁の時計は夜八時を示しているが、母親は一向にキッチンへと向かわない。持って帰ってきた歪に膨らむビニール袋にも手を掛けず、ソファに座ってテレビを見続ける。
「まだご飯の時間来ない? ゲームしてていい?」洸吉は奥の部屋の扉に手を掛け、背を向ける母親にそう話しかける。「適当に食べておいて、私はお腹すいてないし」
咳き込みながらも母親はキッチンを指差し、テレビの音を二つ上げる。スピーカーから響く掠れた笑い声には似合わない緊迫した空気。
幼げな洸吉の意識にだって感じ取れるほど、すぐ側に怒りがあるように思えた。
一旦は扉から手を離し、洸吉はキッチンへ向かった。一人で何かを食べるのには嫌なほど慣れている、湯の沸かし方や即席麺の調理。静かに冷蔵庫を開け、中を覗くも透明な棚の上には数個の食材とお米が入っているケース。
「炒飯作ってもいい?」
母親はテレビに視線を向けたまま「好きに作りな」と返す。疲れが籠ったその声には手先の成長や経験とは縁遠い、適当にあしらっているようにも聞こえた。
床に直置きされた袋から食材を取り出し、慣れた手つきで卵を割って解いていく。
足元に置いていたのは木製の箱、身の丈に合わないキッチンの高さも難なく合わせた。ネギを切り、生肉を軽く炒めながらも味を調節。フライパンに米と解いた卵を入れると、片手では少々重いフライパンを器用に振り、続けて調味料や食材を混ぜていく。
彼女の耳元にも炒め音は聞こえていて、テレビに気を向けられはしなかった。
焼き色が全面についた頃、火を止めて平皿に移していく。一人で食べ切るには余る量だったが、母親はお腹が空いていないと言っていた事を思い出す。洸吉はもう一枚の皿に移しラップをかけようとした瞬間、背中の方から母親の手が伸びてきた。
手掴みで炒飯を口元に運び、味を嗜み始める。「こっち来てたの気づかなかった」
母親は無表情で飲み込むと「上手にできるようになったじゃん」と洸吉の腕を褒めた。
「実はお腹すいてたのよー、ありがとう」と被せ途中だったラップを外し、彼女は盛り付けられた皿を持ってテーブルに座る。
「じゃあ言ってよ、俺の皿の方にとんでもない量盛ってあるし……」洸吉は二本のスプーンを皿に乗せ、キッチンから出ていく。珍しく今日は母親の機嫌が良かっただけと現状を鵜呑みにせず、必死に表情は嬉しがってその場を過ごした。
やがて洸吉が中学校に上がる頃、母親は睨むような目つきに変わっていった。何かに怒りをぶつけるでもなく、日常な些細な凹凸への舌打ちや暴言。買い物以外はソファの上で過ごしているイメージがあり、常に難しそうな本を読んでいた。
洸吉はそんな自堕落な母親を次第に嫌っていき、交わす言葉も少なくなっていく。反抗期とは言い難い彼女への嫌厭は、十分に態度にも現れていった。
夕飯時の話題と言えば隣宅の文句、それとニュースへの主観的意見。黙々と食べ進める洸吉に意見を求めてくるが、母親が多数派ではない事に気づいていた。その為、優しく否定を繰り返し、どうにかズレを正そうとしても変わらず。
あまり大多数が触れたがらない民族問題や宗教関連のニュースを見つけては、ぶつぶつと一人で楽しんで見ている。
酒も煙草も家庭にはなかったが、良い香りの温かな色も含まれていない。
母親は本で学んだ言葉を会話で使うことが多かった。同種の意味をあえて小難しい熟語へと変換したり、聞き馴染みのない横文字を話したり。愚痴よりはマシだろうと思って聞き流しているが、頷きさえすれば機嫌を損ねる事はなかった。
この頃、洸吉は偶然漫画の話で盛り上がった蓮司と出会っている。家に帰れば不満は蓄積されるが、学校生活は難なく笑顔で過ごしていた。
「------ねぇ、聞いてんの? だから輪廻っていうのはね」
フォークにサラダを重ねて突き刺し、微かに聞こえるテレビ音を背に母親は語る。
「死んだら天国か地獄に行くと思ってるでしょ? そうじゃなくてまた生き返っちゃうっていう話なの、世の中はそれの繰り返しって! 本当なのかね」
「知らないし……でももう一度、人生やり直すのはめんどくさい」
対等に話し合えているのかと自らを包括して見る時もあるが、母親はそんな事を気にしていないよう、洸吉は適当に相槌を感覚で入れていく。
「でもさ、他人の人生を見て、あっ……羨ましいってならない? 顔が良かったり異性からモテモテとかさ。そこで登場するのが輪廻なのさ」
今日はやけに表情が豊かな印象、何か良いことでもあったのかと洸吉は勘繰る。
「ごく稀にね、前の人生を覚えている人って居るんだって。もしそうなら、次の人生絶対に楽しいと思うの。死ぬのは悲しいことだけど、何か楽しみがないとやってられないって昔の人は思ったのかなって、これお母さんの意見だけど」
母親は多数派では無いと理解していながらも、その意見は洸吉も美しく思えた。
「じゃあ、お母さんが生まれ変わったら次はどんな人生がいいの? 顔とか性格は今のままで育っていくとして」そんな問いかけを彼女は嬉しそうに受け取り、じっと考え始めた。
「でも今の人生しか知らないし、もう一度似たような人生になっちゃうかも。体が弱いのは勘弁してほしいけど、若い頃はそれなりに遊べてたからね」
「じゃあもう一回、お父さんと結婚するの? 全く家に帰ってこないのに」
サラダが盛られていた器はいつの間にか空になり、フォークの先がカツンと音を鳴らす。
「でも、そうじゃないと、洸吉は生まれてこないでしょ? でももう一回やり直せるなら、お母さんは絶対に何も着飾らない自分で過ごすけどね」
「何それ、なんか特別に嫌なことでもあったの?」着飾ったというのは何を指しているのだろうかと、疑問を持つも母親は急に過去の自分を語り始めた。
「私は若い頃、とんでもなく見栄とか良い人感を出してたの。全員から気に入れられようとしてたから。綺麗にいえば八方美人、汚く言えばわがままとか自信がない馬鹿」
「そうだったんだ」
「それに人から注目される事だったら何でもしたよ。お酒を一気に飲んだり、手足をぶらぶらさせてカラオケしたり、でも一人になると泣いてんの。本当に馬鹿だったよ」
聞き馴染みのない母親の思い出話、何をきっかけに語り始まったのかも忘れ、洸吉は興味だけを向ける。
「でもお父さんとの間に洸吉ができて、やっとその苦しい輪から抜け出せたの。一人で泣いてる時間もずっと腕には洸吉がいたから、そんな暇ないし。でも体が弱かったから、長い間迷惑かけてきたと思う。ごめんね」と言い、母親は急に頭を下げた。
口をぽかんと開けたままの洸吉は必死に宥めるも彼女は顔を上げようとしない。そしていつの間に両肩が震え始め、涙を流し始める。
「何で急に泣くんだ、どんな導入で泣いてんだよ」
「分からないけどなんか色々あったなって、思い出しちゃって」
時計はちょうど九時を示す。何かの区切りだと捉えた洸吉はテーブルの上の皿を片付け始め、シンクに手を突っ込んで洗い物を始めた。
そんな数少ない良好な記憶------
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