1-⑨
随分と嫌な夢を見た。そしてあの言葉も、同様に。
話は蓮司が洸吉へ、友人の生きた全てを貴ぶ旨を通話で話す数時間前------
目の上から血を流す蓮司は、迷惑も構わず壁の薄い部屋の中で声を荒げていた。
場所は数日前にもゲームをしに訪れていた友人、雅史の家。明かりの無い洗面台にはべっとりと血の跡。床にも点々と滴り落ちていて、辿れば雅史がうつ伏せで倒れていた。
「本当に訳がわかんねぇから……なぁっ雅史!」
倒れている雅史の手元には、タグの付いたままのナイフ。その手首から肘にかけての数センチの切り傷から、血液は幾何学模様のように流れ出ていた。
置かれた丸テーブルの上には散らばった角状の白い粒と、二リットルのペットボトル。濃茶の小瓶も転がっていたが、蓋が無く中身は空。
「待てって……今来たばっかじゃん」
「ごめんごめん、今だと思っちゃってさ」
「今って何がだよ、今日もゲームするんだろ?」
雅史の意識は欠けてはおらず、ぼーっと滴り落ちる様を見つめながらひたすら謝る。鞄を投げ捨て蓮司は勢いよく窓を開けると、二階から慣れない大声で助けを求めた。
「誰か! 今すぐこの場所に……怪我人が!」普段使わない喉元の筋肉からは芯が浮き出ていて、こめかみには絡まり合う配線のように血管が浮き出る。
雅史の住んでいる二階建てのアパートは駅近くにあり、人通りも多い。すぐに通行人は上を見上げるも、誰一人として立ち止まってくれる人はいなかった。
そして何より、このアパート自体が街に煙たがられていると最近知ったばかり。理由は簡単で、夜な夜な雅史が奇声を上げるからだと言う。
「お願いします! 腕から大量の血が出ていて」そう、何度も二階から叫び続けていると、一人の若者が走って建物の中へと入ってきた。蓮司はすぐにドアを開け、若者を中へと誘導するも雅史は虚な目で不気味に微笑む。
「何笑ってんだ、その傷……痛くないのか? 頭おかしいのか?」
「痛くならないように、それなりの準備はしたつもりだから」
雅史のそんな態度に蓮司は嫌気が刺し、両歯をギチギチと擦り合わせる。
助けに来た若者は携帯で処置方法を調べるが、運悪く白い画面が切り替わる事はない。仕方がなく彼は微かな知識と記憶で、腕元を締め付け流れ出る血を留まらせる。
恐怖心か、緊張かは分からないが普段のように両手に力が入り切らない。
「どんだけ深く刺したんだよ」とがむしゃらに傷口を端から抑えるが、それに応じて雅史はうめき声を上げ続ける。開いた窓からその声は漏れ出し、通行人は咄嗟に見上げる。
「分からない、来た時にはもう血が出ていて……」
「なんか神経とか分からないけど素人手当じゃまずいよな? 消毒とかも知らん」
「でももう最優先は血を止める事だと、分からないけどそう思う」
蓮司は雅史の腕を持ち上げ、弛んでいる皮膚を寄せ集める。彼の意識は変わらずはっきりしていて、目の前で翻弄される二人を見つめながら涙を流す。
「こんな汚いことさせて……本当にごめんなさい」
「汚いって分かるんなら、こんなことすんなアホ」とボソボソと呟き、若者は羽織っていたパーカーを脱ぎ始める。
傷口のある雅史の腕に巻かれていくのは、真っ直ぐに広げられた服の袖口部分。塞げば何かが変わると思っていたが、じわじわと灰色の繊維を侵食していく赤黒い血。若者は大きく舌打ちを響かせ、もう片方の袖も腕に巻き付け始める。
「反対の駅のちょっと行った所、何でも治せるでかい病院あるよな?」
「ごめん、俺ここら辺、来たばっかで全く詳しくない」
「走って十分くらいの所にある、俺も昔そこで骨折を治してもらってたし」
若者は袖の輪をきつく締め上げ、さらにその上から落ちていたタオルを被せる。
蓮司は急にその場から移動し、丸テーブルに置かれた粒状のものを若者に見せる。二人とも何の用途で飲むものか分からずにいたが、寝そべる雅史は小声で「大量に飲んでみたんだ」と満足げに呟く。
この場において、彼だけは意識の向く方が違っている。危機感よりも幸福を心身で得ている気がして、二人は憤りを必死に溜め込んでいた。
「絶対にダメなことだろ……このアホの身分が分かるやつを後から持ってきてくれ。俺はこいつを病院まで運ぶ」
「……何、飲んでるか分かんないしな」
「途中で倒れたりしたら面倒くせぇし、このアホが」
蓮司は部屋中を見回し、掛けてあった鞄を逆さに振ると財布が床へと転がり落ちる。
「おっ! でかした。こいつの免許かなんか入ってるか?」長財布をグイッと開き、カード類を思いっきり引き抜くと、偶然一番前には免許証と様々な病院の診察券。若者は勝ち越したような笑みを見せ、雅史を背中に担ぎ始める。
「よっっっしょ!」
一応、背中に乗せることは出来たが、か細い若者の脚力ではその場で持ち上げるのが精一杯。そんな状況に、本来は体の大きい蓮司が担ぐ事もできたが、彼は怖気ずいてそんな思考に至らなかった。
「だめだ、やっぱりお前、歩けたりしないか? 腕は支えるからさ」
雅史は急に頭痛がし出したのか、頭を強く押さえつけながらも頷いた。
「本当に大丈夫か? あの薬みたいなもんいっぱい飲んだんだろ?」
「さっきまで笑ってたし、連れて歩きで行こう」
間違いなく適量は超えているはず、それでも腕の切り口の流血は止まったようにも二人には見えていた。通行人の目は必ず拾う、そのため指周りについた血は咄嗟に拭き取る。
乾き始めた血は細々と固まっていて、力強くズボンの裾で雑に擦った。
「とりあえず、歩いて病院まで行くぞ。いいな?」二人は雅史の両肩を持ち上げ部屋を出ていく。外階段をゆっくりと下りて後は駅に向かって真っ直ぐ進んでいくだけ。文面で見れば簡単にも見えるが、何も成し遂げたことがない蓮司は急に息が荒くなっていく。
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