1-⑧
[五月上旬]
横降り春の雨。普段よりもだいぶ気温が下がり、洸吉と亜椛は両肩を窄め電車に乗り込んだ。二人で一本の傘を共有していたせいもあって、それぞれの端肩が水玉模様に濡れている。亜椛は足元よりも湿気で膨らんだ首元の髪を気にしてばかり。
平日ともあって車内はがらんと寂しげ。だが二人は窮屈にも隣り合って座っていた。話す声は誰の気にも触れないと言うのに、黙って俯く洸吉。亜椛は裾から少し出た指先で彼の脚を小突くが、何の反応も無い。
「どこで下りるか分かってんの?」
洸吉の視線は車窓のどこか、そのまま小さく頷く。
「てか、何で昨日まで晴れてたのに、急に午後から降ってくんのよ」
「亜椛中心で世界は回ってないから、少しは黙ってろ。うるせぇんだよ」
それから数十分ほど電車は移動し、川上に架かる鉄橋を渡った先の駅で二人は下りた。弱々しい雨が降り続いていたが、少し先に見える雲が晴れを告げている。
洸吉は駅に併設されているカフェで雨が上がるのを待とうと提案をしたが、亜椛はあまり乗り気じゃなかったよう、行きで使わなかった傘を刺して先に進んでいく。
「約束の時間まで一時間以上あるよ」
亜椛は足を止めて振り向き、本来向かう場所とは真逆を指差す。「こっちだっけ? 蓮司の家」洸吉はすかさず反対側を指差すと、亜椛は早足で駅前に戻ってきた。
二人が向かうのは直近で一人暮らしを始めたばかりの蓮司の家。荷解きを手伝ってくれというメールを受け取ってから二日。急遽二人は予定を合わせて片道二時間の遠い街へやってきた。
線路を支える高架の下をくぐり抜けると、数台のパトカーと見物客。亜椛は遠くから不思議そうに見つめているが、この場所で昨日の未明、若者の投身自殺が起きたそう。蓮司が住む駅周辺のご飯屋を調べていると偶然、その事件が洸吉の目に入ってきた。
歳は二人と変わらず、住む街が合っていれば学校だって被っていたかもしれない。
報道関係者は見えないものの、囲む傍観者の携帯はずっと向いているまま。洸吉は亜椛の手を無理矢理に引き、その場をそそくさと過ぎていった。
「いきなりどうしたのよ!」
「大体わかんだろ、あんまりこう言うのは目に入れたくない」
メディアが執拗に取り上げているせいか、二人の意識の中にはずっと残ったまま。若者と区別分けされているからこそ、自分は他と違うと自尊心を出してみたり。死んでいった若者の気持ちを分からぬまま大人になっていくのだろうかと思ってみたり。そんなのが過去に大勢いたはずで、だからこそ現代でも理解されずに疑問視が目立っている。
少しの知名度を誇る政治家や駆け出しの起業家は、その話題性から意見を出して反感や共感を買う。理解されようと必死に探してきた言葉と薄っぺらな加護なんてものは、若者はすぐに見抜く。薄汚い私欲と心の寄り添いに共存の未来は無い。
若さとは弱さだろうか。一掃して大人は若者を弱いと決めつける風潮が、ここ最近の日本では流行っている。確かに躾には暴力が主軸の時代は長かったが、生きている時代が全く違う。過去には無かった痛みが、現代に新しく生まれているのも事実。
そんな持論を隠し持ちながら洸吉は日々過ごしている。その影響もあり、周りの大人を常に下に見ていた。
逆に好感を得ていたのは街のカウンセリングルーム。相談や心の回復の知恵を世間に流して学校などでは講習を開いたりしている。亜椛の兄弟が講習を受けたと言う話を聞いたが、奥底に響く人はほんの一握りの印象。
死んでいった三人の若者が残した〝詩〟ほど、心を動かしたことは現状では無い。
洸吉はぼんやりと考えことをしていたせいか、深い水溜りに勢いよく足を浸けた。
「ねぇっ! 私にも掛かってる!」同じく後ろをぼーっと歩いていた亜椛は声を荒げ、泥水を手で払う。「悪い……ぼーっとしてた」
「何格好つけてんのよ」
「いや、本当にぼーっと考えことをしていた」傘を叩く雨粒が一定間隔で音を鳴らすせいで、意識が足元から遠のいてばかり。
「分かるよ、洸吉が何を考えてるかなんて」
「何年も一緒にいると分かってくるもんなのか……さすがだ。答えてみろ」真後ろの亜椛はぼそっと「会えなくなると思ってるでしょ?」と答えた。
雨音にかき消されるほど声は小さかったが、同じ事を思っていたせいですんなりと音を拾った。亜椛は早足で洸吉の横に並び、傘を傾けて視線を向ける。
「流石に徒歩圏内に三人が住んでなきゃ、いつもみたいに公園に集まれないよね」
「まだ亜椛がいるけど二人で集まってもなぁって……気が滅入る」
下りた駅からはだいぶ離れ、騒がしかった線路を擦れる音もパッタリと止んだ。二人はようやく直線道を外れ、似たり寄ったりの家がずらりと並ぶ住宅街へと入る。一段上がっている歩道は真新しく舗装され、靴底が水溜りに浸る感覚も全く無い。
洸吉は携帯で地図アプリを開き、ブツブツと一人事を漏らしながらぐるりと見回す。「何? ここら辺に蓮司の家があんの?」
「多分……分かりやすいように赤いタオルを干してあるって昨日言ってて」言葉を頼りに亜椛も二階付近を見回すが、どの建物にも赤色は含まれない。
「待って、雨の日に洗濯干す奴なんていないでしょ。なんか他にないの?」
洸吉も事前に連絡はしているが、一向に返信が来ていない。
「送っても返ってこないし、電話してもなんか繋がらないし」
「何それ? せっかく家に行くことは約束してたのに」亜椛は携帯を取り出し、そのまま蓮司へ電話を掛けるが、繋がる素振りも見せてはくれない。
傘を脇に刺し、首を傾け再度掛け直すも変わらず。
「だめだ、約束の時間だし。そろそろさ……」
亜椛は向かいを歩いてきた女性に、地図が示す場所を聞こうと走る。だが、その女性は口を大きく開き、傘を後ろに傾け斜め上の方を見つめる。その為、かなり近づいても視線が合うことがなかった。亜椛も不思議に思い、振り返って斜め上あたりに目を配る。
そしていきなり、隣にいた女性が叫び始めた。落ち着いてきた雨音の静けさをつん裂くよう、亜椛の心音は一瞬で跳ね上がる。少し奥で立ち止まって携帯を見ていた洸吉もすぐに気がつき、後ろへ振り返る。
「------だっ、誰かっ! と、止めて!」と言う叫び声と共に、二人が目を向けていなかった地面の方から、何かが潰れる聞きなれない音がした。
隣の女性は限界まで声を張り上げたのだろうか、掠れた声が静かな住宅街を突っ切っていく。
先に視線を地に下ろしたのは亜椛。耳周りには音がなく、目から脳までの数ミリも満たない距離を意識は滞る。そして数秒後、「嘘」と言葉を漏らした。
女性は歪な姿勢のまま傘を放り投げて走り出し、洸吉の横を一瞬で通り過ぎる。
洸吉は足先をジリジリと地面に擦り付け、唇をうっすらと動かす。近くで見ていた亜椛が気になり、膝の関節に塊のような物が付いた感覚のまま進んでいった。
上から落ちてきたものは、人の形をした影と醜い音。一度は弱まった雨だったが、気が付けば刺すような大粒に。頭上には黒々したモヤが分厚く掛かり、昼間時には似合わない薄暗い翳りが宙を覆う。
洸吉は傘を手放し、その落ちてきた影に向かう。
「何してんだよっ! お前が絶対に……」
今日は雨が降っていたからなのか、周囲が駆けつけ騒ぎ立てることもなかった。亜椛はその場で雨に包まれながら、とある言葉を呟き続けている。
それは死んでいった三人が残した〝詩〟であり、彼女が普段から嫌っていた〝詩〟
「なぁ、亜椛! そんなとこで何ぶつぶつ言ってんだ、何とかしないとっ!」
言霊にでも縋っているのか、亜椛はその場から動くことなく見下ろしているだけ。
「亜椛! お前を一番大切にしてくれた蓮司だ------」
その瞬間------ドンッと言う物音と共に洸吉はベッドから跳ね起きた。
少し先に見える空に、黒色は一切含まれていない。
首元の筋肉がじわじわと収縮していくのが手に取るように分かる、視線の先にある壁には数秒前の情景がぼやけて映っていた。
誰かが飛び降りた夢を鮮明に見ていたよう。両手のひらはじっとりと汗ばみ、胸奥を執拗に突いてくる心音。思えば、落ちてきた影は果たして蓮司だったのかと迷う。
「びびったわ……こんなクソみたいな夢あんのかよ」
洸吉はカーテンを開けて部屋中に日光を迎えた瞬間、ふと思い出すことがあった。
開けた動作など何のきっかけにもなってはいないが、最後に亜椛が呟いていた。
〝詩〟
意識して聞いていた覚えはないが、洸吉はその言葉を無意識で口に出し始める。
【幇間になるなと言い聞かせ、そいつはそれを演じたまま落ちていった。
厳しくあり、図らずも終わりを告げず、そいつはずっと演じていたのなら。
落ちた先がまた同じ世界でないことを、今は祈る。
助けられなかった僕が、そう悲しい顔を作って言っているだけ。】
こんな夢を見たのはおそらく、眠る前に蓮司から友人の雅史が亡くなったという旨の電話を受けただろうか。図らずも頭の中で繰り広げられた想像は、昨今の情勢に則り哀しいものを見させてくる。頭を抱えながら洸吉は再びベッドへと戻り、頭の先まで布団を被って目を瞑る。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます