1-⑥

 水色の空にはモヤがかからず、風は前髪を少し揺らす程度の良き春の日。

 何処からか車を借りてきた蓮司は、洸吉と亜椛を連れ海沿いを目指して進む。遠出は何度もあったが、車に乗って何処かに行くのは今日が初。


 薄暗い公園に慣れた三人だけの視界には、眩しすぎるほどの景色と体感。ナビは過保護に右左折を教え、二時間も経つと海街を漂わせる建物が増えてきた。


 助手席には亜椛、後ろでは両端に置かれた荷物に埋もれる洸吉。ハンドルから手が離せないと、蓮司は飲み物を飲ませてくれと亜椛に頼み込む。緩徐で嫌な表情がついていたが、悦楽な顔をして水を飲む姿に洸吉は不機嫌に声を荒げる。


 「前の席で変なことすんな! 違う酔い方するわ!」


 「しょうがないでしょ! 知らない道なんだから、よそ見は危ないし!」


 声は何倍にもなって返ってきた。

 先に黒々とした水辺は見えたが、中々辿り着くことはない。海の匂いとやらも分からず、感覚で真っ直ぐに進んで行くだけ。旅としては満点に近いような自由奔放度。


 「ねぇ蓮司。到着までどれくらい?」


 「あと十分。何? トイレ?」


 「うん」


 「我慢して、コンビニあったら寄るから。何と無くこの道行けばありそうだし」


 「待ってる」


 二人の単調な会話を聞いた洸吉はさらに顔を顰め、車内に響くよう舌打ちをした。蓮司はフロントミラーで彼に一瞬視線を向ける。黄昏さのある目の開きと、寂しそうな横顔。


 「分からんが……洸吉は拗ねたそうだ」


 亜椛も後ろへ振り向き、洸吉と呼んでみるが反応はない。「何? また何か思い出してるの?」洸吉は首を横に振る。


 「じゃあどうしてそんな顔してんの? さっきまでの生きのいい表情はどうしたよ」

 洸吉は横の景色から目を離し、亜椛を見つめる。数秒、無言になったのを不思議がり蓮司は「何かあったのか?」と咄嗟に繋げた。


 「……二人はよく似合ってる、ずっと見てきて今、そう思ってた」


 そんな言葉は洸吉の予想通り、気まずい雰囲気が狭い車内を覆った。

 

 スッと姿勢を前に戻した亜椛は「アホくさ」と呟き,蓮司は反対に頬を赤らめる。


 「ちょっと落ちている蓮司を支えるのは、やっぱり亜椛なんだなって思ってさ」


 「何? ちょっと落ちてるって」


 「あれ? 亜椛には話してないのか?」引っ越しの手伝いの際に聞いた、蓮司の友人の件を亜椛だけは何も聞かされていなかった。


 「なんで? 何があったの?」


 蓮司は特にごまかす事もなく、古い友人が命を絶とうとしていることを簡潔に伝えた。

 「……何で話してくれないのよ、洸吉は知っているのに」


 「だってそういう話、苦手だろ? 亜椛には黙ってるつもりだったし」車は信号で止まり、蓮司は俯く亜椛を視界の端に映す。こうなることを分かった上で、あえて蓮司が黙っていたのは気遣いでもあり、優しさであることを理解して欲しいと願うばかり。大事に思うのは大前提で。


 洸吉は咄嗟にペットボトルを手に取り、沈む亜椛の頬元に近づける。


 「次は俺が飲ましてやろうか? さっきみたいに」亜椛は思い切り手の甲で払い退け、「いらないわっ!」と声高らかに怒鳴る。


 「------まぁ、そんな事もあるからさ支えてやってくれよ。俺よりもさ」再び車は走り出し、数分後には海沿いの道へ。

 


 目的地である海浜公園の駐車場に車を止め、三人は車から降りた。日焼けを嫌う亜椛は帽子を深々と被り、蓮司は何も言わず早々とトイレを探しに行ってしまった。


 車の前に残された洸吉と亜椛は互いに目を合わせる。


 「何を考えて、いきなりお似合いなんて言い出したの?」


 「蓮司が引っ越しちゃう前にきっかけを作ってやったんだよ、独断でな」

 亜椛の表情は思っていたより、嫌がってはいないようだった。


 「蓮司は死ぬ間際とかじゃないと、寂しいなんて口に出ないだろうからな」


 「いつからそんな事思ってたの? 最近?」


 「忘れた……けど、蓮司がずっと好意持ってたのは知ってたからな」


 「そんなの何年も前から気づいてたわ」


 トイレの場所を見つけた蓮司が奥から走ってきた。表情は空にも負けず晴れやかで、何故か亜椛に向けて手を振っている。


 そんな無邪気な蓮司を見ながら「あれを、私が好きになると思ってたの?」と呟く。


 「あんな嬉しそうな顔してる、今日が勝負な気がしたんだよ。二人のさ」


 亜椛は無表情で手を振り返し、すぐに背を向けて海へと向かった。


 「あれ、トイレはいいの? 結構綺麗な感じだったよ、結構ゆっくりできそうな」と遠くから蓮司の声が聞こえてくるが、デリカシーのない言葉に返す義理はないと、無視して背を向け続ける。

 

 三人が昼食をとったのは、海沿いを歩いていた時に偶然見つけた個人店の蕎麦屋。高い天井にぶら下がるオレンジ色の電球、それに被さる湯煙。年季の入った木目のテーブル席に通され、蓮司は亜椛の横へ座る。


 客数は昼時ともあって満席に近く、しゃがれた声が溢れていた。相当な距離を晴天の下歩いたが、向かいに座る洸吉だけが背筋を張って笑顔を作る。


 「何二人して疲れてんだよ」


 前の二人はメニュー表に視線を落とすも、亜椛は脱力しそのまま伏せてしまった。


 「うるさい奴がやっと静かになったか」頼んだ蕎麦が運ばれてきた頃にようやく亜椛は起き上がった。箸を持つことすらままならないのか、手首をぶらつかせてため息をつく。


 「蓮司、食べさせてやれ。チャンスだぞ、今しかない弱ってるのは」

 そんな言葉を聞いた亜椛はスッと姿勢を正し、箸を難なく持つ。


 「ほら……せっかく片方が風邪をひいた夫婦ごっこできたのに」


 「何馬鹿なこと言ってんの? 早く食べな、ベラベラ喋ってないで」


 言葉選びのセンスが光る煽りにおいて、洸吉は一度調子に乗ると止まらない。そんな事を数年かけて理解している二人は、何も返さず平静を装う。

 竹すだれに盛られた艶良く光る蕎麦を、嘲笑な笑みを浮かべて洸吉は啜る。


 「次、揶揄うようなこと言ったらここに置いていくからね」蓮司はそんな二人を置いて黙々と食べ進める。


 「置いてくなんてそんな酷いことしないよな? 蓮司くん」噛んでいたのか、それとも大きく飲み込んだだけか、蓮司はそんな問いかけに首を縦に振る。


 「……どうやらこの中に、私の味方はいないみたい」


 三人は数十分後に蕎麦屋を出て、もう一度海沿いの通りへと戻った。

 

 亜椛は日陰で休んでいると言い出し、風情には合わない洒落た椅子に座る。影を作っていたのは果実が実る大樹の枝葉、風が吹けば大袈裟に揺れ音が鳴っていた。


 一方の洸吉と蓮司はコンクリで固められた堤防を進み、亜椛の前では声にしずらい話をつらつらと交わす。楽しげな表情の裏には多くの我慢があった事を、後に洸吉は知る。


 続いている話は以前、蓮司が打ち明けた危ない友人のこと。


 「------この前、あいつから連絡が来たんだよ。久しぶりに会おうって」


 蓮司は携帯に友人との会話した画面を写す。文末に絵文字を使っている素振りは、いかにも明るい人を演じているように見えなくもない。


 再来週に引っ越す新居と場所が近いと言う事もあり、実際に顔を合わせたそう。


 「特に変わった事はなかったけど、何度も俺にあの〝詩〟を勧めてきた」


 「あの〝詩〟?」と白々しく洸吉は問い返すが、うっすらと意識の中にある。死んだ三人の言葉に影響されたのは、世間も蓮司の友人も同じだった。


 「俺はあんまり文字とか苦手だからって言ったんだけど、無理矢理にそいつは読み上げ始めて……でも案外、腑に落ちるようなこともあってさ」


 「そうなのか」と呟いて会話を繋ぐも、道先の堤防はここで途切れてしまった。先に見えるのは一段下がった場所にある、来た道を振り返るも亜椛の姿は全く見えない。


 蓮司は立ち止まり、「あいつはもう、何をやっても自分を突き通すんだろうな」と寂しげに話す。諦めの含んだ眼差しは、貝殻が無雑に破り捨てられた下を向く。


 「蓮司まで落ち込んでたら意味ないだろ? 支える棒をかって出たのなら最後まで折れずに立っていてやれ」


 「相変わらず言葉のセンスが光ってる、嫌なほど」


 洸吉は蓮司の背中を平手で思い切り叩き、取り付いた外側の悲哀を吹き飛ばす。


「でもまぁ、悲しみとかって伝染しちゃうよな。俺も久しぶりに海に来て……ちょっと昔を思い出してる、全然涙が出るような事じゃないけれど」


 「昔に家族で来たとか?」


 「いや、あんじゃん、そう言うのって」


 「誰だ? ずっと知ってるけど海に行けるほど、仲良い奴なんていたか?」そんな問いに洸吉は微笑みだけを見せ、何も答えず来た道を一人で戻っていく。

 

 犬に手を引かれ海沿いを歩く女性は、追い風に吹かれているかのよう早足で二人の目の前を駆けていく。反対側を見ると腕を組んで歩く男女が、携帯のカメラで思い出を量産している。声までは聞こえないが、少なくとも二人のような愁嘆さは感じない。それなのに俺たちは、なんて事を思ったりもした。


 二人は数十分歩き続け、ようやく木の下の椅子に座る亜椛が視界に入る。寝ているのか、先の海景色を見ているのか、じっと姿勢を崩さぬまま時間が過ぎていく。


 太陽は輝きの割に熱は放たず、心地の良い涼風を送り始めた頃に三人は合流し車を停めた駐車場に向かう。亜椛はすっかり体力を戻し、変わらず怒号が車内を伝う。


 撮った写真は数枚であれ、交わした言葉はいつも以上に明暗がはっきりとしていた。そんな両面を恥じずに出せたのも、経た数年間があったからなのだろうと、後ろの席で目を瞑る洸吉は思った。行きと変わらず、前の席で二人は仲良く話続ける。

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