第3話
「あー、それ歌う用なんだ」
「歌う用……?」
消毒液等を手にしながら、私の視線に気が付いた明里さんが教えてくれる。
「歌ってみたって言うのをやっていてね。配信とかで歌ったりもしてるんだ」
「歌ってみた……?」
だからマイクもあるのか。
大人しく手当をされながら、私は食い入るように機材を見つめてしまっていたらしく、明里さんは笑う。
「歌ってみたってのは、まぁ自らカバーして歌った歌をSNSや動画サイトにアップしたりする事かなー」
「……カラオケとは違う……の?」
恐々と聞き返せば、一瞬明里さんはキョトンとした顔をした後、また笑い出した。
「確かに知らない人からすればそう思えるかもね! だけど、歌うだけじゃなくて見えない所の努力もあるんだよ~!」
マイクにマイクスタンドやポップカードを付けて綺麗な歌声を取れるようにして。オーディオインターフェースを経由して高性能のパソコンに繋いで。DAWと呼ばれる録音音声編集ソフトを使って録音した後にMixと呼ばれる作業をする。
「Mix……?」
知らない単語が沢山出てくる中、全く理解できない作業の話が出た。
首を傾げて呟けば、明里さんは更に懇切丁寧に教えてくれる。
曰く、音声のノイズを消したり、イコライザーの調整、更にオーディオミキサーで音のバランスまで調整を行う。そして動画と音声を合成する……。
その説明をされている間も、知らない単語が出て来て、既に脳が飽和状態だ。
未知の世界すぎて理解が追い付かない。
改めて明里さんの事を凄い人だと思い、尊敬する。歳もそう変わらなさそうに見えるのに。
「まぁ全く知らない人が聞けばそうなるよね~」
話を聞けているようで聞けていない私に対し、明里さんは不愉快になるどころか目に涙を浮かべて笑った。
「智ちゃん、歌うまかったけど、こういうのやらないの? 興味ない?」
「興味は……」
ある。
あるのだけれど……全く理解出来ていない自分に恥ずかしさが込み上げた。
やりたいからやる、なんてよく簡単に言うけれど、無知すぎる場合はどう踏み出せと言うのだろうか。
立派なマイク……あれで歌うだけで、心が浮足立つだろう。カラオケのマイクなんかとは比べ物にならない。どれだけ気持ち良いものなのだろうかと。
「ならアプリはどうだ!」
私の視線に気が付いていた明里さんは、とあるスマホアプリを開いて私に見せてきた。
それはカラオケアプリのようで、色んな人が歌をあげている。
「簡単な自動ノイズ消しやイコライザーとか、調整とかなら出来るし……あれだけ上手いんだから歌ってみたら良いのに!」
目の前が開けて、新しい世界への扉が開くような感覚に襲われた。
勉強、勉強、勉強。寝ても覚めても勉強づくし。
生きているのか死んでいるのか分からなくなる程、感情すら全くない人形のような日々に現れた「楽しみ」「楽しさ」は私の感情を強く揺さぶる。
「さっき歌ってた曲もあるし! 家帰ってから歌ってみたら?」
一気に現実へと引き戻され、絶望のどん底へと叩きつけられたかのように息が詰まった。楽しみという感情が息をひそめた変わりに、悲しいという感情と……怒りのような感情が沸き起こった。
楽しみを楽しめない、勉強ばかりさせられるという現実。
「……どうかした?」
「……親が厳しくて……」
表情に出ているのか、私が何も言わずとも察して声をかけてくれる明里さんのおかげで、口火を切る事が出来た。
……言いにくい事だけれど、折角誘ってくれたから断りの説明はすべきだろう。
そんな気持ちから簡単に説明するつもりが、聞き上手な明里さんのお陰で愚痴へと発展して全てを曝け出してしまった。というか、それだけ自分に不満が溜まり溜まっていた事にも驚いた程なのだけれど、家を飛び出してきたという辺りで明里さんは厳しい表情へと切り替わった。
「それ、帰った方が良いから」
「え」
明里さんから放たれた言葉に息を飲んだ。
先ほどまではずっと肯定的だったのに、いきなりそんな現実的な事を言われ心が戸惑ってしまった。
「親のお金で生活して、学校に行かせてもらってるんでしょ? 自立していないのだから、せめて家に帰るべきだよ」
「……」
正論すぎて返す言葉が見つからない。
厳しい目をしていた明里さんだけれど、少し呆れたような表情をして更に口を開いた。
「私、19なんだけど中卒で、今まで自立してきたんだよね」
ポツリと話された身の上話。
どうやら芸能関係の高校へと進学したかったけれど親の反対にあって受験すらさせてもらえなかったらしい。せめて不合格ならば自分の中で消化できたのに、それすらさせてもらえないのに悔しくて、そのまま高校へは行かずバイトで生計を立てて家を出たと言う。
……目から鱗とはこの事だろうか。
驚き、呆気に取られてしまったけれど、そんな道もあるのだと思った。
「智ちゃんは、まだ何も戦ってないよね」
心に更なる衝撃が走る。
高校に行く事が全てではないし、親の庇護下に居る事もまた自分で選び取れば良いのかと。
――でも、私が本当にやりたい事は何なのだろうか。
心が葛藤する。
試したい、探したい。だけど親の庇護下を離れてしまう怖さもある。
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私が奏でる不協和音 かずき りり @kuruhari
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