スマホのロックが開きません!
千瀬ハナタ
スマホのロックが開きません!
朝、スマートフォンのアラームの音で目を覚まして、その音を止める。指紋認証……ああ、ソフトウェアアップデートが入ったのか。再起動のときはパスコード入力が必須なのだ。流れ作業のようにパスコードを入力する。
と、バイブが鳴り、錠前のアイコンも震えた。どうやら入力を間違ったらしい。寝起きにはよくあることだ。再び入力する。もう一度、アイコンが震えた。
……おかしいな。また打ち間違えたのか。
少々冷や汗をかきながら、もう一度入力する。今度は、画面が暗くなって、『再入力は一分後』というメッセージが浮かび上がった。
導き出される答えはただひとつ。……どうやらパスコードを忘れたらしい。
最後にパスコードを変更したのはいつだったか。ここしばらく指紋認証でロックを解除していたので、よく覚えていない。
知ってる。こういうときは焦ってはダメなのだ。前に友人が、無理に入力し続けて初期化する羽目になったとかぼやいていた。その友人は中学のときの同級生なのだが、現在は別の高校で写真部に所属しており、大事な行事写真のデータのほとんどを失ったらしい。
このことは誰にも言わず、墓まで持っていくのだと笑っていた。いや私に言っている時点でもうだめなのではなかろうか?
とにかく、今日はロックのかかったスマートフォンを携えて高校に向かうしかない。
通学電車はなにか物寂しい。そんなにスマホを見ていた記憶はないのに。私にとってスマホは心の安寧だったのか……!
「深春先輩、おはようございます」
「……ああ、チカちゃん。おはよう」
彼女は私の所属するテニス部の後輩だ。耳の下あたりで切り揃えられた髪が、電車の窓から差す光でキラキラと輝いている。
「どうしたんです、そんなにスマホを凝視して」
「いや、本当にバカだと思うんだけど、スマートフォンのパスコード忘れちゃって」
「あー……それはちょっとおバカさんかもしれませんねえ」
「本当言い返す言葉もないから笑えないんだよね。チカちゃん、なにかアイデア思いつかない?」
「うーん、私はずっと“111111”だからなあ……」
「それはそれで変えた方がいいけどね?」
そう言うと、彼女は冗談ですよと笑った。彼女のことだから本当にあり得るので笑えない。
「真面目な話、こういうのは絶対忘れないものにするんですよ。まあ、誕生日とか」
誕生日。あり得そうだ。
しかし、自分の誕生日を入れても、解除されなかった。画面に『再入力は五分後』と表示される。
「自分の誕生日はセキュリティ的に甘いでしょ。無難なところでは親とか友達とかじゃないですか? ……まあその場合人の誕生日を忘れてることになりますけど」
……交友関係的にも支障が出る可能性が出てきた。なんとしても思い出さなくては。
学校の最寄り駅に到着し、そのままチカちゃんと一緒に登校する。夏はもう終わって、9月も半ばだ。来週は涼しくなるというが、残暑の熱気はまだ尾を引いていて、歩くだけで汗ばんだ。
「それ、リンゴ社でしょ? 確か入力限界十回でしたよね。それ以上だと、リセットかも」
「ええ……それはダメだ。もっと慎重にならないと」
どうやら某リンゴ社はセキュリティがしっかりしているらしい。いつもはありがたいが、いまとなっては恨んでしまうのも許してほしい。
「今何回目なんです?」
朝、すでに三回やったから、今のも入れると……。
「あと六回だ」
「あんまり余裕ないですねえ」
チカちゃんは一度部室に寄るというので、一旦校門前で別れた。大きく手を振る彼女の明るさが今の私にはまぶしすぎた。
「深春先輩、健闘を祈ります!」
……パスコードに健闘ってなんだ?
結局、一日何の収穫もなかった。それどころか、授業に集中できず、部活にも身が入らず、収穫はマイナスと言ったところだ。
風呂に入ってさっぱりした体を、ベットに預ける。明日の予習とか今日の復習とかやることは山積みだがどうも気分じゃない。
よく考えてみると、消えて困るデータなんてない。デジタル人間じゃないので、そもそもスマートフォンをそんなに使わない。じゃあ、リセットしても別にいいのでは……と思ったとき。
なぜか……それだけはダメだと、誰かが囁く。それは私の声のように思えた。
緊張感で指を強張らせながら、今日考えついたなかで最もそれっぽかった番号を入れる。去年亡くなった私のおじいちゃんの誕生日だ。
スマートフォンが震える。
あと五回。
翌朝、昨日と同じ電車の中で揺られる。満員電車というには隙間が大きいが、それでもそこそこ混んでいるラッシュ時の車内の中でさえ立ったまま寝れそうだ。まずい、今日は朝から単語テストがあるのに……。
「深春せんぱーい」
人混みを掻き分けこちらにやってくるチカちゃんはどうやら肝が据わっているらしい。
「今日も同じ電車だ。最近早いですねえ」
「早いかなあ。このくらいで普通でしょ」
そういうとチカちゃんは少し首を傾げながらつぶやく。
「でも、先輩一学期は結構ギリギリだったじゃないですか」
「……あれ、そうだっけ」
「そうですよー。先輩、結構心配性なのに集合時間だけはルーズだなーって」
四月に出会ったばかりの後輩にここまで分析されているなんて、私はなんて分かりやすい人間なのだろうか。
とはいえ、チカちゃんの言うことも引っかかる。私は不安がるほうのタチで、どちらかといえば早めに行動しておきたいタイプだ。しかし思い返せば確かに私は一学期、三分前とかに教室に滑り込んでいた気がする。
「んー。夏休み明けたからかなあ」
「変わっちゃったんだ先輩……」
「それどういう気持ちなの?」
チカちゃんは分かりやすい(のであろう)私をいじる節がある。多分面白がられてる。
「そういえばどうなりました? パスコード」
「……どうだと思う?」
「……開いたに賭けます」
「ざんねーん」
苦笑い。そりゃそうだ。コメントしづらいだろう。
「えーっと、多分大丈夫ですよ!」
「いいんだよチカちゃん……もうダメでしょって言って」
「深春先輩は、ほら! 思慮深いタイプですから、なにかそのうち閃きますよ」
フォローが最早つらいよチカちゃん。
朝の教室はすでに数人のクラスメイトで賑わっていた。あまり仲の良い人もいないので、一時間目の単語テストの準備を続ける。
所謂ぼっちで過ごす教室ほど虚しいものはない。好んでひとりでいるひともいるだろうが、あいにく私はそうではない。こんなことなら、チカちゃんについていって部室で時間を潰していればよかった。
ひとりで過ごす教室は、時間が過ぎるのが遅い。スマホも使えないから余計にそう思うのかな。
高校生の夏休みは案外長くて、登校期間はあるものの期末テストが終わる七月頭から八月の終わりまでは授業がない。二ヶ月も空いて仕舞えば正直一学期の習慣なんて忘れる。だからか、一学期の自分がどうやって過ごしていたのか、思い出せないのだ。
「おはよー。どうしたん、めっちゃ疲れてそう」
「……ああ、ゆきりん。分かる? 昨日からパスコードが思い出せなくて」
ゆるい関西弁で話すゆきりんは、癒し的存在だ。少々声が通りやすく、話し声が教室中に響き渡るのでヒソヒソ話が出来ないのが玉に瑕だが。
「自分で決めたやつを忘れたん?」
「そう。やってもたわー的な?」
「えーイントネーション違和感すごいからあんまりやらんほうがいいよー」
ネイティブ関西はエセ関西弁には結構厳しい。
「相当ショックなんやねえ。今にもナトリさんに憑かれそう」
「……というと?」
「今年のほん怖見てないん?」
みんながみんな見ているわけではないと思うし、ぶっちゃけ興味も薄いが、続きを促した。
「なんでも、大戦時に恋人を戦地に送り出して、結局忘れられて浮気されちゃった女の人の霊らしくて……」
どうしよう。止めようにも止められない。すごく楽しそうだし、自らが促したゆきりんの話をさえぎれるほど親しいわけでもない。
救いの手を求めあたりを見渡したとき、始業の鐘がなる。まさしく救いの手だった。
部活も終わり、明日は土曜日という喜びを胸に帰宅する……わけにもいかない。金曜日は塾の日だ。うちの学校はまあまあの……というか市内で一、二を争うくらいの進学校で、一年生の頃から受験を意識させられている。そのため、学校からの課題はほとんどないものの、周りの意欲も高く、少しサボるとあっという間に取り残されてしまうのだ。いや取り残されている、現在進行形で。
さて、晩御飯は何を食べようか。近所にある店舗といえば某蔵の形をした回転寿司チェーン店だが、ひとりで入る回転寿司ほど寂しいものはない。
解決していない問題があるからか、今日はより一層憂鬱だ。
結局、少し歩いたところにある赤地に黄色のMが特徴的なファストフード店に入った。スパイシーなチキンのハンバーガーを注文して席に着く。
今日考えた中で一番それっぽかったパスコードは…大学入試共通テストの日程とか。覚えておきたい日付ではある。
入力するも…だめか。
あと四回。
とか言っていたのがもう三日前のことだ。妙に身の入らない土日そして祝日を過ごし、明日は火曜日。
やだなー。明日からまた学校だ。パスコードも一日一回ずつ試し、もうあと一回しかチャンスがない。
九月二十四日、午前〇時を針が指す。
ああ、誕生日だな、と思った。せっかくだから、電話をしよう。出なかったらメッセージを送っておくだけでもいい。
……え?
誕生日って、誰のだ。
ベッドの上で投げ出していた体を起こす。電気を付けるのも億劫だ。手探りでスマホを探し出し、画面をつける。
無情にも、『7時間後にもう一度試してください』と表示された。そうだった。一時間前に試したばかりなんだった。
もどかしい。心臓の鼓動が早い。
私は浅い眠りのまま朝を迎えた。
午前五時四十分。まだ入力できない。私は洗面所に行き、顔を洗った。
午前五時五十七分。朝ごはんを食べ始めた。まだ、入力できない。
午前六時八分。朝食を食べ終わった。まだだ。
午前六時二十四分。勉強机に向かい、数学のワークに取り掛かる。しかし、なかなか進まない。
午前七時九分。画面のロックが解除された。
震える手でパスコードを入力する。正真正銘、最後の一回だ。
“070924”
見慣れたホーム画面が浮かび上がる。
それは、あの子とのツーショット写真。
どうして忘れていたんだろう。
幼馴染で、小学校から高校までずっと同じ学校。毎日同じ通学路。今年は五年ぶりに同じクラス。あの子は登校時間のギリギリを攻めるタイプで、チャイムが鳴るまでに教室に滑り込む挑戦に何度も付き合わされた。
一緒にいれば、スマホなんて必要なかったのだ。
カバンを背負い、いつもの待ち合わせ場所に駆け出した。
◇◇◇
高校生のときに書いた、前作『某リンゴ社のスマートフォンは私にとっては無常であった』の元となった話です。曜日だけ今年に合わせてみました。
最後はバタバタ終わった感じですが、手を加えるのもアレなので皆さんの解釈にお任せします。
スマホのロックが開きません! 千瀬ハナタ @hanadairo1000
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