第13話 溜め涙

 平和な時間を過ごしていたと思っていた。まさか、一瞬にして世 界が変わるとは思っていなかった。結愛の体は歩道にある花壇のそばに投げ出されていた。知らないサラリーマンのおじさんに心配される。


「あの、大丈夫ですか? けが、されてますよ。救急車呼びましょうか?」

「え……」


 はっと目が覚めると、救急車のサイレンが鳴り響いている。自分の体以上に横断歩道で流血している男性がうつぶせで横たわっていた。通りかかった救急車は彼のためのものではない。今にも死にそうな患者が運ばれている。ここにいる碧央を運ぶ救急車はまだ誰も呼んでいない。現実を受け入れられない碧央と一緒にいた彼女が結愛に近づいた。


「あんた、何してるの!? 私の碧央が死んだらどうしてくれるの! 碧央じゃなくて、あんたが死ねばよかったのよ。碧央、目を覚まして、今救急車呼ぶから」


 大きな声が街に響く。心配して声をかけてくれたサラリーマンの男性はいつの間にか立ち去っていた。名前の知らない彼女のスマホの持つ手が震えていて、救急車を呼ぶこともできずに動揺していた。碧央に近づいて容態を確認して、着ていたワンピースの服が血だらけだ。

 

 結愛は、彼女の代わりに救急車を呼んで立ち去った。

 


――――真っ白な世界に移動したみたいだ。

 碧央は、歩道を歩く結愛を見つけて、すぐに右折してきたトラックに轢かれそうになるのをどんと体を押して、身代わりに助けた。想像以上に強く押していたため、花壇に足をぶつけていたが、かすり傷で済んだ。その分、碧央の代償は大きかった。全身を強く打ち、頭から血を流していた。意識が朦朧としている。


「ここは、どこだろう」

 真っ白なシャツにズボン。こんなコーディネートしたことない。何もない世界。死んでしまったのだろうか。真っ白だと思ったら、すぐに切り替わって、花畑がたくさん見えた。色鮮やかで綺麗な場所だった。平和な空間でいられるものならずっといたい。遠くで何年前かに亡くなった祖父母が手招きしている。直感でまだあっちにはいかない方がいいだろうと考える。後ろからは、さっきまで一緒にいた彼女が名前を呼ぶ。その声が結愛だったらいいのになと淡い期待を寄せる。今呼ばれなくても、生きていれば、きっと会えるかと納得させて、生きることを望んだ。


 はっと目が覚めると、病室の上、酸素マスクをつけられて、心電図の音が響いた。


「碧央!! 碧央!! 良かった。目が覚めたのね」

 交際を申し込まれた彼女が呼ぶ。未だに名前は思い出せない。事故を起こしたからではない。覚えていないだけ。その隣には母がいた。


「碧央もいつもむちゃするから。良かったわね。目が覚めて……」

「…………」

 

 目が覚めたばかりで話すことはできなかった。頭が殴られたようにガンガン痛む。


「ギリギリのところだったらしいわ。頭ぶつけてたからね。でも、大丈夫そうね」

「よかったですね」


 母と彼女は安心して、ずっと碧央の様子を見つめていた。まだ生きていることに信じられなかった。体は動かせるが、まだ頭は痛む。包帯をぐるぐるに巻かれていた。



◇◇◇

 

 (私は彼女じゃない。そんなのわかってる)

 救急車に碧央が運ばれてすぐに結愛はそわそわとした。助けてもらったのにお礼一つも言えてない。安否も分からない。自分が碧央の命を奪ったようなものだ。街で買い物に行く途中だったがそれどころでは無く、すぐに家に帰り、シャワーを頭から被って心を落ち着かせた。結愛は自責の念に駆られ続ける。


 彼女の言葉が胸に突き刺さる。


『あんたが死ねばよかったのよ』という言葉が何度も頭をめぐる。どうして、自分なんかを助けたのか。そのままにしておけば、トラックにはねられたのは自分だった。助けてくれなんて頼んでない。ぎゅっと両肩を抱きしめて、シャワーを浴び続けた。足の擦り傷がじんじんしていた。大したケガじゃないはずなのに。


 本当にどうして余計なことをするんだと安心して眠ることができなかった。

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